ファールハラット



「何だそれは!」


 突然激昂してエルフが叫んだ。私は困惑して彼を見つめ返し、その視線が私の両手を見ていることに気づいて、おずおずと言った。


「ええと、……降伏のポーズ?」

「降伏の……ポーズ!? ポーズとは何だ! その単語は知らない!!」

「えと、仕草のこと」

「……何だ、そうか」


 エルフがほんのり顔を赤らめ、気まずそうに目を逸らして弓を下げた。


「我らは降伏したものに弓は向けぬ」

「そ、そうなんですか……あの、エルフさん?」

「ハラットの民だ!」

「ハラットの民さん、あの、どうしてこんなところに?」


 私が尋ねると、両手を離して木の上に立っているエルフの青年は、絵に描いたような柳眉をぎゅっと寄せてこちらを睨んだ。大きな瞳が不自然なくらいキラッとした。アニメみたいだ。


「何故、だと? ハラットの民がハラットに居ることの何がおかしい。お前こそ、何故ここにいる。お前は何者だ」

「私は……あおい。まあちょっと、ふらふらと」

「アオイ? ……ああ、アスタリエンの花のことか」

「何ですって?」

「ふん、人間は人間語しか知らぬというのか? 愚かな」

「人間語……」

「ふらふらと、な……」


 エルフが鋭く目を眇めて言った。ここまで来た理由が理由なのでぼかして話したが、まずいことをしたかもしれないと私は唾を飲んだ。


「散歩か」

「えっ」

「散歩をしていて迷い込んだのかと訊いている!!」

「あ、はい。そう、散歩」


 私は小刻みに頷いた。エルフはとても不機嫌そうに顔をしかめた。美形は怒っていても美形だな、とどうでもいいことを思う。


「帰り道は」

「ええと……分かりません」


 これは本当だった。帰るつもりなどなかったので、気の赴くまま何時間も道なき道を彷徨い歩いたからだ。


「ふん……仕方ない。ついてこい、アスタリエン!」

「葵です」

「森に人間が一人いる。そいつに故郷までの道を尋ねるといい」

「人間、がいるんですか……?」


 エルフが木の枝から飛び降りる。ひやっとしたが、彼は草が揺れる音も立てずにふわりと着地した。どんどん先へ行ってしまうので、私はそのままその場に棒立ちになってその後ろ姿を見つめていた。が、振り返った彼が大きな声で「来いと言っている!」と叫んだので、とりあえず後を追ってみることにする。


 小走りに追いつくと、エルフは「ふん」と鼻を鳴らして歩き出した。一歩ごと僅かに揺れる長い耳は、作り物には見えない。木漏れ日を透かしてうっすら血管が見える。


「……何だ、お前も耳を触りたいのか?」

「え?」


 すると突然エルフが立ち止まって半分だけ振り返り、嘲るように言った。とても背が高いので、ものすごく見下されている感じがする。


「お前は今耳を見ていたし、あの人間も我らの耳をしきりに触りたがった。本当に愚かな生き物だな」

「え?」

「いいか、十数える間だけだ」


 すると一際鋭い目になったエルフが軽く身を屈め、無造作に耳を突き出した。私はその急展開についていけずぽかんとしたが、本物かどうか確かめたかったのは事実なので、手を伸ばしてそっと耳の先をつまんでみた。薄くてあたたかい。


「本物だ」

「おい」

「あ、すみません、離します」

「もう少し丁寧に撫でないか。アスタリエンは手先が不器用なのか? ルーシュオンはもっと上手くやったぞ」

「葵です……ルーシュオン?」

「お前と同じ黒い毛の人間だ。おそらく同じ種族だろう」

「毛」


 なんともいえない言い回しに眉をひそめつつ、言われた通り撫でるように耳を触ってみる。細い金色の産毛でうっすらと覆われていて、さらさらしている。


「……耳撫でられるの、好きなんですか」

「黙れ! 貴様、人間の分際で傲慢が過ぎるぞ!」


 とろんと閉じていた目をカッと見開き、エルフが叫んだ。うるさい。


「ありがとうございました。満足しました」


 手を離して礼を言う。少し棒読みになってしまったが、エルフは「うむ」と偉そうに頷いた。


「ならば来い、アスタリエン。全く、人間というのは本当に手のかかる愚かな種族だ……」

「葵です」


 そろそろ靴擦れが耐え難くなってきたパンプスを脱いで、片手にぶらさげて歩く。泉を少し過ぎた辺りから地面がふかふかした腐葉土になっていて、裸足になっても足の裏は傷つかなかった。


 変化があるのは足元だけでなく、木々も段々と高く太く、巨木の森のようになってきている。屋久島とかそんな感じの場所にありそうな木だ。


「綺麗」

「当然だ。馬鹿の一つ覚えのように同じ木ばかり植える人の森とは違う。我らの森はこの星のどこよりも健やかで、幸福だ」

「幸福な森」


 その考え方はちょっと素敵だなと思っていると、エルフが唐突に「ほら」と上の方を指差した。見上げれば、木の上のあちこちに家のようなものが見える。


「え、すごく……ファンタジーなんですけど。それも西洋風の」

「ファンタジーとは何だ」

「ていうかここ、奥多摩ですよね?」

「奥多摩? ここはファールハラットだ。人の分際でこの森に名を付けるな」


 間髪入れずにエルフが言った。


「いや……東京の山奥にいるのって、ふつう着物着た妖怪とかじゃありません? いや、ここの地主誰なんだろうほんとに……」

「お前のような者を族長に会わせるわけがなかろう!」

「エルフの族長のことじゃなくて」

「ハラットの民だ!」

「可愛い! その子どうしたの、ローシェ?」


 とその時、すぐ後ろから明るく澄んだ女性の声がして、私は慌てて振り返った。耳の後ろに黄色い花を飾ったエルフが、ニコニコしながらこちらを覗き込んでいる。全く気づかなかった。心臓が止まるかと思った。


「アシャ」

「こんにちは、人間さん! お名前は?」

「アスタリエンだ」

「葵です」

「可愛い声! アスタリエンは女の子かな? ねえ、ローシェはちょっと乱暴だから、私のところにいらっしゃいよ。ウニャのところには男の子の人間がいるから、あなたが気に入れば番になれるわよ」

「はい?」


 アシャと呼ばれた女性エルフの言葉に私がぽかんとしていると、どうやらローシェという名前らしいエルフが顔をしかめた。


「おい、アシャ」

「いいじゃない。女の子なんだから、私が面倒見る方がこの子も安心するはずよ」

「こいつを飼う気はない」

「なら問題ないわね。行きましょう、アスタリエン!」

「え?」

「ラィシエ・イグルノ・アシャ!」


 突然ローシャが知らない言葉で喋った。女性エルフがふふっと笑って私を見下ろし、「いい加減にしろよアシャ、だって。あ、アシャは私の名前ね」と言う。


「あの、私」

「まずはウニャのところにいきましょうね。ルーシュオンに会わせてあげる」

「いえ、あの」

「手を繋ぎましょうね」


 ローシェを振り返る。彼は怒った顔をしていたが、すぐにやれやれと頭が痛そうに首を振ってこちらに背を向けた。いや、見捨てないでよ。


 握られた手を辿って女性エルフを見上げる。とても優しそうにニコニコしている。私は一度目を閉じて考え、ひとまずルーシュオンという人間に会ってみることにした。


「よろしくお願いします」

「ええ! よろしくね、アスタリエン」

「葵です」

「ふふ、可愛い!」






 

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