ナラシンハの伝説

「ここでは無関係の人間に聞かれるおそれがあるから、場所を変えよう。ゲルダ、ちょっとこの二人と話をしてくるから留守を頼むよ」


「ええ、ごゆっくり」


 ゲルダ夫人はにっこりと微笑んで返事をした。話に加わるつもりはないようだ。


「どこに行くの?」


「プライベートルームさ。こんな仕事をしていると一人になれる場所を確保するのが大変でね」


 ユーディットの質問に答えながら建物の中を案内する。町長の屋敷は役場に囲まれていることもあって、頻繁に町の職員がやってくる。その応対に追われていると自分の時間を持つのが難しいのだ。ゲルダ夫人も変装までして町の外に出ていたのは記憶に新しい。


 町長に案内されてやってきたのは、屋敷の一角にある小さな扉だ。プライベートルームと表示されている。扉を開けて中に入ると、決して広いとは言えない書斎だった。


「本が一杯だ!」


 この世界では装丁された紙の本は珍しい。それが部屋の壁を埋め尽くすほど並べてある。この一部屋だけで数千万ゴルドの財産になるだろう。


「こんな簡単に入れる場所にあっていいの?」


 ユーディットには珍しく、まともな疑問をぶつける。だが町長は平気な顔をして傍にある本棚を叩いた。


「こんなもの、ただの飾りさ。本当に大切なものから目をそらすための、ね」


 そう言って、本棚の脇にある何かを操作すると、正面にあった本棚が横に動き、後ろに隠されていた階段の入り口が現れた。


「おおーっ! なんかすげえ」


「いいだろう、この仕掛けを作るのには苦労したんだよ」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて、町長は二人を地下ヘと案内するのだった。


 そこにあったのは広い空間。煌びやかな装飾があるわけでもなく、何か秘密の書かれた古文書があったりもしない。ただの広間だ。


「広い空間が必要でね。モルガくんならわかってくれるよね?」


「まさか、ここで解放するんですか?」


 モルガの言葉に、満足そうに頷く町長。ユーディットは置いてけぼりである。


「アヴァターラとは、ヴィシュヌ神が地上に降りる時に取る仮の姿だ。その中でもナラシンハという化身は、神が特別な理由があって取った姿なんだ。ちょっと昔話をしよう」


 そして、町長はヴィシュヌの化身ナラシンハにまつわるエピソードを語り始めた。


──かつて、この世界を支配した王がいた。

 その名はヒラニヤカシプ。魔神だが、恐ろしい苦行を行って神に願い、無敵の力を手に入れたのだ。彼は神に願った。

「神にも魔神にも人間にも獣にも殺されない、不死の力が欲しい」

 苦行から生じた炎はこの世界を焼き尽くさんばかりだったので、神は彼の願いを聞き届け、神にも魔神にも人間にも獣にも殺されない力を与えたのだ。

 その力を使って世界を支配したヒラニヤカシプだが、彼の息子は魔神でありながらヴィシュヌを崇拝していた。激怒したヒラニヤカシプは息子を殺そうとするのだが、ヴィシュヌの加護によって傷をつけることができなかった。

 だが不死の力を持つ彼はヴィシュヌを恐れない。余計に怒って近くの柱を壊すと、そこからナラシンハの姿になったヴィシュヌが現れてヒラニヤカシプを八つ裂きにしたのだった。


「そう、ナラシンハとは神でも魔神でも人間でも獣でもない姿なのだ。ニルヴァーナ!」


 町長が特別な言葉を口にすると、彼の身体が強い光に包まれ、その形を変えていった。光が収まった時、そこにいたのは……。


「カトリーヌちゃん!?」


 なんと、虎の顔を持ち筋肉質な人間の腕と不気味な背びれが生えた巨大な蛇だった。


 いやちょっと待て、ナラシンハは半人半獅子の人獅子だろ、こんな得体の知れない化け物じゃないぞ!


 確かに神でも魔神でも人間でも獣でもないけど!


「はっはっは、その通り! 私はカトリーヌちゃんとしてゲルダのことを密かに守っていたのだよ!」


「な、なんだってー!?」


 な、なんだってー!?


「私は、美しいゲルダに一目惚れをしてしまった。だが彼女は平民、そこには越えられない身分の壁があった」


 カトリーヌちゃんの姿をしたまま町長が妻との馴れ初めを語り始める。


「ふむふむ、それで?」


 ユーディットとモルガはその場に座り込み、完全に話を聞く体勢になっている。このキモい化け物とゲルダの恋愛に興味があるようだ。


「私は悩んだ末、一つの答えを導き出した。それはダルマの教えに従い、苦行をこなして神に願いを叶えてもらうこと! 魔神ですら苦行をすれば願いが叶うのだ、どんな悩みも苦行で解決!!」


「確かに!」


 いやまあその通りなんだけども、言い方ってもんがあるでしょ? ね?


「どんな苦行をしたんですか?」


「それは、禁欲の苦行だ! 具体的にはオピー禁」


「オピー禁」


 だから言い方!


「ゲルダを想いながら百日間の苦行に耐え、神に願ったことは彼女を誰よりも近くで一生守り続ける力。すると神に苦行を認められ、『アヴァターラ・ナラシンハ』のスキルを授けられたのだ!!」


 認められちゃった!?


「なんという苦行!」


 おいそこの変態、感心するな!


「ふぉっふぉっふぉ、ダルマの強さが神に認められたのじゃよ」


「ダルマ師匠! お久しぶりです!」


 突然現れたダルマ師匠に、町長はかしこまった挨拶をする。どうやら彼にスキルの覚え方を教えたのはこの爺さんだったようだ。


 ダルマ師匠は、再びユーディットに顔を向け、話を始めるのだった。

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