第23話 十七歳 お別れのキス

 お兄様のお手伝いが出来るなら、わたしの力が少しでも役に立つなら、それでこれからも傍にいさせてもらえるなら、それは断る理由のないお願いだった。

 数か月前までのわたしだったら、二つ返事で受け入れていただろう。


 けれど……わたしはすぐに返事が出来ず、言葉を詰まらせてしまった。

 学園を辞めたらもうアルガスとはなかなか会えなくなってしまうかもしれない。

 彼は一緒にいると暗い気持ちを吹き飛ばしてくれる、今のわたしにとって唯一のお友達。

 心に引っ掛かるのはそんな思いだった。


「オレのこと、助けてはくれないの? ああ、そっか……フローラには、オレよりもっと大事にしたいモノがあるんだね」

「そんなことっ」

 顔を上げるとお兄様が真っ直ぐにわたしを見つめていた。

 その目がわたしの心の奥底までをも見透かすような、そんな眼差しに感じて、なぜだか居心地の悪い気持ちになってしまう。


「オレにはフローラだけなのに」

「わたしにだって、もう頼れる家族はお兄様だけよ!」

 そう思ったら、わたしにはもう、お兄様からのSOSを無下にすることはできなかった。


「迷ったりしてごめんなさい。わたし、学園を辞めてお兄様の秘書になるわ」

「ありがとう、フローラ」

 お兄様はいつも通り優しい笑みを浮かべ頷いてくれた。






 次の日は、まだお兄様のことが心配だったので看病のためわたしは学園をお休みした。

 お兄様は一日休んですっかり元気だと言っていたけれど、目を離すとまた無理をして仕事を始めてしまいそうだったから。


 それからまた次の日、わたしは学園を辞めることをアルガスに伝えたかったのだけど、会う事ができなかった。

 お互い約束をしていたわけではないけれど、昼休みは一緒に食べる事が当たり前になっていたのに。


 気を取り直して次の日もわたしは中庭でアルガスを待っていたのだけれど、彼が来ることはなかった。

 気になって彼のクラスに顔を出すと、彼のクラスメイトからアルガスは休みなのだと聞かされた。休みの理由までは分からないと言う。


 次の日もアルガスはお休みで、今週はそのまま彼に会えず休日になってしまった。

 心配だったわたしは、アルガスの働いているカフェに顔を出してみたのだけれど、彼はバイトもお休みしているようだった。

 店のマスターさんの話によると、家の事情で急遽実家に戻っているらしい。


 なにかあったのかしらと心配になったけれど、どうすることも出来ないわたしは、彼の帰りを待つしかなかった。もどかしい。






 そして休み明け。

 今週末には、学園を辞めることになっているわたしは、なんとしてもアルガスに会いたかった。

 でも、今日こそは戻って来ているだろうかと、またアルガスのクラスを訊ねてみたのだけれど、彼は今日もいなかった。


 その日の昼休み。ぽつんと中庭の隅っこでサンドイッチを頬張りながら、わたしは一人溜息を吐いた。

 一人ぼっちの昼休みなんて慣れっこのはずだったのに……なんだか味気ない。


 このままアルガスに会えないままお別れの日を迎えるのは寂しすぎる。

 そんな思いからかあまり食欲も湧かなくて、紙袋にサンドイッチをしまいもう一度溜息が零れた時だった。


「フローラ」

「っ!!」


 突然名前を呼ばれ振り向くと、そこには少し疲れた顔をしたアルガスだ立っていた。


「アルガス!! 今日はお休みじゃなかったの?」

「……ああ。午前中は事務手続きに追われてた」

「事務手続きって?」

「……俺、この学園を辞めることになった」

「え……」


 突然のことに頭が真っ白になる。

 アルガスに学園を辞めると伝えるはずが、その前にアルガスが学園を辞める?


