一章 焦眉 2
六月二十五日
振り返った後ろでは、閉まりつつある自動ドアのガラスの向こうに、既に雨の幕が降りていた。ゆっくりと閉じるドアと共に雨の音も吸い込まれていき、やがてその代わりに建物の中の音が目立っていった。
空調の雑音に混じり、行き交う人の会話、案内のアナウンス。それほど人が多いわけではないが、多少の賑わいはあった。
上着を脱ぎながら受付へと向かうと、手早く手続きを行ってもらい、ついでに上着を預かってもらう。少し待たされるようなので、入口の横に用意されているソファに腰掛けた。
意味もなく目を泳がせ、改めてこの建物の内装を観察する。
内壁は無駄な装飾がなく、白く無機質だ。それは悪い意味でなく、余計な飾りを入れないことで、建物自体をシンプルな装いに統一している。
壁から目線をさらに泳がしていくと、入り口から向かって正面に構える半円状のテーブルを挟み、二、三人の受付が客の応対をしているのが見える。その両脇に二階へと上がる階段が有り、階段を登り切ると、厳重にセキュリティ制御された重そうな自動ドアが一つだけ待ち構えている。
案内されて階段を登る客たちの表情は誰もが揃って、穏やかな表情をしている。充足感と安寧、
聡臣にとってこれはもう見慣れた景色だったが、最初訪れた頃はホテルのフロントのようだとも、病院のようだとも思った。しかしこの場所は宿泊施設でも病院でもない。
ある一点にのみ特化した目的の建物である。事実、ホテルや病院にあるようなエレベーターが併設されていない。あの大扉の奥に用意された各小部屋だけで事足りるからだ。
建物自体もそんなに大きくはない。今や世間に浸透しきっているあるサービスを、この施設は提供している。
「どいてくれ! 先を急いでるんだ」
突然の大声に驚いて見上げると、階段を駆け足で降りてくる人物に目が行った。受付の女性を振り払って半分落ちながら入口──聡臣の座る方へと向かってきた。
あれはさっき財布を拾ってあげた男性ではなかったか、そう気付くと聡臣は目を合わせないように素早く伏せた。茹で蛸のように真っ赤になりながら身振りを大きくして歩いてくる。
関わり合いになるのは御免だ、やっぱりろくでもない奴だった。こんな場所でくらい行儀を良くしたらどうだろうか。ああいう手合のやつを見ていると、まるでこちらまで恥ずかしくなってくる。
彼に振り払われた受付の女性や、
「
呼ばれて腰を上げ、助かったと言わんばかりにそそくさと案内係の女性についていく。すれ違いざまにあの男の顔を一瞬だけ見たが、やはり財布の奴だった。気付かれなくて良かったと改めて安堵する。
一息
大扉の前まで来ると、受付の女性は胸辺りの高さにある「
それは電子錠の役割を持っており、軽快な認証音の音がすると、大扉は見た目とは裏腹に滑らかに開いていく。
「お部屋は二十二番です。ごゆっくりどうぞ」
背後で扉が閉まる気配がしたのを確認すると、歩を進める。
受付と同じく無機質な壁に覆われた直線の長い廊下を隔て、その左右にはフロストガラスで出来た個室へのドアが間隔を開けていくつも並んでいる。
ドアには目線の高さほどのところに小さなモニターがあり、数字が表示されている。奥に行くほど数字は数を増しており、それを追って二十二番の部屋を見つける。
二十二と表示されたモニターに目線を合わせると、眩しい光が視界を縦に通る。虹彩認証完了と表示されるとようやくドアが開いた。
中には人一人が腰を掛けれるだけの、なだらかなカーブを描いた椅子のような設備──ダイビングチェアという正式名称がある──が置いてあるだけ。しかしその様相はマッサージチェアと比べて遜色ない。見るからに綺麗な革造りで、質感も良い。ただ座っているだけでも快適そうだ。と聡臣はこれを見るたびに思う。
おもむろに腰を掛けたが、実際に座り心地は良かった。腰がゆっくりと沈み、柔らかな素材に腰が包まれていく。
