一章 焦眉 3
開いた窓から、柔らかな日差しと共に優しい風が舞い込んでくる。
陽光により僅かに暖められたそれはカーテンを揺らし、ゆったりとこちらへ辿り着き、髪を優しく撫でていく。頬を抜けていく風の中に、ふんわりとクチナシの甘い香りが僅かに含まれている。夏の訪れだ。
季節の移り変わりを実感し、感慨深く感じると共に蘇ってくる匂いの記憶に身を委ねる。
撫でられた髪をかきあげると、左手薬指にはめられた指輪が陽光を反射し煌めいた。小さなサファイアが一つだけ施された、素朴だがどこか愛らしい結婚指輪だ。
これを霞美が受け取ったのも、この場所にいる理由も、全ては夏のことだった。
当時小学校の教師をしていた霞美はその日、社会科見学で訪れた工場の説明を生徒の子どもたちに上手く伝えられず手間取っていた。
元来より霞美はこういった精密機械などに弱いので、資料を読んでも何一つさっぱり理解出来なかった。加えて工場に人間はおらず、自動化された機械と、見学者に簡単な案内をするAIがいるだけであったので、余計に混乱した。
リンクス技術には特に
そんな時、横から現れたのが聡臣だった。彼は難しい仕組みを簡単な言葉に要約し、小学生にも分かりやすい例えを駆使したりして霞美を助けてくれた。
聞くと、彼はWebデザイナーで、丁度この工場の紹介ページを作るための資料探しで見学に来ていたのだった。リンクスデバイスについても、知り合いが技師をやっているのでより詳しいそうだった。
ところが彼はこの技術に反対的だという。では何故調べに来ていたのかと尋ねると、彼は「反対しているからと言って理解を放棄するのは頭の悪い差別主義者のようで嫌だ、仕事の案件なら責任は果たすべきだ」と答えた。
子供にもよく懐かれており、嫌そうな素振りは見せなかったのだが「聞き分けのない生意気なガキに関しては、嫌いかな」と毒づいたりもしていた。
霞美は彼のこの相反する不思議な二面性をとても人間らしく、そして面白いと思った。
ついでにその時の彼の服装が、一般的な感性で見てみると奇抜な雰囲気だったのも惹かれる要因だった。服のセンスの無さをいつも友人にからかわれるという。
仮にもデザイナーというセンスの問われる職業なのに、自分の服のセンスは無いというのがまた可笑しかった。
それからもお礼だなんだと理由を付けて度々連絡を交わし、気づけば二人で過ごす時間は多くなった。霞美は聡臣に惹かれ、彼もまた霞美の屈託のない笑顔に惹かれていた。
「私の何処が好き?」という鬱陶しいであろう常套句にも、彼は嫌な顔をせずにはっきりと答えをくれた。
「君は何に対しても抽象的な性格で、とにかく掴みどころがない」そう言って聡臣は「名前の通りだね」と笑った。
続けて「でも掴めないのなら、余計に掴みたくなる」と、そう言ってくれた。
いつしかお互いに誕生石の付いた指輪を交換して──霧嶋霞美というこの掴みどころのない名前も葦澤霞美に変わった──結婚し二人で住むようになった。それが夏の日のことだった。
それから二年経ったその年の夏、何の問題も無く穏やかに進むはずの日々は唐突に終わりを告げた。
その日、残業で遅くまで勤務していた霞美は暗い帰路で、酔っ払い運転の轢き逃げに遭った。相手が乗っていたのはオートスケーターと呼ばれる、電気駆動式のキックボードのようなものであり、車体が小さく衝撃も少ない為幸いにも命に別状はなかったものの、打ち所が悪く、脊椎を損傷してしまった。
骨組織の修復治療は安易に取り替えの利くものではないのだが、それでも人工細胞の置換治療による回復は可能で、長い時間はかかるがいずれ必ず立てるようにはなる。しかしそれには激痛を伴うリハビリをせねばならなかった。
アシストスーツと呼ばれる、立位歩行姿勢補助の機械がなければまだ一人で歩くことは難しく、それを着用するのにも他人の補助が必要だった。
とてもではないがその現状は彼女にとって非常に厳しく冷徹で、霞美の心は日に日に
自分の身の不幸を嘆くことは無いが、加害者を責める気力もない。誰に、どこに対して何を抱けばいいのか、
ふと窓の外を見上げると、高く登った入道雲が山の
霞美は夏の夕立がなんとなく好きだった。青天の
外に簡単に出る事が出来ない霞美は、自分の中だけの楽しみを他者の不幸によって無理やり得ることでしか今の自分を肯定出来ずに居たので、こう思うのは必然だと思っていた。
だから霞美は雨が好きで、そんな自分の事は好きではなかった。
そろそろかな、と思っていると、やはり室内の空気が僅かに動いた気がした。振り返ると、期待通りの人物が入り口に立っていた。