「ど、どうして……」

 アルガスは少しだけバツが悪そうに視線を落としてから口を開いた。


「とても学園に通ってられる経済状況じゃなくなったんだ」

 話を聞くと、アルガスのお父様が作っていた借金が膨れ上がり家系は火の車になっていたそう。さらに変な事業に手を出したせいで、それが追い打ちになったのだと。


「それで、アルガスは学園を辞めてお家の手伝いをするの?」

「ああ、つーか……結婚することになった」

「えっ」

「金はあるけど爵位のない家の娘と、爵位はあるけど金のない家の息子が結婚すれば、今回の件は丸く収まるんだと」


 お父様に頭を下げられアルガスは、それを受け入れたのだと言う。

「クソ親父のいう事を聞いてやるのは正直癪だったけど……うちにはチビ達が沢山いるし。母さんに泣いて頼まれたら、受け入れるしかなかった」

 普段は強い母の涙に心が動いたのだとアルガスは言った。

 家族を大切にしている彼らしい決断だと思う。


 もしもわたしの身に同じ事が起きて、わたしが結婚すれば丸く収まるのだと言われれば、わたしも同じことをしていた気がする。

 だから……彼の選択を応援したいと頭では思っているのに、上手く言葉が出てこない。どうしてだろう。


「ごめんな……」

「なんで?」

 突然謝られても、なんのことだか分からない。アルガスは今にも泣いてしまうんじゃないかと思うほど、悲しげに顔を歪めていた。


「お前を独りぼっちにさせないって約束してたのに。勝手に決めて、勝手に実家に戻る事が、心残りなんだ」

「アルガス……」

 そんなこと気にしなくていいのに。仕方のない事だわ。


 そう伝えたいのに、やっぱりわたしは言葉を詰まらせ、上手く気持ちを言葉にできない。

 その代り、言葉に出来ない感情が涙と一緒に溢れて零れた。


 わたしが大切に想った人は、なぜかみんないつも遠くへいなくなってしまう気がする。


「泣くなよ。お前にそんな顔されたら、俺っ」

「ごめっ、なさい……寂しいけどっ、わたしっ、アルガスのこと応援してるわっ。離れていても、あなたの幸せを祈ってる」


「っ」

 突然……アルガスの顔が近付いてきたかと思うと、アルガスはわたしの唇に掠るようなキスをした。

 それは、ほんの一瞬の、触れるだけの口付けだった。


「アル、ガス?」

 突然、唇を奪われわたしは目を丸くする。


「わりぃ……他の女と結婚が決まってからするなんて、俺、最低だな」

 そう言いながらもアルガスは、わたしをきつく抱き締めた。

 わたしは混乱した。お兄様以外に、こんな風に抱き締められたのは初めてで……なぜだか胸が苦しくなった。


「ホントは俺っ」

 アルガスはなにか言い掛けて、でもそれを口にすることなくつぐむ。

「アルガス?」

「なんでもねぇ……お前より、家族を選んだ俺には、もうなにも言う資格はないな」

 アルガスはまるで自分を責めるようにそう言う。


「家族を優先させるのは当然よ。わたしもね、学園を辞めることにしたの。お兄様のために」

「……は?」


 驚くアルガスに、わたしはお兄様が倒れてからのことを話した。

 アルガスは黙ってわたしの話を聞いてくれていたのだけれど。


「決して無理強いをされたわけじゃないの。これは、わたしの意思で決めたことだから。いつも、わたしの気持ちを一番に考え尊重してくれるお兄様を、近くで支えてあげたいと強く思ったの」


「前から思ってたけど……お前ら兄妹の距離感って、少しおかしくないか?」

「え?」

「本当に、フローラは自分の意思で学園を辞めてぇの?」

 アルガスが何を聞きたいのか分からなくて、わたしは首をかしげる。


「自分の意思に決まってるわ。だって、お兄様がわたしの支えを望んでくれたんだもの。なら、わたしはその気持ちに応えなきゃ」

「お前って、いつも口を開けばお兄様お兄様って、そればっかだ」

「当たり前よ。だって今は二人だけの家族なんだもの」


「それは、本当に家族の関係って言えるのか?」

「え?」

「前に、俺の働いてるカフェに来たお前ら、とても兄妹って雰囲気には見えなかった。特にあの兄貴がお前を見る目は……」

 言い掛けて、けれどアルガスはその先を言うのを躊躇する。


「アルガスが、なにを言いたいのか分からないわ」

「俺が、お前に言いたいことなんて……っ」


 アルガスはもどかしそうに眉をしかめ、わたしの額や瞼、頬にキスの雨を降らせてきた。大切に、壊れ物を扱うように……まるでお兄様がいつもするおやすみのキスみたいに。


「アルガス、お兄様みたい……ダメよ、家族でもないのにこんなこと」

 わたしは、その罪悪感に耐えきれずアルガスを押し離す。

「……こんなキス、普通の兄妹はしねーんだよ、バカ」

「え?」


「お前は、毒されてるんだ……きっと、もう救いようのないぐらいに」

 アルガスがなにか呟いたけど、聞き返す間もなくまた抱きしめられる。

「アルガス、苦しいわ」

 今度はわたしの力で押したぐらいじゃアルガスはびくともしてくれなかった。


 なぜ、わたしはアルガスに抱きしめられているんだろう。

 それなのに、なぜわたしはこんな時にまで……お兄様のことを、考えてしまうんだろう。


 お兄様の顔が脳裏にちらつき、罪悪感がわいてくるのは、どうしてだろう。


「やっぱり俺がなにをしても、お前の心には響かないんだな」

 そんなわたしの気持ちに気づいたのか、アルガスが顔を歪ませそう言った。


「もっと早くお前と出会いたかった……そうしたら、少しはお前の心に俺の声が届く余地もあったのかな」

 アルガスは静かに涙を流しながら、名残惜しそうにもう一度わたしの唇にキスをする。


 わたしは、黙ってそれを受け入れた。今までアルガスと過ごした短い思い出が過ると、抵抗する気持ちが削がれて。


 アルガスは、もしかしてわたしのことを……?


 もしそうだったなら、わたしは?

 わたしは、アルガスのことを……


 太陽みたいに明るい彼の笑顔が瞼に浮かぶ。

 けれど一瞬芽生えた想いは、すぐに罪悪感に塗りつぶされていった。


 これはお別れのキスだから。だから許してと、心の中で誰かに言い訳をして、わたしは名前を見つけられない感情に蓋をしたのだった。

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