一章 焦眉
一章 焦眉 1
六月二十五日
重く、暗い空が広がっている。
見上げた頭上に曇天が居座り、陽の温もりは微塵も届かない。吹く風がとにかく肌に刺さり、
記憶が定かならば、今日は六月二十五日のはずだった。しかし初夏の空気などどこにも感じられぬまま、鬱々とした気分で彼は歩を進めていく。
歩道と道路を隔て、申し訳程度の間隔で植樹された街路樹が風になびき、時たま葉を落としている。なんとなくそれを見ていると、まだ新緑が目立つプラタナス、そのいくつもの葉の中から零れた一つが
そして道路を勢いよく走ってきた車に踏まれたかと思ったら、後はもう行方知れず。街路樹など通行人の目にも留まらない、咲かせる花でさえ誰も気にしない、さらにその葉とくればなおさら行方などどうでもよい。
まるで今の世の中みたいだな、と聡臣は世を儚みつつ葉の行方を追うのを諦める。先日、なんとなく見たネットニュースを思い出した。
大学生二人が同時に不審死という、いかにも不気味で気落ちする見出しだったので内容にはあまり目を通していなかった。
最近、どこも同じような暗いニュースばかりだと思う。思わず目線も下に落ちていく。
ふと、道端に何かの物体が落ちているのを見る。
表面にかつてあったであろう輝きは今では鈍く、所々に粗い傷が目立つのだが、その内側だけは大切にされ良く肥えている。革で出来た財布だ。
前方には同じような速度で歩いている中年の男が居た。彼のものだろうか、ならば拾ってあげようか。
普段ならそんな事を思いもしないのだが、ただでさえ天気もこの世も暗い。少しぐらいの善行をするのもたまにはいいだろう、と
そう思って財布を拾い上げてから、聡臣は歩く速度を上げ、彼に追いつき、落としましたよ、と声をかけた。
振り返った男性は不機嫌かつ怠そうに振り向き、聡臣と財布を交互に
──やっぱり親切になんかするんじゃなかった。いくら自分が望んでも、気温も人も冷たいままだ。
聡臣、なんていう大層な名前は、両親が「
出来れば彼に聞こえるよう不機嫌に大きく鼻を鳴らして、前に差し出しっぱなしだった腕をポケットに再び仕舞う。しばらく外に出していただけなのに両手はもう氷のようだった。いくら梅雨の時期とは言え、夏の始まりが寒いなんて滑稽にもほどがあると思った。
ふと記憶の引き出しを開けて、昔から今日までの記憶をいくら辿っても答えは同じ、年々と季節の感覚が変になっている。初夏なのに日によって暑く、日によって寒い。
本来そうであるはずのものがそうでない時を目の当たりにした時、人はストレスを感じる。聡臣にとって今がまさにそうだった。
何で六月に上着を着なきゃいけないんだろう。何で彼はお礼の一つも言ってくれないんだろう。
仕方のないことなのは重々分かってはいるのだが、だからこそ払拭しようのないわだかまりが残る。あんな態度を取られると知っていたら、財布を拾うどころか蹴飛ばしさえしたかもしれない。彼でなく、次に何か落とした人に対してもそうするかもしれない。
眉間に力が入っている事に気づき、仰々しく頭を左右に降る。ストレスを溜めるのはあまり良くない事は分かっていた。急激に頭に血が上れば、また景色がぐらつくからだ。聡臣は自分の精神面の弱さが身体への負担を招く事を知っていた。
邪魔にならないように道の端によってから目頭を抑え、街路樹にもたれかかるようにしてしばらくじっとする。
ここ最近、聡臣は仕事のせいで外出すら珍しい程に家で籠りきりだった。運動不足は良くないし、用事をこなすついでに久しぶりに歩いてみてもいいと思い立った結果がこれだ。些細なことだろうが、塵も積もれば山となる。
いくら心を落ち着かせようと深呼吸しても、わだかまりは消えない。それどころかつい先程のひと悶着を頭の中で何回も繰り返す始末。いっそのこと見られていてもいいから街路樹でも電柱でも蹴っ飛ばしてやりたい。
だがそれでは根本からの解決にならないと思った。確かにストレスの解消は必要だが、モラルのない行動はいけない。それではさっきの奴と同類ではないか。
変わるべきは世の中ではなく、自分の中の価値観なのだと思う。何故なら、いくらより良い未来を望んでも、世界の姿は変わらないからだ。
ただ、そうだと頭で分かってはいても、認識を変えることは容易ではない。難しいのは、有言実行をする事だ。
最後に大きく一息吐いてから目を開けた。少しの間瞑っていただけとは言え、開いた視界は少しぼやけている。
その左端の方に、ほんの一瞬だけ何かが映ったのを認める。
間隔を開けて植えられた街路樹の、聡臣に一番近いその一本の背後に、人のような形の影を見出した、ような気がした。
なんとなく不審に思い視点をそこに定めるも、何もない。どころか誰も居ない。
先程の中年男性かとも思ったが、とっくの昔に道を折れたのかどこにも見当たらない。彼じゃなかった。
もしそうだとしても、財布を奪い返した後、さっさと歩く彼を唖然と見つめ、背中が小さくなっていくのを聡臣は見ている。目を瞑っていた短時間で引き返してきて、わざわざ木の陰に隠れるだろうか。
瞬きを繰り返しても何も変わらない。やはりそうだ、最初から何も居やしない。百歩譲って中年男性ではなく他の誰かが仮に居たとしても、偶然そのタイミングで奥に居た人影が重なって見えただけだ。人間の視覚も完璧ではない。
そう思って恥じるように後頭部を掻いた。馬鹿馬鹿しい、と
──しかしやはり違和感に気付いて立ち止まった。
確か視界の左端ではなかったか。つまり捉えたのは左目の方だ。右目では視界の左端の方は見えないはず。なのに見えたような気がした。
義眼でも、その視覚には異変を感じるものなのだろうか。
左目を
アスファルトの濡れた匂いが立ち込めだし、風がより一層身体を強く押してきた。曇天は先程よりもずっしりと重くなり、高層雲に覆われた頭上にはいつの間にか濃灰色の綿が層をなしている。遠くから雨の音が聞こえてきた。じきに一層強い雨が来る。そう思うと早く向かわなければいけない衝動に強く駆られた。
不調というものは何にでも存在する。有機物だろうと無機物だろうと、状態が良くないことなんて特別おかしいことでもない。
それでもなんとなく、先程の事はどこかおかしいと思ってしまう。何故か胸元に支えるような、正体の掴めない不穏な気配が消えないのはどうしてだろうか。
前方、聡臣が向かおうとしている方向にもやはり暗雲が空を覆っている。向こうから天気が移ってきたのだろうか、あっという間に強い雨が降り出し、聡臣を襲った。しばらく歩いているだけで既に足元は濡れてきていた。踏み締める度に濡れた靴の不快な感触が、払拭したはずの苛立ちを再び募らせる。
何かの嫌な暗示、行く先々で不幸に見舞われるとそう決まっている運命のようだ、と一瞬思うが、そんなオカルトめいた考えなど古臭く馬鹿らしいと改める。
人の運命が決められていてなるものか。科学で説明出来ないものなど存在し得るはずもない。ましてやこんな世の中で。
街路樹にもう一度目を向けても、やはり何もなかったことを改めて確認してから、聡臣は再び歩き出した。
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