一章 焦眉 5
六月二十八日
いつにも増して疲れた日だった。
照明の落ちた室内、目の前にある紫一色のクロスが掛けられたテーブルの上で、妖しく踊る蝋燭の炎に照らされて一枚のカードが置かれていた。
そこには中央に大きく時計の文字盤が刻まれたような車輪が描かれ、カードの上部に「
向かって逆に置いてあるそれは逆位置を示し、タロットではこれをどういう意味で現れたのかその意味する所を汲み取るのだが、正位置か逆位置かで意味合いが違ったり、他のカードとの組み合わせでもまたその意味は違ってくる。
基本的にこの「運命の車輪」一枚の逆位置で解釈するならば、事は悪い流れに向かっており、それは定められた運命で、決して逃れられない事を意味していた。
小麦は少し不吉な思いになるが、そのままカードを全てかき集め、元の形に並べ替えていく。
占いなどという
母親は小麦に、自分の芯を強く持てと教えてくれた。
「人間は誰しも長所と短所が有り、どちらも必要不可欠で愛すべきもの。あなたが他の子にいじわるをされるのは、あなたが持っている素敵なものをその人は持っていないから、嫉妬してしまうの。逆にその人が持っているものをあなたは持っていない。それは特別なことではなく、誰でもそうなのよ。それを羨ましがってはいけない、あなたはそれよりも自分の好きなこと、自分に与えられたものを大切にしなさい」
母親はよくそう言って小麦を励ましていた。
小麦は十月末の生まれで、
この世界はむせ返るほどに汚れきっているけれど、用心深い自分は嘘や
事実、小麦はいくら自分がいじめの対象にされようとそれを全く気にかけず、友達になってくれた仲の良い大事な人たちとだけ付き合いを続けた。苦しくはなかったし、そんな姿に畏敬の念を抱くものも少なくはなく、小麦の周りには自然と大勢の友達が集まっていった。
そうして
このような経験から、小麦は芯の強さへのこだわり、そして自分を手助けしてくれた占いに興味を持ち、最初は真似事のつもりで友達を占い始めた。占星術はもちろん、様々な占いを一通りかじったが、一番自分の性に合っていたのはタロットだった。そしてそれが妙な事に「当たる」と周りで評判になっていった。
アドバイス通りにしたら本当に上手くいったと満面の笑みで小麦に感謝を述べる人達を見ているうちに、自分には人を幸せに導ける力があるのだと思った。それが超自然的なことだろうと、自分に何か凄い力があろうと無かろうとどうでも良かった。
あの時自分の救いになってくれた母親のようになれるなら、物事が的中することの理由などどうでも良かった。だから将来は本物の占い師になろうと心に決めた。
そしてそれは実際、彼女が二十二歳の時に叶った。
大アルカナという二十二枚のカードを順番に並べて整理をする。十番目に位置する運命の車輪を置いた時、やはりこうなることは必然だったのかも知れない、と小麦は思い返す。
自分はなるべくして占い師になり、こうして人々を占っている。そこに何か運命的なものを感じざるを得ない。それなら、今起こっていることもこれから起こることも、きっと起こるべくして起こるのだ。人々を脅かす暗く重たい、異質な何か。
小麦はそれを肌で感じていた。このところ、何かがおかしい。具体的に何が、とははっきり分からないのだが、とにかく何かが変だと感じていた。
改めて考えてみても、つい先ほどまで訪れていたお客さんもおかしな事を言っていた。
小麦には専門的な知識は無いので詳しくは知らないが、最近占いをしに来る人達は軒並み、
故人にもう一度会える、というと聞こえは良いが、小麦はこれに反対的だった。自然の摂理に反していると軽蔑の念すら抱いていた。
人は死ぬ。どれだけの善行を積んだ者だろうと、極悪人だろうと。
