タコ娘と神の化身

 モルガは恐る恐る海に入っていく。水中で呼吸できると聞いて桶に張った水に顔をつけてみたら、普通に呼吸はできた。だが、海に入るとなるとさすがに怖い。一歩ずつ足を進めていると、突然大きな波がやってきてモルガを飲み込み、一気に海中まで引き込んでいった。


「うわあああ! ……あれ、身体が動くぞ。いやむしろ陸を歩いていた時より動きやすい」


 完全に海の中に沈んだモルガは、自由に泳げることに気付いた。水泳なんてやったこともないのに、自分の身体をどう動かせばどちらに進めるのか、完全に理解している。どう考えても『アヴァターラ・マツヤ』の効果である。一部の人間には喉から手が出るほど欲しいスキルだろうな。


「すげー! 身体が軽いぞ!」


 今までにない感覚にはしゃいでしまう。ゴブリンであるモルガは、これまで自分の強さを感じたことはなかった。だが今は違う。この水中において自分は圧倒的強者なのだと、本能が告げている。思いのままに海を泳げば、彼の気配を察知した魚達が必死に逃げていく。


『あれれ、人間じゃないゾ?』


 水中だというのにはっきりと声が聞こえた。声の主は噂のスキュラだと、すぐに分かった。目を向けると海の底から向かってくる人間の少女の姿が見えたからだ。更にそいつが他の魚達とは比べ物にならない〝強さ〟を持っていることが感じられた。だがモルガの心に恐怖はない。どういうわけか、相手には敵意がないと本能が告げている。


「お前がスキュラか……って、お前なんで裸なんだよ、胸ぐらい隠せ! ゴブリンより恥じらいがない奴だな!」


 接近すると、上半身の少女はその胸にあるささやかな膨らみを隠そうともしていない。ゴブリンのメスだって布を巻いて隠しているというのに。なんて破廉恥なモンスターだ!


『別にいいじゃない、魚はみんな裸だし。身体に何か着けるなんて窮屈でショ?』


 スキュラはモルガの前に来て口を尖らせる。腰に手を当て、膨らみを見せつけるかのように胸を張っている。恥じらいがないのはともかくとして、その様子にモルガは違和感を覚えた。目の前にいる少女は人間の船を襲って沈める凶悪なモンスターのはずではなかったか? なぜ敵意を感じないのか。自分がゴブリンだから?


「うーんと、お前本当に手配されてるスキュラか? 討伐依頼が出てる凶暴なモンスターには見えないんだが」


『あー、そのこと? 私がモンスターだから倒そうとしてるんでショ。ひどいよねー、モンスター差別だヨ』


 人間はモンスターを見れば全滅させる勢いなのは確かだが、どうにも話が嚙み合っていないように感じる。確か襲ってくるという話だったはずなのに。そんなことを考えるモルガだが、これは単に見た目の印象で判断しているのではない。自分の身に宿るスキルが、目の前のモンスターを危険ではないと判断してるのだ。


「でも人間達はお前が襲ってきたって言ってたぞ」


『そんなことしないヨー。ところで君は何者なの? なの? ゴブリンに見えるけど、なんかでっかいお魚のオーラを身にまとってるし。海の中で話すゴブリンなんて初めて見たゾ』


 スキュラが首を振る。その様子に嘘偽りはないと、本能が伝えてきた。そして彼女の言葉で初めて、何か巨大な存在が自分の身体を守るように姿を現していることに気付いた。これが『アヴァターラ・マツヤ』の真価なのだ。モルガはまだ知らないが、化身アヴァターラは姿を変えた神であり、マツヤは巨大な魚の姿をした状態を指すのである。とんでもねぇスキルを覚えたもんだ!


 ジョセフィーヌですら、神のことは知らない。そのため『アヴァターラ・マツヤ』の意味を知ることはできず、ただ水中で呼吸が可能になるだけのスキルとして認識したのだ。


「あー、俺はゴブリンのモルガだ。なんか水中で呼吸できるスキルを覚えたからスキュラ退治に来たんだけど、本能がお前は危険じゃないって言ってるんだよな」


『なにそれ、いきなり襲ってきた人間よりずっと見る目があるじゃない! いい子だネー』


 スキュラは、生まれて初めて自分を恐れない相手に出会い、心の底から喜びを感じていた。思わずモルガに抱きつき、その柔らかい双丘に顔をうずめさせる。


「ムギュー! やめろ、痴女かお前。だからもっと恥じらいを持てと言ってるだろ!」


 そしてモルガはゴブリンにあるまじき純情ボーイだった。ユーディットが見てなくて良かったな。


 そんな二人の背後に巨大な影がゆらりと浮かび上がるのだが、まだ気付く者はいない。

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