少し間を置いてアシスタントAIの無機質な機械音声が流れてくる。
「仮想現実サービス
「
「承知致しました。ダイブを開始します。行ってらっしゃいませ」
いつもの嫌な感覚が聡臣を包んだ。麻酔を打たれたように意識の混濁が始まる。何回やっても慣れるものではない。
少しの嫌悪感の後に訪れる抗えぬ倦怠感で瞼が重く、制御出来ないまま景色は閉じられていった。そうして聡臣の意識は深淵へ落ちていった。
リユニオン・センターと呼ばれるこの場所で行われているサービスは、聡臣が生まれた頃には既に世の中に浸透していた。
2045年以降、AIが人類の知能を超えた日──技術的特異点が到来し、多くの電子システムがその発展に革命を起こした。
中でも破竹の勢いで発明が進んだのは、脳細胞が身体機能へ命令を発する時に生じる電気信号、
このニューロンを外部装置が解析し、様々なプログラム言語への変換を可能にし、あらゆる電子機器を脳の命令のみで実行出来る技術が飛躍的に発達した。
使用者はどちらかの耳の後ろに「リンクス」と呼ばれる、脳波の測定と情報送受信を行うデバイスを埋め込む必要があるが、これにより様々な分野での技術の発展が凄まじい勢いで成された。
中でも発展が著しかった医療の現場では、四肢障害の人たちが身につける義手義足を最低限のリハビリのみで生体と変わらない動かし方が出来るようになったり、失明や色覚障害の人への義眼が開発されたりと様々な医療革命が起きた。
このリンクスの活躍に留まらず、置換細胞などの発達により、機能障害を起こした内臓を人工内臓に取り替えたり、神経そのものを人工的に置換することが可能になり、先天性の様々な障害を持つ人や、身体の弱い人などにとっての救世主となり得る物が開発されていった。
しかし、それでも人間は不死にはなれず、いくら人工的に取り替えた身体でも、自身のオリジナルの細胞は劣化し、いずれ限界も訪れる。その結果起こる老衰や、脳への突発的な機能障害、それ以外にも事故などによっての死はやはり免れるものではなかった。
だがそれからさらに数年が経つと今度は、リンクスを用いて人間の脳を解析し、まるごと電子データ化する技術が発達、実用出来る段階までになった。
この技術によって人類は事実上、今まで成し得なかった不死を可能にしたと言って良かった。
対象者が死を迎える前に、その脳をデータ化して抽出すれば、仮想現実に覚醒させる事で肉体は滅びてもその人物の精神、つまり意識は仮想現実の世界で生き続ける。
世界を牽引する科学者や技術者、各国の代表や著名人、政治家達が先立って脳のデータ化を行い、安全性は確立されたが、そうすると今度は一般に広まっていった。
即ち、「亡くなった故人ともう一度会える」サービスが始まったのだ。
あらかじめ同意書に誓約をした人物が脳のデータ化を行っていれば、その人の死後、遺族の同意によってサービスは開始される。
遺族は個々に用意された
正式名称を黄泉比良坂にちなみ、「
「聡臣、おかえりなさい」
聞き慣れた耳障りの良い柔らかな声に反応し、聡臣は我に返る。
「ただいま母さん」と反射的に返事をして顔を上げると、そこは彼の見慣れた実家の景色だった。今回も仮想現実へのダイブに成功したようで安堵した。最も、失敗したという例は今の所聞いたことが無いのだが。
陽光の差し込むダイニングでテーブルに並んだ椅子に座っている。
向かいには父の弘成が穏やかな表情で新聞を広げながらコーヒーを啜っている。背後を振り向くと同時に朝食の香りが飛び込んできた。どうやらベーコンエッグのようだ。その嗅ぎ慣れた匂いは聡臣を落ち着かせた。意識はもうすっかり現実と同じく安定した。
母の美奈が、カウンターキッチン越しから微笑み、元気だったかと聞いてくる。それに生返事を返して、視線を脇に逸らしていく。
奥の方に見える背の高い冷蔵庫には、ゴミ捨ての張り紙や買い物メモ、母のパートのシフト表などがマグネットで固定されている。