「今日も来てくれてありがとう」
霞美は微笑んで、傍らの椅子に座り込んだ聡臣を見つめる。
「調子はどうだ」
目線は合わさず、聡臣はそう聞いた。ベッドの脇にある棚の上、花瓶に活けられたすっかり元気のない花をつついている。その左手にはオパールの誕生石付きの指輪がはめられている。
「いい感じだよ。……今日みたいな日は少し元気無くなるけど」
「あまり考えすぎるなよ」
うん、とだけ答えて、霞美は目線を窓に戻した。
あの入道雲はまだまだ遠く、雷鳴ではなくまだ蝉の声の方が聞こえてきそうだった。早く雨が来て欲しい。
しばしの沈黙が流れるが、霞美はこの沈黙が嫌いではなかった。長く一緒に過ごしている人との無言の時間は、何故か心地良い。お互いに気まずい事など何もないと知っているからなのか、もしくは相手の考えていることがなんとなく読み取れるからか。
どちらにせよ、言葉で語ること以外に通じあえるコミュニケーションの様な感覚がして、霞美はどこか無言を楽しんでさえいる。もちろん、それは居心地の良い沈黙に限ってだが。
「今日は天気が良いね。クチナシの香り、分かる?」
「どうかな、甘過ぎて俺はあんまり好きじゃないし」
「出会った頃も、こんな香りに囲まれてたね」
「ああ、そうだったかな……」
それ以上喋るのは辞めておいた。続けていたら、言い争いに発展しそうな気がした。
霞美にとって出会った頃の記憶は大切にしているものだが、聡臣にはそれほど重要なことではないのだろうかと落胆した。二人の記念の日なのに。
頭の中で沸々と煮えてきた感情をなんとか押し殺し、クチナシの香りを楽しむのに集中する。
「すまん。そうだったな。今日はなんだか俺も調子が悪くてな、それに気を取られてた」
言い訳かと一瞬は思った。説得力のない口先だけの言い訳は何の意味もない。霞美に積もった苛立ちが、その程度のことで軽減されはしないことを、彼も、霞美自身も知っていた。
「それに、夏は嫌いになったかと思って」
聡臣はそう続けた。
霞美が事故に遭って立てなくなった事を、感情の薄れてしまった霞美の分まで彼は悔しんだ。ずっと側にいて助けてくれていたし、こうして今でもお見舞いに来てくれている。
彼なりに気を遣ってくれたのだろう、それなのに自分は。
途端に大きな濁流の如く流れ出てきた自己嫌悪に支配され、ごめんねと謝りかけたが、それでは会話はこのまま途切れ居心地の悪い方の沈黙になってしまう。そうなんとか思い直し、一応内容だけは聞いておこうと続きを促した。
会話という助け舟にしがみついている間は、濁流に飲み込まれることはない。
「どこが悪いの?」
「左目だよ。何かのエラーか分からないけど、明日診てもらうよ」
ふぅん、と返し、霞美は頭の中で今の話を思い返し、
久しぶりにお見舞いに来てくれたからと期待し過ぎていたのは自分の方だった。聡臣にも聡臣の悩みや苦しみもあるし、調子の悪い日だってある。
自分には少し甘えすぎるところがある。ただでさえもう自力では立ち上がることすら困難なのだ。人の力を借りずには生活出来ない。
だからそれ以外の面でも多少のことは甘えても許してもらえると、思い上がっていた部分もあったのかも知れない。そんな弱さも仕方ない、けれどさすがに自分勝手過ぎたかな、そう霞美は反省したが、やはり自己嫌悪に陥った。
「どんな異常?」
「見えないものが見えたような気がする。視力を無くす前の飛蚊症みたいだ」
「視界を動かすと、影みたいなものも一緒に動いて見えるってやつ?」
「そう。黒い影みたいなのが見える気がする。義眼の不調と言われればそれまでなんだけどな」
そう言われて、霞美は息を呑んだ。思わず聡臣の方を見ると、左耳の裏にあるリンクスを触って不安そうにしている。自分の腕をさすると、鳥肌が立っているのが分かった。
聡臣が左目を義眼にした時は酷く嫌がっていたが、一度義眼にしてみたら驚くほど調子がいいとむしろ喜んでいたのを覚えている。
何しろ、聡臣が懇意にしているデバイス技師の腕がいい事を霞美も知っていた。聡臣の親友で、霞美とも友人だからだ。工場生産される量産型のデバイスとは違い、技師が扱う一級品であるという事もさることながら、その 彼に落ち度があったかどうかも驚くところだが、霞美が肝を冷やしたのはそれのせいではなかった。
自分にも思い当たる節があったからである。
というのも、霞美もここ数日、妙な影を見ることが多いような気がしていたからだ。それは聡臣が以前から話していた飛蚊症によく似てはいたが、霞美の場合は少し違っている。
