奥多摩の森にはエルフが生息している

綿野 明

奥へ



 端的に言うと、もう生きているのが嫌になった。胸の奥で何年もかけてドロドロに煮詰まっていた我慢がついに噴出し、血管を巡って頭に到達して、それに突き動かされた私は衝動的に職場を飛び出した。じわじわ苛まれ続けるより、一瞬の強い苦痛で終わらせられるならどれだけ楽だろう、と思ってしまったのだ。


 最寄駅から電車に飛び乗って、とりあえず大きな駅を目指す。とりあえず下りの特快に乗り換えて、とりあえず路線図を見つめる。こういう時、ICカードがあるのは良かったなと思う。切符だったら行き先を考えずに飛び乗ったりできないから。


(ああ、ここにしよう。奥多摩駅。行ったことはないけれど、堂々と冠のように「奥」の字がついているのだから、相当奥の方なのだろう)


 私はそう考え、じっと目を閉じて終点を待った。青梅駅で奥多摩行きに乗り換える。ホームから山が見えて不思議な気分になる。息を吸って、吐く。空気が綺麗だ。東京にもこんな場所があるのかと思うと、なぜか少しホッとした。


 電車が森の中を走ってゆく。右を見ても左を見ても緑色。線路が一本しかない。けれど電車自体は別に古びていたりはしていなくて、途中の無人駅はICカードで出ることができる。田舎だけれど田舎になりきれない、不思議な土地。


 そんな路線の、たしか目指していた奥多摩駅ではなくて、手前の駅のどこかで降りた気がする。窓から見えた景色に惹かれて、ふらっと。その時は久しぶりに感じる豊かな木々や土の匂いに魅了されていて、頭がふわふわとしていて、駅の名前だとかは覚えていない。駅から辿った道も。


 私は電源の切れたスマホと、財布と、ペットボトルの水一本だけを持って、ふらふらと森へ向かって歩いていった。特に登山道でもない、獣道すらない森にふらりと立ち入る。山や森も誰かの持ち物で、勝手に入ってはいけないということは頭になかった。というより、そんなことはどうでもよくなってしまうくらい、私はいっぱいいっぱいだった。


 パンプスを履いてきたのは失敗だったが、脱ぐと怪我をしそうなので我慢してよろよろ歩いた。早く楽になりたいという気持ちと、どうせならもう少し美しい場所で、という気持ちがせめぎ合う。ペットボトルの水を飲み尽くし、空になったそれで川の水を汲んで飲む。生水だからどうとかなんて、もう私には関係ない。けれど、今までに飲んだどんな水より美味しく感じて、体が生きようとしていることに私は笑った。


(ああ……ここ、いいな)


 そして私は、ついにそう思える場所に出会った。駅から何時間歩いたかわからないが、かなり奥まで来たと思う。


 そこはとても美しい場所だった。梢から差し込む木漏れ日がキラキラと踊り、風の音はやわらかく、地面には白い花が一面に咲いている。そしてその花の周りを、鮮やかな青い蝶がひらひら飛んでいた。モンシロチョウくらいの大きさで、アオスジアゲハの青い部分みたいな翅の色をした見たことのない蝶。


「綺麗……」


 私は呟いてしばしその光景に見入り、そして少し向こうにある青い泉に目を向けた。うん、あそこにしよう。ミレイの描いたオフィーリアみたいに、花にまみれて、あそこで終わりにしよう。


 私はうっとり微笑んで、足元の花を摘もうと屈んだ。花を摘むのなんて何年ぶりだろう。花束のバラじゃない、野の花の香りをかいだのも何年ぶりだろう。


 そう、優しい気持ちで考えた時だった。いざ千切ろうと細い茎を握った私の手のすぐ横の地面に、ズバンと矢が突き立ったのは。


「……矢?」


 その光景があまりに非現実的で、私は驚くとか怖がるとかでなく、ただ呆然とそれを見つめた。アーチェリーとかクロスボウとかでない、弓道とも違う、真っ白な矢羽のついた短い木製の矢。


 周囲を見回す。木の陰とか、繁みの奥とか。誰もいない。


「……矢?」


 もう一度呟く。何か、雉とかを狩りに来た人がいたとして、普通は猟銃を持っているものなのではないだろうか。


――花を摘むことは許さぬ。人間よ、く立ち去るがいい


 と、どこか上の方から声が響いた。慌てて見上げると、木の枝の上に弓を構えた人影が一人。


「……は?」

「去れ。次は心臓を射抜く」

「え?」


 私はぽかんとして彼を見つめた。長い金色の髪、丈の長い、ファンタジー映画に出てきそうなひらひらした服。こちらを睨む鮮やかな緑の目に……長い耳。


「……エルフ?」

「エルフ? 我らはハラットの民。その名以外で呼ぶことは許さぬ」


 推定エルフが言った。コスプレした狂人、には見えなかった。それにしては彼の姿が、あまりにも自然に溶け込みすぎている気がする。


 私は幻覚かなと思ってしばし考え込み、しかし結論は出ず、困った末にそろそろと両手を上げた。とりあえず、心臓を射抜かれるのは嫌だった。




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