一章 焦眉 4

加賀美かがみ宏親ひろちか

六月二十七日


 先日までの様子が嘘のように、空は透き通っていた。

 濃灰色の綿雲は夜のうちに姿を消し、邪魔者が居なくなって快適そうに広がった空が水平線に近づくにつれて僅かに霞み、薄水色から藍鼠あいねず色にかけての層を成している。

 積雲はまばらに散り、臆面もなく太陽は肌を照り付ける。窓枠によって切り取られたそれが、袖をまくり上げた腕にジリジリと当たってくる。

 普段は可視化されない紫外線の存在がはっきり感知出来る、だからこそ鬱陶しくて非常に煩わしい。

 加賀美かがみ宏親ひろちかはそれまで行っていた作業を一旦止め、焼かれた腕を掻きむしる。しばらく照り付けられたからか、腕は僅かに赤みを伴っていた。表面には玉の汗がにじんでおり、同様に額からも流れてくる汗を一緒にして拭った。

 机に置かれたタオルがあった事を、拭ったあとで気付く。使えば良かったと一瞬思うが、それは機械を拭くためのものであり不衛生だからまぁいいかと思い直した。

 自分用のタオルを用意するべきだろうか。もうそんな季節になったのか。と、大仰にため息をいてから、もう一度作業に戻ろうかとしてやはり止めた。暑すぎて先程から作業を中断することが多い。集中出来なかった。

 流石に冷房を入れて涼もう、ちょっとくらいなら電気代もかさまない。そう思い立って今度は空調のリモコンが無いことに気付いた。

 宏親の机の上の様子は乱雑を超えてもはや作業用机なのかどうかすらも疑わしかった。しかもその散らかりようは机だけでなく作業場全体に行き渡っている。彼の性格を知らない新規の客などにはゴミ屋敷と形容される程であった。

 随分前だが、ついうっかり口を滑らした客にそう指摘され、恥ずかしさのあまり整理をしなくてはと猛省し、一時は綺麗になったものだがやはり落ち着かず、数日後には元の有様に戻っていた。だがその方が彼にとっては良い条件だった。

 普段使う道具や機材などの場所は、何故か完璧に把握出来ているのに、あまり使わないこういった季節のものなどは、一体全体どこへやってしまったのか一向に思い出せない。必要になった時に限ってど忘れをする。

 暑さとも相まってなんとも腹立たしく、つい乱暴に机をかき分けて一気に物をどかす。机の上の物が耐え切れず地面に向かって雪崩なだれを起こした。けたたましい音を立てたが、そんなものは気にしない。

 今解決しなくてはいけないのはこのうだるような暑さだ。宏親は作業を外的要因で余儀なく中断されるのが何よりも許せなかった。

 苛立ちは一層募り、収まりがつかずに頭を掻いていると、間抜けな電子音と共に空調がようやく冷たい風を吐き出し初めた。

 おやと思って振り向くと、開け放たれたドア越しに廊下の奥、受付カウンターからひょっこりと明るい茶色のポニーテールが覗いた。

「宏さん、音声認識でつけれますよ。忘れないで下さい」

「あぁ、悪ぃな。あゆみ」

「リモコンなんて古い形式に囚われた人は、今時モテませんよ?」

 ポニーテールの主、関口せきぐちあゆみがそう小言を垂れると、宏親はそれに「俺は顔がいいから」と軽口で返した。

 あゆみはそれに微笑みで返事をするとカウンターへ顔を戻す。そのままお互いに姿が見えずとも、飛んでくる声だけで会話を続ける。

「宏さんってさ、技師なのに自分ではリンクスとかスマートデバイスとか使わないんだから、お客さんとの相談にも齟齬そごが出るじゃないですか。顔でモテるかどうかはマジで知らないですけど、そういうの良くないと思うなぁ」

「そりゃ感覚の面での話だろ? 俺は知識として頭に全部あるから問題ねぇよ」

「その感覚こそが大事じゃないですかぁ。ただでさえ言語化しにくいものなんですから」

 あゆみはいつもこの調子だった。宏親とは六つも離れているのに、いつも会話をすると彼女のほうが達観しているような気がする。

 技師補佐で働いてもらっているが、その他の窓口担当や営業面、といった実務の方よりも、どちらかといえば看板娘としての存在の方が広く認知されている。

 実際、訪れるお客さんの誰もが彼女と仲良くしており、彼女目当てにどこからか噂を嗅ぎつけてくる輩も多かった。(そうして訪れる只の軟派者は宏親が追い払っていた)