何とは無しに病室の角などを見やり、また別の場所へ目線を泳がしたりする時、目線の動きに関係なく影がその角に現れた。気付いて目線を戻すと、もうそこには何も無くなっている。
霞美はそれを、精神の落ち込みによる見間違いや気の
最初期の治療の頃、メンタルケアの担当医と話す機会があった時にふとこの話をしてみた。すると、シミュラクラ現象という脳の働きがあると聞いた。これは、三つの点が逆三角形を結べる位置に並んだ時、それを視覚が捉えた時に人の顔として誤認識してしまう働きの事である。
視覚や聴覚などが刺激を受けた際、本来存在しないにも関わらず知っているパターンを当てはめてしまうこの現象は総じて「パレイドリア効果」と呼ばれているそうだ。シミュラクラ現象はこの一種の一つだそうだ。木の幹にある節穴や岩の陰など、偶然三点が結ばれさえすれば、そこに在るはずのない人の顔を認めてしまう。
つまるところ、角に人の影のような物が見えたなら、風で揺れたカーテンや、それによって生まれる室内の光陰の具合で
例えば大昔に流行った心霊写真と呼ばれるものは、ほとんどがこの現象によって説明がついてしまう。被写体や物体の位置、ISO感度やフラッシュの焚き方によって偶然出来あがった影などの三点が結ばれれば、人は顔だと認識する。心霊写真もそのお陰で時代が進むとともに廃れてしまった。このように科学で解明されてしまったからだ。
その担当医も、「思い込みによって視覚に異常が出ることは珍しくない」と教えてくれた。元気を取り戻せば、そんなものも見なくなるはずだと。
しかしここ最近になると、それにしては妙に現実感のある影のように思えた。見る頻度は上がり、影もどことなく立体さを帯びてきているような気さえした。
ここに来て、聡臣の言葉が効いてきた。彼も同じようなものを見ているのだろうか。正確には見ているような気がした、だろうが、そうするとなんとなく自分が見ているものは思い込みの幻覚などではないのではないかと思った。
「どうした、大丈夫か?」
そう言われて我に返り、なんでもないと返した。
反射的に今の話を伝えてみようかと思ったが、もし彼の義眼を修理したら影が見えなくなり、やはりそれが不調のせいだったならば、自分がおかしくなったことになる。
なんとなくこれ以上心配をかけたくないと思い、霞美はそこで口を噤んだ。しかしやはりそれを察したのか、聡臣は霞美の肩に手を優しく置いて言った。
「変な事言ってすまんな。今日は退散するとしよう」
「ううん、ごめんね。せっかく来てくれたのに」
「いいさ、また来るよ。……元気でな」
そう言って聡臣は静かに病室を後にした。
しばらくの静寂が訪れ、すっかり寂しくなった室内を見渡す。と、彼の影になっていて見えなかったが、花瓶にクチナシの花がいつの間にか入れ替えられていた。
そうだ。彼にはこういう一面もあった。そして霞美は知っているはずだった。表面には出さないし、はっきりと形にもしないけど、内面には確かな思いやりがある事を。
風に乗って、室内にクチナシの香りが広がった。多幸感で一杯になり、心の中でありがとう、と呟いた。
出来ればそれを口にして、別れ際に謝罪ではなく、感謝を伝えたかったと後悔した。
静かになった病室で、その角に目をやっても、そこには何もなかった。
やはり気の持ちようなんだろう。彼の気持ちにも応えてあげないといけない。そう思って大きく息を吐きながら枕に頭を落とした。
視界は天井をいっぱいに映す。いつの間にか窓からは雨が叩く音が聞こえてきて、霞美は思わず目線を窓へやる。夕立が降り始めてきていた。
雨の音を聞いていると、少しばかりの眠気に襲われた。うつらうつらとし始め、目線が定まらなくなってくる。天井の形が崩れたような錯覚を覚え、強くまばたきをする。
天井のその下の方、
暗く見えた片隅の方で、黒い何かが微動した。
咄嗟に眠気は醒め、頭を上げて焦点を角に合わせる。しかし、たった今確かに視界に捉えていたはずの影は何もなかった。
今、確かに見えたのに、何故──。
霞美は全身が粟立つのを感じ、鼓動が高鳴るのを感じた。暖かいはずの風を肌に受け、再び鳥肌を立てる。
見えた気がする影のようなもの。それはやはり見間違えではないのか。だがはっきりと何なのかを確かめることは出来ない。もどかしく、同時にとても不気味だった。
それは単なる光陰の具合で出来上がる影ではない。どこか変だった。
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