第32話 自己嫌悪
今日はいい天気だ。空は青く澄みきって、太陽はさんさんと輝いている。小鳥のさえずりも響くこんな日に、外で寝るのは気持ちがいい。
アースラが花畑に寝そべると、日に温められたそよ風が頬を撫でてきた。微かなくすぐったさに喉を鳴らしていると、風よりも確かな感触が頬に触れた。
「アースラさん」
声のする方へ顔を傾けると、微笑むミレイユと目が合った。ミレイユの細い指が頬を撫でるにつれて、胸の奥が穏やかに熱を持ち始める。
ミレイユから与えられる淡い高揚が好きだ。春の日差しより温かく、蜂蜜よりもつややかな甘さがあって、いくらでも欲しくなる。ミレイユに身を寄せると、腰に腕が回された。顔をミレイユに押しつけて甘えると、愛情のお返しのように優しく抱きしめられた。
うっとりしながら顔を上げると、ミレイユと目があった。絡まる視線は次第に甘美な熱を持ち始め、やがてどちらともなく、顔を寄せていく。そっと目をつむったアースラの唇には、待ち望んだ柔らかな感触が――。
「〜〜ッ!」
弾けるように飛び起きたアースラは、心臓を抑えながらゼェゼェと肩で息をした。呼吸の乱れを整えている間、肺に落ちた空気は冷たかった。辺りはうっすら明るくなっているものの夜の気配が濃く、シンと静まり返っている。
ついさっきまで見ていた景色は、どこにもない。
「……今の、夢?」
深呼吸で気を落ち着かせる。夢にしてはやけに真実味を帯びた幸せを感じていた。そのせいか、いまだにほのかな甘さが胸に残っている。
「……」
唇に指先を添え、目を伏せる。ミレイユとキスしたいとあんなに強く望むなんて、冷静に考えればどうかしてる。だけど夢の中の自分は、ただ一心にミレイユの温もりを欲していた。
――どうして、あんな夢を見たのかしら。
薄く残っている夢の余韻に、ほうと息を一つ吐き出した。そして何の気なしに視線を自分の体に降ろして、首を傾げた。寝間着姿になっている。いつ着替えたんだったか。
まだ残っている眠気が昨日の就寝前の記憶を曖昧にぼかしている。覚えているところから切り込んでいけば思い出せるだろうと、アースラは目をつむった。
昨日はミレイユが体調不良で看病をしていた。桃なら軽く食べやすいかと思って切り分け、それを持って寝室に向かった。そして、ミレイユに桃を食べさせて、それで……。
「…………」
目を、見開いた。ちらりと横目でミレイユを見てみると、きちんと着替えて深く寝入っていた。幸せそうにすやすやと眠るミレイユの肩まで布団を被せ、アースラはのろのろとベッドから降り、寝室を後にした。黙り込んだまま風呂場へ向かい、服を脱ぐ。
「んんっ……!」
ぴくりと、痙攣のように小さく体を跳ねさせる。服が肌に擦れて、微かな痺れが背筋に走ったせいだ。
昨日の名残りだ。ミレイユの愛撫で敏感になった素肌が、甘い悲鳴をアースラに上げさせた。
「あ……ああ……!」
アースラはフラフラとたたらを踏み、頭を抱えた。外でミレイユとキスしそうになったのは夢だった。しかしベッドの上で、ミレイユと脚を絡ませながら深く情を交わしたのは、夢じゃない。
「――――……!」
声にならない絶叫が迸る。昨晩の汗と共に記憶も洗い流すような凄まじさで一気に身を清めたアースラは、それっきり、寝室に閉じこもってしまった。
激しい羞恥心によって外に出られなくなってから、長い時間が経過した。もぞもぞと掛け布団から顔を出してみると、鼻先をヒヤリとした空気が掠める。窓越しに見る外は暗い。結局一日中、寝室に閉じこもってしまった。
「……」
ベッドの端に腰掛けて、アースラは火照りやすくなってしまった顔を覆った。隣には誰もいない。
ミレイユはすっかり回復したらしく、朝から元気な様子で部屋を出て、料理や掃除に励んでいる。時折アースラを気遣って様子を見に来たり、朝や昼にはご飯を持ってきてくれたりと、昨日と今日とで互いの役割が逆になっていた。
「……妾、何してるのかしら」