 頭を下げて這いつくばり、得意先に媚びへつらって「またどうぞよろしくおねがいしますよ」なんていう見苦しい真似の出来ない宏親にとって、人当たりの良い彼女の存在は大きかった。

 ついでに失せ物探しも得意だったようで、すっかり涼しくなった作業部屋にあゆみが入ってきて、ひとしきり荒らし回った後──その部品は動かすなああだこうだと小言の言い合いにはなったが──割りかし綺麗な入口側に置かれた書類棚の上に、いつの間にかリモコンが置かれていたのを見て、宏親は表情が緩んだ。

 問題が解決しひとしきり涼んだ後、宏親はツナギの袖を腰に締め直し、作業に戻る。今日の作業は補聴器の調整だった。

 いつものお得意さんの一人からの依頼で、何やら調子が悪いみたいだから整えてくれ、との事だったので詳しく聞いてみると、変な音が混じって聞こえるとの事だった。

 最近の補聴器はリンクスと接続してその機能を発揮するのだが、接続は基本的に無線通信で行われるため、通信環境の悪さでたまにノイズが起こることがある。

 だが内部電池で動く補聴器は、リンクスとの通信無しでも起動させる事は可能で、その時はノイズキャンセルや指向性変更などの細かい機能は使えない。だからその時は単に拾った音をアンプで増幅させて聞こえるようにするだけの単純な機能しか使えないため、通信時の異音や環境音などを余計に拾うことはよくある。

 工場生産の量産デバイスなどの安物なら特に、ましてや長年使っているものなどは経年劣化で著しく異常が出る。なので定期的なメンテナンスは必要不可欠であり、補聴器の調子が悪いというのは良くあることだった。

 内部の分解は既に済んでおり、宏親は新たに用意しておいたマイク部分を取り替えた。古いものを取り除き、新品のパーツに換装する。

 ノイズなら大体これでなんとかなる。拾った音を電気信号に変換する部分なので、ここでの異常がノイズとして出力される事が多い。原因は他にもあるのだが、大体はマイクかアンプを取り替え、それでも駄目ならスピーカー部分も替えてしまえば異常は無くなる。

 そうなると全部取っ替えてしまうのと同義なのだが、外面そとづらまで全て替えてしまうよりかは安価に済む。

 補聴器は主に先天性、突発性難聴の人々を含めてあらゆる耳の問題に悩む人々に広く使われており、生体補助デバイスの中では特に普及率が高い。宏親にとってそれのメンテナンスなどもはや慣れたものであり、部屋が冷え切った頃には作業は完了していた。

 綺麗に梱包し、完成品をあゆみに渡しクライアントへの送付を頼んだ後、ふと窓を見上げると、日差しは先程よりいくらも傾いていないように見えた。

「もう終わったんですか? 今日も早いですね。ほんと技師としての腕前は超一流なのに……」

「おい、続きを言ってみろ。不思議と給料が減るぞ」

 あゆみに肩を小突かれながら、仕事も一段落だしそろそろ休憩をしようかと二人で話していると、店先の入り口にふらりと人影が現れた。

 片手を上げて微笑むその顔は宏親にとって良く見覚えがあったが、彼が訪れるのも久しぶりだったため思わず駆け寄っていった。

「おいおい……! 久しぶりじゃねぇか、聡臣さとおみ

「宏ちゃん、元気だった?」

「こっちのセリフだよ。俺なんかよりよっぽど生死が分からん奴に心配されたくはねぇなぁ」

「言うね」

 互いをからかい合いながら、宏親は額に汗を浮かべた聡臣を応接室へ通す。初見客との相談などを行う部屋だったが、このように知人が訪ねてきた時なども開放していた。

 夏は涼しく、冬は暖かく、お客がいつ来てもいいようにこの部屋は空調を常に動かしてある。出勤した直後にあゆみがいつもやってくれているので、応接室は今日もよく冷えていた。

 形式ばった様な形でソファが向かい合い、間には慎ましいコーヒーテーブルが置かれている。ここのところ新規の客はあまりいなかったので、机上は少し散らかっていた。

 あゆみが図ったようなタイミングでお茶を出してくれて、そのまま三人で談笑する形になった。

「店の名前いつ新しくしたんだっけ? ミラーズワークショップ」

「お前が来てる頃から変わってるだろ、相変わらず覚えの悪いやつだ」

 聡臣はそうだったっけ、ととぼけて微小を浮かべている。

「名前考えたの私なんですよ、知ってました?」

「へぇ、あゆみちゃんが。看板娘に世話になりっぱなしじゃん」

「でしょう? 加賀美工房、なんて堅苦しい名前よりこっちの方が親しみやすいですよ」

 あゆみを雇うようになってからというもの、彼女の営業手腕によって地域密着型の様に小規模な依頼しか受けていなかった工房は、やがて近くの病院と提携することになり、そこで施術を受ける患者の専用デバイスを受け持つようになり、事業規模は拡大せざるを得なくなった。