どの宗教に入ろうと何を信じていようと、どれだけ健康に気をつけようが安全に気を配ろうが、死ぬ時は人は死ぬのだ。その摂理を、この
許しがたいと思う一方で、小麦はそれを理解できる柔軟さを持ってもいた。十人十色、誰もが違っているが誰もが尊く愛しいものであり、どんな思想だろうが否定はしてはいけない。かつて自分が否定されたことがあるから、その苦しさは分かっていた。理解は出来るが、だが決して賛同は出来なかった。
オカルトに分類されてしまうであろう占いという稼業に身を置きながら、どこか現実主義めいた思想も併せ持つ小麦は、そんな自分よりも
カードを全て整理し終え、小麦は
影──。そう、影だ。
やはり最近聞くあの話は実際に起こっている事なのだろう。それはどういうものだったか、と思い出そうと右上に目線を泳がせた。
派手な装飾品や絵画、外国風の置物などが所狭しと並べられた異質な部屋。一見して胡散臭さに満ち満ちていることは自分でもわかってはいたが、雰囲気を崩したくないと言い訳して色々とやりすぎてしまった。
どこかエスニックな雰囲気のするものなら何でも良い、というところから始まり、今ではジャンルもへったくれもなく、とにかくそれっぽいものをかき集めた結果、日本のものと海外のものが入り混じり、ジャンルがとっ散らかった小物類が集まった。
初見ではあまりの怪しさに逃げ出す人が居てもおかしくはなかった。実際何人か居たのだが。
そのうちの一つ、壁に掛けられた誰が描いたのかも分からない油絵の額縁が目に入った。海外を旅行した時に怪しい露天商から格安で「有名画家の描いたものだ」と聞き、すぐに買ったものだった。誰の絵なのか、その名前も真偽の程も未だに知らない。どうでも良かった。
それは女性の半身像で、一見するとモナリザに影響を受けたような、それでいて似せようとも思わないで描いたという印象の一枚。
だがその様相は見事だった。素人目に見ても日本円にして千数百円で買い取ったとは思えない程の精密な綺麗さだ。小麦が財布の紐を緩めたのは、その絵柄の魅力によってだった。
艷やかに輝く黒髪を撫でた、妖艶な雰囲気を醸し出す女性がこちらを向いている。舐めるように一面を見渡してから、ああ、そうだ。女だ。と小麦は思い出した。
誰かがその現象に名前をつけ出してからというもの、それは一気に広まっているらしかった。
見えないはずのものが見え、聞こえないはずのものが聞こえる。挙句の果てに、その場所に存在しないものまでを観測した、という。
江藤さんもそれを確かに見たと言っていた。場所は家の寝室で、寝ようと布団に潜っていた時にそれは現れた、と言っていた。
振り乱したボサボサの長い髪で、元は白だったと思しき鮮血に染まった赤いワンピース姿で、部屋の角に佇んでいたらしい。
どこか恨み言めいたような、重くのしかかるような口調で、くり返し何かを呟いていたというのだ。
日本語だというのは理解できるが、何と喋っているのかまでは聞き取れない。江藤さんは酷く怯え、布団から出られず、かといって直視することも出来ず、目を瞑って必死に恐怖に耐えていた。
しかし見えないことによってより一層恐怖は強まり、耐え切れず次に目を開けた時、その女は目の前まで迫り、血走った目玉で彼女を真上から見下ろしていたそうだ。
悲鳴を上げる暇も無く気絶し、次に気が付いたら朝だった。夢うつつな気分の中、見下ろされた時に顔に降ってきた髪の毛の感触だけが妙に生々しく残っていた、という。
「もう私怖くて……占い師さん、どうか視てくれませんか?」
江藤さんは顔を真っ青にしてそう懇願してきた。小麦は霊的な事象を信じているわけではなかったが、職業柄オカルトめいたものは別に嫌いではなかった。
それ故に科学が発展し、
惹き付けられる話題だったが、江藤さんからはこれ以上の詳しいことは聞けなかった。
