第38話 あなたが好きだから
噴水の縁に腰掛けながら、アースラは溜息をついていた。見上げた空には星が瞬き始めている。帰ってきてからもうしばらく経っているというのに、いまだに気持ちの整理がつかない。
「エストを帰らせてからずっと一人でいるのに、情けないわね……」
ハァ、と空にやるせなさを吐き出した。
◇◇◇
ザウラントの肉をいくつか手にして神殿に戻った時、噴水の前には仁王立ちしたエストがいた。デコピンで気絶させられた事で怒っていたらしい。しかし、彼女にザウラントの首を見せるとギョッとして、アースラと首を交互に見てははくはくと空の言葉を吐き出した。驚きのあまり声が出せないエストに、アースラはズイと首を押し付けた。
「これ、ヘイゼルニグラードに持って帰りなさい。討伐隊は仕事を果たしたって示せるから」
「な、なな、な……何を言ってるっすかぁ!?」
エストの驚愕が神殿の敷地内に轟き、アースラは呻きながら両耳を押さえた。
「うるっさいわねぇ! 頭にキーンって響くじゃない!」
「そりゃこんな物を渡されたらキーンってなるくらいの声出るっす! どうやってあのザウラントを倒したっすか!?」
エストは飛び出そうな程に目を見開いて、ザウラントの首を凝視していた。
アースラは返答に困った。まさか聖騎士相手に「妾は魔族だから一人で倒せたのよ」と正直に話すわけにもいかない。迂闊に事実を明かせばすぐに仲間を呼ばれ、神殿での生活が今後出来なくなってしまう。何とかして誤魔化さなければいけなかった。
「ええと……あれよ。火事場の馬鹿力ってやつよ」
「だとしても常軌を逸した馬鹿力っすよ!? 機兵を使わずに倒すなんて人間業じゃないっす!」
――まぁ、人間じゃないもの。
ついそう言ってしまいそうになるのをグッと抑える。するとアースラの後ろからミレイユがおずおずと顔を出した。
「あの、エストさん。詳細を知りたいのは分かりますけど、どうしても事情があって詳しくはお話し出来ないんです。納得いかないのは承知してますけど、どうかここは、討伐対象のザウラントがいなくなった事で良しとしてくれませんか?」
「……」
エストはしばらく訝しそうにしていたが、やがてガシガシと頭を掻いて溜息をついた。
「自分はあんた達の厚意で危ないところを助けられた身っす。その上、自分達が倒さないといけなかったザウラントを代わりに倒してもらったんす。そう言われたら、これ以上追求出来ないっすよ」
エストはそう言ってザウラントの首を受け取ると、深く頭を下げた。
「恩は必ず返すっす。行き倒れの自分にここまで良くしてくれた事、絶対に忘れないっす!」
この言葉に偽りはないと示すように、エストは右手で拳を作り、腕を心臓の位置で水平に構えて聖騎士の敬礼を2人に見せた。そうしてエストは、ザウラントの首と共にヘイゼルニグラードへと帰還したのだった。
◇◇◇
「……ハァ」
アースラは膝を抱えて俯いた。アースラの瞼の裏には、ミレイユの泣き顔が焼きついている。いつも朗らかに笑っているミレイユが、心を痛めて泣いていた。ミレイユの悲痛な涙を見たのは、要塞都市以来初めてだった。
――処刑されるか否かの瀬戸際にいた時より、今日のミレイユは心を潰していた。
アースラは目を伏せた。もう止めてと叫んだミレイユの声は、魂が千切れるような痛みを伝えていた。自分のせいでミレイユは深く傷ついてしまったのだ。気にせずにはいられなかった。
落ち込むアースラだったが、ふとその鼻先に美味の匂いが流れた。いつもは野菜の甘味を感じさせる匂いだが、今日は明らかに違う。アースラが小走りで食堂に向かうと、次第にジュウジュウといい音が聞こえ始め、香ばしい肉の匂いが強くなっていった。
ミレイユは鼻歌を歌いながら、皿に焼きたての肉を乗せて食卓に並べた。ザウラントの尻尾肉、香草添え。持ち帰ったザウラントの肉を使って、ミレイユはステーキを作っていた。
「せめて奪った命は美味しく頂いて供養しましょう」
アースラに席につくよう促して、ミレイユは控えめに微笑んだ。泣いた影響で、まだ目元は腫れていた。
「え、ええ……そうね」
やや気まずさを感じながら着席し、アースラはステーキを口にした。その瞬間、ふわっと顔に熱が乗った。久しぶりにがっつりと食べた肉だからという事を差し引いても、驚くほど美味しい。美味として名高いザウラントの尻尾肉の旨味を、料理上手のミレイユが更に引き上げている。
「さすがね……!」
アースラが感心して目を輝かせると、ミレイユは安心したように目を伏せた。そして、アースラに対して頭を下げる。
「ちょ、ちょっと。何してんのよ」
「さっきは泣いてしまってごめんなさい」
突然頭を下げたミレイユに困惑したアースラは、ミレイユの言葉に固まった。
「アンタは悪くないわよ」
ミレイユが謝ってからすぐに、はっきりと出てきたアースラの言葉は、心からの思いだった。ミレイユは悪くない。豹変した自分の姿を見て、恐れを抱くのは当然だ。
「……」
アースラの表情が曇り始める。その手をミレイユは、両手で優しく包んだ。ハッとしてアースラがミレイユを見つめると、ミレイユはアースラの手を、壊れてしまいそうな大切なものを見るようにして眺めていた。
「アースラさん……私、アースラさんが好きだから、アースラが離れて行ってしまうのが怖かったんです。また魔族として人を襲うんじゃないか、って……。大切な人と心が離れてしまいそうで、それが辛かったんです」
「……ミレイユ」
ミレイユの指先が、不安そうに強張った。伏せた目を覆うまつ毛が、微かに震えている。
切実で、真っ直ぐな好意がそこにあった。ミレイユの思いを直に受けたせいか、胸の奥が潤んで、震える。ミレイユが恐れているのは心の距離が生まれる事に対してであり、アースラを拒む気は一切感じなかった。それがアースラの胸を引きつらせ、じんと熱い脈を打たせた。
ついミレイユの頬を撫でたくなって、アースラは慌ててそっぽを向いた。
「い、一緒にいるって約束したでしょ。勝手に離れたりしないわよ」
強気を装う口調は、恥ずかしさによってほのかに甘さを乗せていた。ミレイユは眩しいものを見つめるように目を細め、嬉しそうに微笑んだ。
触れ合う手の温もりは安らかで、互いに、ひたすらに、愛おしかった。
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