 親しみやすく覚えられやすく、尚且スタイリッシュで粋な名前。宏親の名字である加賀美とかけて、デバイスの装着で身体のどの見た目が変わっても「鏡に写された姿に自信を持てるように」という意味が込められているらしい。

 正直、宏親もそのお陰で不安なく飯を食っていけるようにもなったし、名前もお洒落で粋だと認めており、嫌いではなかった。心の中であゆみにボーナスくらい出してやろうと決めた。

「にしても珍しいな、お前がわざわざ出向いてくるなんてよ」

「確かに、葦澤あしざわさんが来るのってリンクスの定期メンテナンスの時くらいですもんね」

「ああ、今日は宏ちゃんに目を診てもらいたくてさ」

 そう答える聡臣の様子はいつもと変わらないように思えたが、どこか気落ちしているような印象でもあった。

「左目か? どうかしたのか?」

 そう聞くと、聡臣は少し目を伏せてから言った。

「義眼にする前に俺、飛蚊症だったよな」

「そうだな。結局それで網膜剥離起こして、ならいっそ義眼にしちまえって俺が勧めたからな。覚えてるぞ」

「そう、その飛蚊症……影が見える症状だって言ったよな。あれ、再発してるんじゃないかと思って」

 あり得なかった。もちろん不調は起きるものだが、部品の経年劣化が起こるような期間が空いているわけではなかった。

 自分の調整の不具合を一瞬疑ったが、それこそあり得なかった。小学校からの幼馴染で、親友とも呼べる聡臣を相手にして、価格では手を抜いても品質には手を抜かない。

 職人気質の自分の性格ならなおさらだった。工程のチェック、起動テストも完璧に行っている。なのに不調が起きた──?

 思考が口から零れ出そうだったが、事情をまず聞きたかったので、出て来かけた言葉を飲み込んで続きを促した。

「なんかさ、視界の端に影が見えるような気がするんだよ。最初は光の具合でそう見えるだけなのかなと思ったんだけど、このところよく見るような気がして」

「確認だが、それ右目で見えてるってわけじゃねぇよな?」

「そう、右側じゃなくて左側の端っこなんだよ。左目を閉じちゃ見えないはずの範囲に見えた気がするんだ」

 そうなるとなお一層それは不調でしか無いということになる。自分の腕を疑うわけではないが、それでも何か細かいミスがあったのかも知れないし、他の要因で不調が出ているだけかも知れない。

 聡臣を責めるわけではないが、セルフメンテナンスの具合でも劣化の速度は変わる。もちろん毎日しっかりと手入れをすればそれだけ物は長持ちする。

 ならばさっさと原因を探るなり修理をするなりすればいいだけの事だった。

 場所を作業室に移し、聡臣から義眼を受け取る。彼がそれを外す時の手付きはすっかり義眼の扱いに慣れているように見えた。

「付けてからどのくらいだ?」

「一年……経ってないくらいじゃないかな」

「じゃあ経年劣化じゃないな。落としたりすることは?」

「宏ちゃんの自信作だろ? 大切にしてるから落とすことはなかったよ」

 それに鼻で笑って返事をし、質問を続ける。

「セルフメンテナンスは?」

「してるさ、そりゃ」

「リンクスとの接続方式……あれ、あー、なんだっけ」

「AN接続ですよ、宏さん」

 言葉が出ずに歯痒い思いをしていると、あゆみが補足を入れてくれた。

 ArtificialNerveアーティフィシャル・ナーブ接続の頭文字で、訳すと「人工神経接続方式」というものだ。

 リンクスは脳波の命令を直接受け取ってフィルタリングし、様々なデバイスの操作を行うという言わば中継機器的な役割なのだが、このAN接続はその部位の神経系を置換細胞により代替し、リンクスとの接続を無線では無く有線で確立するものであり、より精密な操作を行うためのものだ。スマートデバイスやIOT技術、YOMIヨミなどには必須ではないが、主に身体の機能などを高精度で扱う時は主にこの接続になる。