その横にある食器棚には、ガラス越しに聡臣のよく使う茶碗や平皿が覗き、棚の上にあるトースターには食パンが入れてあるのだろう。赤外線がチリチリと鳴っている。
向かいの弘成の背後ではテレビが何でも無いニュースを流しており、そこから発されたキャスターの声を右から左へ聞き流しながら、母が運んでくる料理に目をやった。予想通り、母の強い火加減で少し焦げ気味のベーコンの上に、凝固しきった目玉焼きが乗っている。その様子は聡臣に僅かな郷愁を覚えさせる。
「母さん、まだ焼き加減が下手だな」
「この子はまた憎まれ口を叩いて」
そのやり取りに弘成が苦笑したのをねめつけてから、美奈は再びキッチンへと戻っていき、冷蔵庫から麦茶のボトルを出そうとするのを目で追いながら、聡臣は出された朝食を頬張った。
今日もいつもと変わらない日常の中で、何の変哲もない一日を過ごす。
変わっているのは、ここが仮想現実の「
キッチンの隣には、磨りガラスを木枠で格子状に囲った窓付きの扉があり、その奥は廊下で、洗面と風呂が続き、二階への階段がある。
その扉の手前、電話台の壁にはホワイトボードがあり、今日の日付が書いてあった。だが予定表には、何も書いていない。
途端に懐かしさと寂しさを一度に覚え、聡臣は──実際は自身がログアウトを要請しなければ不可能なのだが──現実に引き戻されそうになる。
これら全て、現実ではない。機械が作り出した仮想現実の世界に自分はいる。だが、強く意識してそう思わなければ現実と遜色ない。むしろ現実との違いを見つけるほうが困難だった。それほどこの黄泉の国は現実を忠実に再現している。
が、折角の家族との時間にこんなことを考えているのはナンセンスだと思い、聡臣は目線を隣にずらす。と、その椅子には誰も座っていない事に今度は意識を取られた。
ダイニングテーブルに囲まれた椅子は四つで、この場には三人しか居ない。
弟は、このいくらでも作り出せる仮想現実の場所にさえ、やはり居なかった。
「あれからどのくらい経ったかな」
聡臣の目線に気付いたのか、弘成が新聞を畳み、テーブルの脇に追いやってからそう言った。
「二年だよ。もうそんなにって思うよな」
聡臣の弟、
赤信号のはずの交差点で、飛び出してきた子どもたちを避けるためにAIが走行車線をずらしたのだ。もしもこの場所が橋でなければ、多少の怪我は免れずとも、乗っていた家族は助かった可能性もあった。
しかし現実はそうはいかず、減速も追いつかぬまま急ハンドルを切って、僅かに浮いたタイヤはガードレールを踏み台にし、そのまま川へ転落していったという事だった。
幸か不幸か聡臣は仕事で一緒に行けず、事故は免れたものの弟には二度と会うことは出来なかった。その後救助された三人は病院内で死亡が確認され、その時に初めて聡臣に知らされた。
死亡保険や、AIの判断が適切ではなかった事から生じた車会社からの損害賠償などの手続きがあったのだが、聡臣にはそれが、金で全てを解決しようとしている下衆な対応に感じられた。
初めは受け取りを断るつもりだったが、その時に両親が
だが弟は、まだ若いということもあって黄泉への誓約を交わしていなかった。だからもう、この黄泉の世界にさえ友星の存在は許されなかった。
「ドライブAIの倫理問題だって、一時はリコール続きでえらい騒ぎだったな。今じゃほとんどがマニュアルドライブだ。ある意味、友星は後に続くはずだった犠牲者を救ったとも言えるよ」
弘成がそう言って、背後の仏間を振り返る。そこには仏壇が備えてあり、写真立てには友星のとびきりの笑顔が飾ってある。
「……そうとでも思わなきゃ、自分達だけがこうして黄泉人になっている事に罪悪感を感じてやり切れないよ」
再び振り返った弘成は、文字通り肩を落としている。
「なったもんはしょうがないだろう。そんな事言われると俺が一番悪者になっちまうじゃないか」