吐き出した言葉は、昨日の一件から今日に掛けての自分へ向けたものだ。自分の体を掻き抱きながら、呆れ気味にそっと甘い吐息をこぼす。
昨日、僅かな隙間さえ厭うようにしてミレイユと密着し、キスをした。体温が混ざり合うのと同時に、あの時、心までもが確かに溶けて一つになっていた。だからだろう。肌の上を愛おしげに滑っていたミレイユの手の感触が、焼きついてしまった。
おかげで昨日の余韻から抜け出せず、気を抜くとくらりと視界が揺れる。効果の強い媚薬でも飲まされたようだ。全身に刻まれた悦楽が、じんわりと、繰り返し体の熱を呼び戻す。その度に目は潤み、汗がうっすら肌を湿らせる。
こうなったきっかけは、ミレイユに押し倒された時の目だった。あの時のミレイユの眼差しはどこか、初夏の雨のようだった。
瑞々しさ香る草葉を打つ、透明な滴。夏の始まりらしい気温と湿気に圧されながら浴びる、ぬるい雨。清楚で、だけど、騒がしい熱を奥に秘めたもの。それに飲み込まれた。自分の感覚がミレイユとの触れ合いに適したものになるよう、塗り替えられた。そんな気がした。
――あの後、妾は……。
迫り上がる羞恥に耳まで熱くなる。耐えきれずに掛け布団を被って、膝を抱えた。燃えるような恥ずかしさから逃れたいのに、そうする事で激しい鼓動をより強く感じては頬が染まる。膝を抱える腕に力を込めて、アースラは肩を落とした。
考えれば考える程、とんでもない事をしてしまったし、言ってしまった。うわ言のように好きだと言ったのは呪いに突き動かされての事だったが、本当にあれは呪いだけの影響で出た言葉だったのだろうか。呪いが発動する前の自分を振り返ると、分からなくなる。
「……ミレイユ」
呟きながら、自分の素肌を撫でさする。慈愛が込められたミレイユの手の流れを無意識の内に真似している事に気付かず、アースラは頬を染める。
自分の心の所在がどこなのか、分からない。はっきりしているのは、今も残る淡い熱を、嫌だとは思えない事だけだ。
目の縁が潤むのを感じながら、溜息をつく。寝室のドアがノックされたのはその時だった。ほとんど声が乗っていない細い悲鳴が室内に響く。
「アースラさん、夕飯をお持ちしました」
「ア、アリガトウ……そこに置いておいてちょうだい」
そこ、とサイドテーブルを指差して、アースラは布団を被ったまま、そそくさとドアから離れた方へと移動した。
ミレイユは食事を置くと、部屋から出ずにベッドの側へ歩み寄った。困惑するアースラを気にしながら、ミレイユはサイドテーブルから離れたベッドの端に腰掛ける。
「ご飯を食べながらでいいんです。少し……お話しさせて下さい。昨日の事」
「……」
アースラが布団からそろりと顔を出して見てみると、ミレイユは肩を落として俯いていた。昨日の事が尾を引いているせいで、今日はまともに会話をしていない。ぎこちなく最低限のやり取りをしただけで、互いに傷つきやすく柔らかい心は無難な言葉の裏に隠していた。
その上、アースラは自分の気持ちを整理する為に一日引きこもり、ミレイユを遠ざけていた。話を切り出すのは、なかなか勇気がいるはずだ。
アースラはしばしの沈黙の後、殻にしていた掛け布団から這い出た。そしてサイドテーブルに乗せられた料理を手に、ミレイユの隣に腰を下ろす。おずおずと窺うような視線に、アースラは自分を鼓舞する為にフンと小さく鼻を鳴らした。
「そうね。いつまでも逃げてちゃ、魔皇女の名が廃るってもんだわ。それに……悪かったわね。ずっと閉じこもって、話す機会をアンタから奪ってた」
「……アースラさん」
ミレイユは目を丸くして、ゆっくりと、ほころぶように微笑んだ。ほんの少しの衝撃で泣いてしまいそうな笑みに、アースラも表情を緩めて頷いた。夜気で冷えていたはずの部屋が、どこか温かくなったような気がした。
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