 神経系の代替は昔は大変なものだったが、現在では医療ナノマシンや置換細胞などによる人工細胞の組織生成が主流で、そこまで難しい事では無くなったそうだ。

「ああそれ。もし義眼じゃなくそっちの異常だとしたら、俺の扱う分野じゃねぇぞ」

 歯痒さが解消された快感で思わず指を鳴らし、聡臣に向き直ってそう言った。

 宏親が扱うのはあくまでもリンクスやデバイス機器の調整や取り付けであるが、リンクスをインプラントするという行為、AN接続の確立などは医療機関での分野の取り扱いになる。宏親に心得が無いわけではないが、専門家に比べれば月とスッポンだろうし、何よりそれは医療行為になってしまう。宏親には医師免許が無いからそれは出来なかった。

「分かってるさ。それなら医者に行くつもりだけど、まずは宏ちゃんとこで見てもらおうと思ったんだ」

 聡臣は言って、左の瞼を手で覆った。

 空洞の眼窩がんかは奇異の目で見られる事が多い。なるべく見せないように、そうする習慣になっているのだろうと宏親は思った。

「分かったよ。もし不調があれば調整するし、原因も探ってやるよ。その代わりしばらく借りるからな」

 そう言って、宏親はあゆみにスペアの義眼を持ってこさせる。これは何の機能も無い見た目だけの義眼だったが、先程の聡臣の様子を見たうえでの配慮だった。

 聡臣は人前に出ることは少ないからと言って遠慮したが、あゆみが無理やり押し付けると、最後には負けて受け取った。

「影、かぁ……。そう言えば最近そんな噂があるの知ってます?」

 あゆみがそう言うと、二人ともそれに聞き入った。

「なんか、怪談噺かいだんばなしの一種らしいんですけど。私も詳しくは知らないし、聞きかじった程度なんですけどね」

 最近、幽霊の目撃談が増えているらしい。だが怪談噺と言うと、科学が発展したこの時代、そんな眉唾な話を信じるものは居なかった。

 そのため怪談を好んで聞いたり話したりする者は酔狂すいきょうだと言われからかわれていた。宏親もそれに大いに賛成だと言うと、あゆみはむくれながらも続きを話す。

 どうやら最近、SNSなどで若者を中心にそういう噂が広まっているのだそうだ。見えるはずのないものを見た、聞こえるはずのないものを聞いた。挙句の果てに心霊体験をしたと豪語する連中も出回っているらしい。

 その中でも、人影が見えるというのが一際大きく話題になっているらしい。

 先日ネットニュースになった、二人の大学生が相次いで同時期に不審死したという不気味な事件も、この幽霊もとい人影の仕業だと騒がれているそうだ。眉唾な話だが、あゆみによるとそのうちの一人は黄泉人よみびとだったのに「死んだ」と言われているとの事だった。

 これもバカバカしいただの都市伝説のようなものに過ぎない。そもそも黄泉人は死なないのだ。仮想空間上の存在だから死ぬという概念が無いのに、死んだと言われても信じるほうが難しい。だがそれでも面白がって囃し立てる連中はいるということだろう。それも呪いのせいだと吹聴してSNS上は大盛りあがりだそうだ。

「で、それがぜ~んぶ総称されて……なんだっけ、ナントカの呪い? とかって最近噂されてるらしいですよ」

「バカバカしいこった。根拠はあんのかよ、根拠は。こんなに科学バンザイな時代だぞ? 幽霊なんかいるわけねぇだろ、科学で説明されちまってんだから。五感の異常か、そうでなけりゃ思い込みの勘違いだって」

「私に言わないでくださいよ。詳しく知らないって言ったじゃないですか。ただ、ちょっとした話の種になるかなって思っただけですよ」

 あゆみは眉間に皺を寄せ、あからさまに怒ってみせる。が、まあまあと聡臣が割って入って話を中断させた。

「まぁまぁ。宏ちゃんみたいな優秀な技師が折角作ってくれたのに、おかしいなって思うことがあると嫌でも不安になるだろ? その話の出どころも、機械の不調をそそっかしい人が思い込んじゃったってだけの話じゃない? 俺のも、ただの思い込みなのかも……」

 あゆみはその言葉で納得したのか、確かにと呟いて静かになった。宏親にはその聡臣の言葉が、何か他の意味も孕んでいるように思えたが、他の思考にかき消される。

 思い返してみれば、ここ最近小さな事での調整の仕事が多く入っているように感じた。

 例えば先程の補聴器の件もそうではないだろうか。ただノイズが走るだけなら、さほど気にしないのではないかと思うのだが、それほどまでに人を不安にさせるような話があるということなのだろうか。