以前にも似た話は違う人からも聞いていた。声が聞こえるとか影が見えるとかいったようなものに過ぎなかったが。
小麦はこれらを、何かのストレスで生じた、過度な思い込みによるものだと考えた。占い師ではあるが、超自然的な事に全て任せるのは良くなく、こうして自分の主観や意見を交えてまず論理的にその人を視るのが彼女なりのこだわりだった。
そうすれば当たった時は的確にアドバイスが出来るし、外れたとしてもそこから更に疑念を追い続けることで原因の特定は出来るのだ。
例えば千里眼のように、全てを見通せるほど小麦は全知全能の存在ではない。彼女は神ではなくただの人間で、特別な力もきっと無いから、そういうやり方が彼女の主流だった。
一方でオカルトな視点から考えれば、物事の因果関係を把握しやすいし、霊的なものだと思い込んでいる相手には納得してもらいやすい。
それを踏まえ、小麦は江藤さんに伝えた。幽霊というものは、生前の強い思いや未練によって現れるというものなので、きっとその女性は江藤さんに関係のある人で、何かを伝えたくて出てきたのではないだろうか、と。
そう伝え、表向きは霊視の様な占いを始め、深層心理に語りかけて原因を探ろうと思った。
江藤さんはどこか納得の行かない面持ちだったが、それでもやってみますと言った。
スリーカードという手法を使うことにして、三枚選ばせた。様々な解釈や見方が出来るもので、汎用性が高く何でも占える。小麦はこれを気に入り、よく使っていた。
江藤さんは額に脂汗を滲ませ、とても緊張している様子だった。選ぶ手は小刻みに震え、時折揺れる影に怯えてはすみませんと頭を下げた。それほどまでに怖かったのだろう。
そして三枚を選び終えて──。
そこで小麦は飛び上がって回想から戻った。間の抜けた音でいきなり古めかしい鳩時計が時刻を告げ、その音に驚いたのだった。
時計の針に目をやると夜の十時を差していた。
「店、閉めないとな……」
小麦はそう独り言を呟き、看板を閉めようと椅子から立ち上がり、鳩が鳴き終わってから、やはりもう一度座った。
確かあの時、江藤さんが引いたのは──。
選んだ三枚を正面に置き、横向きに並べ直した。これで、左から順に、出たカードによって過去、現在、未来を視るのだ。
出ていたカードは確かこうだ。
左から、「運命の車輪」逆位置、「塔」正位置、「悪魔」正位置。
流れを解釈するなら、もう既に良くないことは動き出しており、それは必ず訪れる。予期出来ない程に衝撃的な事が訪れ、それに抗いようもなく飲み込まれていく。
他にも解釈の仕方は沢山あるが、今はそれがどう考えても悪い方へと転ぶとしか見えなかった。
並べられた三枚のカードを眺めているのが少し嫌になり、再びそれを束に戻し、さっさとしまった。
江藤さんには何とか調子の良い言葉を見繕ったが、しっかりと安心させてあげられるような気の利いた言葉は出なかった。気を強くしっかり持て、という、気休めにも程がある事しか言いようがなかった。何より、彼女が本当に幽霊と呼ばれるものを実際に見たのか、そもそも小麦にはそれがにわかには信じられなかったのだ。
看板を下ろしに外に出ると、虫の声一つ聞こえないほど静かだった。
小麦の営む占い屋「
嫌な寒気を感じ、さっさと寝てしまおうと家に戻って床に就いた時、江藤さんが口走った言葉を思い出した。
本人も理解していなかったのだが、江藤さんは何故だか現れた幽霊の名前を知っていた。
元々知っていて当然というように、その姿を見た時、自然と女の名前が頭に浮かんだと言っていた。
「さやか」
自分で呟いたその声に驚き、思わず閉じていた目を開けて部屋の角に目線を送る。だが、そこには誰も居ないし影すらもない。見渡しても普段と変わっているところなど無い。
仕事部屋とは打って変わって平凡な寝室には、暗闇と僅かに隙間から溢れた月明かりだけが有る。小麦は自分が怯えているのに気づいた。