本心では微塵も責めるつもりはなく、聡臣はその場の雰囲気を和ませるための自虐としてそう言った。
美奈がそれを補助するように間に割って入ってきた。
「そうよ、儲けもんだと思わなきゃ。歳も取らないし、
弘成はそれで笑みをこぼし、妻の意見に同意した。それから「でも」と窓の外を見ながら続けた。
「でもなぁ。ここ最近、何か変なんだよ」
「何かって、何が?」
平らげた朝食を台所に運び、美奈の手伝いをしながら聡臣は聞き返す。
「うーん……上手く表現出来ないけど、この世界がって言えば良いのかな。最近目線の端に何か映ることが多いんだ。ほら、聡臣は飛蚊症だっただろう? 医者からの説明で言われたけど、目の動きに連動するように、視界に一瞬影みたいなのが映る。それみたいな感じなんだよ。でも、見えたと思う場所に焦点を合わせても何もないんだ。この世界でそんな異常って、あるのかなぁ」
身振り手振りでそう説明し、何かの不調かなと一人呟き、考え込むように顎を触る。
美奈が横で気の
街路樹の背後に見えた気がした影のようなもの。一瞬そう見えた気がしたが、やはり気の所為だったと思っていたあの現象。今しがた父から聞いた話ととてもよく似ていると思う。
しかしそれはどちらにしろ現実の世界での話だった。気の所為だ、何かの見間違いだと
だが今居るこの場所は黄泉の国の中、仮想現実の世界だ。ましてや弘成は黄泉人であり、いくらこの世界が現実と言っても遜色無いほど精巧な作り込みだとしても、彼の言う通りそんな細かい現象まで再現するものだろうかと少し疑問に思った。
聡臣は過去の自分へ記憶を辿る。かつて左目は飛蚊症で、そしてそれが
幸い医療革命のお陰で、リンクスでの義眼制御を導入し視力は失わずに済んだが、義体化に抵抗のあった聡臣は不満だった。それでも今こうして
そのかつて持っていた生身の左目、それで視えていた視界を思い出した。
飛蚊症は
言いようのない違和感を覚えるが、いくら考えても専門知識のない聡臣には機械やシステムの不調だとしか思えない。もちろん只の思い込みである可能性も捨てきれない。
不調みたいなものなのだろうと聡臣は今の思考を言葉にして父を諭したが、まだ納得の行かない様子の弘成はそのうちに諦めて再びコーヒーを啜り出した。
諭したはずの自分もどこか釈然としないまま、洗い物を終えることに集中した。
漠然とした不快が聡臣を取り巻く。何か違和感があるのは分かるが、正体が掴めない。目標は泥沼に沈んでいるが、何を探せば良いのか分からないままに無駄に泥だけを掴んでは捨て、掴んでは捨て、掴んだ手だけが泥に汚れた不快感のみが残り、肝心の目標は見つからない。そんな空虚な感情に包まれた。
「今日は
美奈が食器立てに食器を並べながら聞いた。
思考は完全に影の原理の解明で手一杯だったが、聡臣はこの一言で我に返った。タオルで拭く左手の薬指にはめられた指輪を軽く撫で、返事を返す。
「……ああ、そのつもりだよ」
「そう、気を付けてね」
お互いにそう会話を交わしたところで、軽く高い電子音が軽快な音をたてて鳴り出した。聡臣にしか聞こえない、
「もう時間だそうだ、今日はこのくらいで退散するよ」
そう言って、じゃあまた、と立ち上がり、見送る両親を背にログアウト認証を行った。
耳の裏にあるリンクスに指を置いてからログアウトすることを考える、すると一拍置いてアシスタントAIの声が聞こえた。
「ログアウトしますか?」
「ああ、頼むよ」
脳波の受信で操作が出来る、即ち考えただけで操作が可能である。なんとも便利な事だと聡臣は改めて思う。途端に、ダイブした時と同じ様な倦怠感を覚え、意識が途切れていく。
視界が閉じる一瞬前、笑顔でこちらを見送る父の背後に揺れた影を見た。ような気がした。
父は、聡臣の向かって左側に立っていた。
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