 もちろん日常生活に支障をきたすようなノイズや不調なら納得できるのだが、少なくとも先程の補聴器はそんな異常は無かったように思う。

 そう言えばその客は、リンクスの調整依頼で訪れていたという事を思い出す。彼も同じようなことを言っていた気がする。

 視覚と聴覚に異常がある、リンクスの通信系統に異常は出ていないか。そんな風だった。けれどもその時は特に異常は見られなかった。

 だから細かい調整だけをして様子見をし、後日また都合のいい日に予約を取ることにしていたが、どうなっただろうか。ついでに補聴器も返せるいい機会だと思っていたが。

 そう言えばその後、えらい剣幕で「直ってないじゃないか、本当にちゃんと見たのか」と怒鳴り散らすだけの苦情の電話が掛かってきたのではなかったか。

 対応したのはあゆみだったので詳しくは知らないが、最近の年寄りは本当に困ったものだ。何やら精神面の不調が重なったりして、情緒不安定になるのだろうか。ならば機械がおかしいのもやはりそう思い込んでいるだけだろう。

 リンクスに異常が無いのに調整を頼んできた事は不思議に思ったが、これはしかし変な怪談のような噂には関係ないだろう。

 影だか何だかの話もその客からは聞いていないし、何ならどんな名前の客かも思い出せない。機械の不調と思ったが気の所為せいだった、というのはよくあることの一つだ。

 あゆみの話も下らない只の噂に過ぎない。次の会話が始まる頃には、宏親の頭の中には噂の事など無くなっていた。


 よろしく頼むよと聡臣が出ていく時、宏親は聞き忘れていた事を聞こうと彼を呼び止めた。先程引っかかった聡臣の「影も自分の思い込みなのかも」という言葉の最後、切れた先の続き。

 元来、聡臣の性格がストレスを溜めやすく、そのせいで良く情緒不安定になる事を宏親は知っていた。今も、精神的に何か不安要素があるのではないか。では思い当たる事と言えば、これしかなかった。

「お前、最近センター行ってるか?」

 リユニオンセンターの事だった。宏親は彼が良くそこへ足を運ぶことも知っている。

「……行ってるよ、何で?」

「やっぱりな。あんま、黄泉の国には居すぎんなよな」

「ああ、分かってる。分かってるさ……」

 そう言って工房を後にする聡臣の背中は、どこか暗かった。

 彼なりの意見もあるだろうが、YOMIヨミの利用者が黄泉の国に入り浸ることは稀ではない。故人との再会はかけがえのないものだろうし、大切な人と時間を共有するのは良い事だ。

 だが、あまり仮想現実に入り浸りすぎることは良くなかった。現実との境目が曖昧になりだすからだ。

 懇意にして貰っているついでに、得意先の病院の医師から仮想現実依存症の話も聞いたことがあったため、聡臣が少し心配だった。今もきっと、センターからの帰りでここに寄ったのだろう。

「葦澤さん、大丈夫ですかね? 前に会った時より元気がないように見えましたけど」

「部屋に籠もりっきりよりいいだろ。それにあいつはそんなヤワじゃねぇさ。そんなことより義眼の調子を早く見ねぇとな」

 そう言って作業場に戻ろうとした時、工房内の電話が鳴った。おやと思ってあゆみを見ると、私が出ますという旨で頷き、右耳の裏にあるリンクスを触りながら、遠隔で通話を始めた。

 別にリンクスに触る必要はないのだが、スマートフォンなどを使っている人間だと無意識に触ってしまう、癖のようなものだ。

「はいもしもし。ミラーズワークショップです」

 なんでもない、いつもの調整の予約か、お得意先の発注かそんなところだろう、とあたりをつけ、あゆみに任せる形で自分はさっさと作業室に戻ろうとした。

 しかしその途端に、驚嘆きょうたんの声と共にあゆみが作業場に慌てて飛び込んできた。普段はいつもおっとりしている彼女だが、その時は尋常ではない勢いで表情も険しい。

「宏さん、この前リンクスの調整で来た人……あ、さっきの補聴器の人です。ええと、すみません、もう一度お名前をお伺いしても……?」

 電話口の相手に聞き返すあゆみを見ながら、そのただならぬ雰囲気に一瞬気圧けおされたが、すぐに自分でも思い出そうとする。さっき丁度思い出そうとしていたのに、嫌な態度の客はそもそも名前すら覚えるのが億劫おっくうだったからすぐに出てこない。

 あの人は確か、三山みやま……いや、三上みかみだったか。思い出したと同時にあゆみも喋り出す。

「三上さん、ですね。すみません。……宏さん、その三上さんなんですが、次回の予約は出来なくなったそうです。つまり、その……」

 あゆみは妙に口ごもり、言葉をあまり出したくないように目を伏せた。妙な胸騒ぎを覚え、それに続く言葉の内容にはなんとなく予想がついた。

「昨日、亡くなったそうです」

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