寝室を出て仕事部屋へ戻り、さっき仕舞ったタロットカードの束を再び机に広げた。江藤さんは最後に、運命の車輪のカードをずっと強く触っていた。
──今ならまだ間に合うかも知れない。
散らかったカードの中から運命の車輪を探し当て、それに指を触れさせ、少しの間目を瞑り集中する。意識が段々と沈んでいき、暗いはずの視界は開け、ゆっくりと景色が広がっていく。
病室、顔色の悪い女性とその手を握る自分。思いやりの心と深い同情、この人を助けたいという切実な願いが強く小麦の精神になだれ込む。
占いに超自然的現象は起こらないが、自分自身には不思議な力が備わっていることを、いつの日か小麦は自覚していた。しかし周りには出来ないことを知って、ずっと自分だけの秘密にしてきた。周知されてしまうと厄介なものだと何となく感じていたからだ。
誰かの願いや思いが強く籠もった物体や空間に触れ、意識を集中させるとこの現象が起きる。すると何故なのかは知らないが、そこに宿っている人物の記憶の残留思念のようなものに潜行し、見る事が出来る。
深く深く意識へと潜れば、記憶を見るだけでなく中に入り込むことも出来る。それが出来れば、彼女が見たものが見えるかも知れない。小麦はより一層深く思念へ潜り込んでいく。
しばらくして目を開けると、誰かの寝室に立っていた。ぼんやりと布団に誰か寝ているのが見える。ゆっくりとそれが誰なのか見に行くと、剥いた目が掛布団の端からこちらを覗いている。目元だけだがなんとなく江藤さんだと確信した。その目線は頑なに小麦に向けられており、何かに怯えている。やがてそれが、自分ではなく自分の背後に向けられているのだと気づいた。そうだ、ここは記憶の中で、江藤さんには自分が見えていない。という事は……今、自分の後ろに。
小麦は恐る恐る、ゆっくりと背後を振り向いていく。目線が後ろへ向かうごとに、嫌な予感のようなものと同時に、首の重さが増していくような気がした。何か反抗する力が働いているようだ。
これは、見てはいけないのだと小麦は思った。部外者が干渉していいものではない。気軽に首を突っ込んで良いものではないのだ。今まで感じたことのない戦慄、首筋がチリチリと痛むような錯覚を覚え、思わず視線を江藤さんの方に戻す。と、江藤さんの目の光は消えており、虚ろな印象を抱かせた。先程までは確かにあった生気のようなものが一切感じられない。
江藤さんの方へ駆け寄ろうとした時、背後から誰かに突然声をかけられた。
「 」
小麦は弾けるようにタロットカードから手を離した。いや、やっとの事で離せたと言ったほうが正しかった。
少し前から危険だと判断し潜行を辞めようとしていたのだが、手のひらにとんでもなく重い何かが乗せられたように手が離れなかった。もし、あのままずっとあの場所に居たらどうなっていたのか、想像するのも嫌だった。
きっと背後に居たのは、件のあの女「さやか」ではないかと思う。しかし、最後に何と言われたのかは理解出来なかった。正確に言うと潜行している時は覚えていたはずだが、現実に戻った時には既に思い出せなくなっていた。
何か、良くないことが起こる。とても恐ろしく、抗いようのない事。確証は無いが何故かそうに違いないと強迫めいた確信が、それは必ず訪れると小麦に言い聞かせた。
いつか見た、古い創作オカルト本に書いてあったとある事象を示す言葉が、頭の中でハッキリと文字になる。
呪い──。
翌日のニュースで、江藤さんの死亡を知った。悲しむよりも、やはり予感が当たったと恐怖を感じる方が先だった。
誰も知らない水面下で静かに蠢いていた、さやかの呪い。
その侵食はもう既に始まっていた。
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