第22話 十七歳の兄離れ
六日ぶりにお兄様が帰って来た。
大きな仕事を終えたらしく、その表情は晴れやかだった。
「六日もフローラを一人にしてしまったお詫びに、明日はレストランに夕食を食べに行こうか」
いつもと同じ寝る前にお兄様がわたしの部屋にきて、ゆっくり過ごしながらそんなお誘いを受けたのだけど。
「ごめんなさい。明日は先約があるの」
少しの罪悪感を覚えながらも、わたしはその誘いを断った。
本当は先約なんてないけれど、先日のクラリス様との一件からわたしなりにお兄様とのこれからの距離感を模索中なのだ。
いつまでも子供みたいに甘えて頼っているだけじゃいけないと思うから。
「先約って……夕食の時間までに帰ってこられないような用事なの?」
「ええ、外で食べる予定なの」
と言ったはいいけれど、明日の夕食はどこで済ませようかしらと、わたしは頭の中で予定を立てる。
「……放課後は寄り道しない約束はどうなったの?」
「わたし、もう子供じゃないのよ。放課後ぐらい自由に過ごしたいわ」
はっきりとそう答えたわたしに、お兄様は少し驚いた顔をした。
普段わたしが、お兄様との約束を破ることなんてないから。
「ダメだよ」
それでもお兄様は、静かにわたしを諭すようにそう言う。
「まだ学生なのに。保護者もなしで、夕食の時間まで出歩くなんて許可できない」
未成年とはいえわたしももう十七歳。この歳になれば、普通に社交界へお呼ばれすることだってある。お兄様ったら過保護すぎるんだから。
「……約束の相手は、アルガス・ニーリー?」
決して感情的になっているわけではない平静な声音でお兄様はそう聞いてきたのに、咎められているような気分になるのはどうしてだろう。
「お兄様には秘密!」
アルガスどころか本当は誰とも予定なんてないので、咄嗟にわたしは言葉を濁した。
「秘密って……」
お兄様はそんなわたしの態度を怒ったりはしなかったけれど、少し驚いた顔をした後「分かったよ」と言って、ショックを受けたように部屋から出て行ってしまった。
自分から断ったのに、お兄様が出て行った後は、なんだかひどく寂しい気持ちになった。
「おい、早く食わねーと昼休み終わるぞ」
いつも通り中庭でアルガスと昼食を取っていた昼休み。
わたしは、いつの間にか食べる手を止めぼうっとしてしまっていたみたい。
「ねえ、アルガスって夜は酒場で働いてるのよね。そこってお酒の他に普通の夕食もあるの?」
「ああ、あるけど」
「じゃあ、今日はアルガスのお店へ食べに行こうかな」
「……兄貴となんかあったのか?」
アルガスは鋭い所があるから、わたしのその言葉だけでなにかを察したようだった。
「喧嘩でもしたとか?」
「まさか」
喧嘩とは違う、と思う。というか、お兄様と喧嘩なんてしたことない。
いつだってお兄様は優しくて、わたしのことを理解してくれていて、わたしの味方でいてくれた人だから……。
「でも……そろそろ、兄離れしなくちゃなって、思って……」
「この前の事、気にしてんのか」
アルガスの言うこの前の事というのは、もちろん例の公爵令嬢様に言われた内容のことだろう。
「それもあるけど……わたし、お兄様に甘え過ぎていたなって、自分でも思って」
「ふーん……でも、そんな暗い顔するぐらいなら、一度兄貴と腹を割って話し合ったほうがいいんじゃねーか?」
「そう、かな」
けれどお兄様はクラリス様との婚約の話が出ていることを話そうとはしてくれない。
それなのに、わたしから踏み込んでしまっていいのだろうか。
「あんまり一人で抱え込むなよ。まっ、今日のところは俺が夕食付き合ってやるよ」
今日は丁度バイトが休みの日だったんだとアルガスは、わたしの大好きなお日様みたいな笑顔を見せてくれた。
放課後になり正門前で待ち合わせをしていたアルガスと合流。
アルガスが普段働いているお店で夕食を食べようという事になったのだけど……
「フローラお嬢様!!」
突然名前を呼ばれ振り返ると、そこには血相を変えて馬車から下りてきた我が家の執事長の姿が。
「どうしたの?」
わたし専用の送迎馬車は、今日はお迎え不要と返していた。
それなのに、それも執事長自ら学園まで来るなんてただ事ではない。
「ブライアン様が倒れられ、意識が戻らないのです」
「え……」
執事からの言葉を聞いた途端、目の前が真っ暗になった。
アルガスとの約束を取り止め、わたしは執事長と馬車に飛び乗り屋敷に戻った。
診察してくださったお医者さんの話によれば、お兄様は過度な疲労により倒れてしまったらしい。
先生から数日安静にしていれば問題ないと言われたけれど、居ても立っても居られなくて、わたしはお兄様の寝室へと飛び込んだ。
ベッドで眠るお兄様のお顔を覗き込んでみると、思っていたより顔色が悪くなかったことで、わたしはようやくほっと息を吐いた。
「お兄様、ごめんなさい……」
医師の話を聞くまで、このままお兄様が目覚めなかったらどうしようと何度も考え恐怖を感じた。
昨日気まずいまま終わったあの会話が、お兄様との最後の会話になってしまったらと思うと体が震えた。
平和な日常がある日突然なくなるということを、わたしは身を持って体験していたのに。
「お兄様まで失ってしまったら、わたしっ……」
わたしは声を震わせながらお兄様の手をきゅっと握りしめた。
「……心配をかけてしまったみたいだね、ごめん」
「お兄様!」
わたしの声に反応してお兄様は目覚めてくれたようだ。
わたしは執務室でお兄様が倒れてしまったこと、医師によれば疲労が原因らしいということを伝えた。
お兄様は最近少し仕事をがんばりすぎていたみたいだ、と苦笑いしていた。
「……ところでフローラ、今日は予定があったんじゃなかった? 大丈夫なの?」
「なにを言うの、お兄様。こんな時に、お兄様の下へ駆けつけないわけないじゃない」
「そっか、ありがとう……もし、来てくれなかったら、フローラをついにどこかへ閉じ込めてしまっていたかもしれない」
「お兄様ったらこんな時まで冗談言わないで。わたしね、お兄様が倒れたと聞いてからずっと怖かった。また大切な人を失ってしまうんじゃないかって。お兄様が無理をしていたことにも気づかず、ごめんなさい」
「フローラが謝る事じゃないさ。自己管理が出来ていなかったオレの責任だから」
有能な秘書でもいてくれたら助かるんだけどね、とお兄様が苦笑いを浮かべる。
「もう無理をしちゃダメよ。わたしに出来る事があったらなんでも協力するから。だから一人で抱え込まないで?」
「……本当に? なんでも?」
わたしの言葉を聞いたお兄様の目つきが一瞬鋭く光ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「それなら……オレ専属の秘書になってくれないか」
「え?」
「学園を辞めて、公私ともにオレを支えて欲しい」
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