第8話 まずは冷静に状況を整理よ!

 石畳の街道は年季が入り、そこかしこで敷石が剥げていた。旅人や行商人を何十年と見守っているその道を進みながら、アースラはきつく口角を下げていた。隣には勿論、ミレイユがいる。


 一晩経ってようやく発動しっぱなしだった呪いの効果が切れた。やっと正気に戻れたのはいい。だけど呪いが発動している間に、ずっと傍にいると約束してしまったのは良くなかった。その約束のせいで、ミレイユから逃げられなくなってしまったのだから。


 どんよりしたアースラとは対照的に、ミレイユは軽い足取りで歩を進めていた。ピクニックでもしてるような朗らかな面持ちで、ミレイユは辺りを見渡す。街道は丘に差しかかっていて、周辺地域を一望するのにちょうど良かった。


「もう、結構な距離を歩きましたね」

「そうね」

「地形的に、今は聖王国東部のヘイゼルニグラードの近辺でしょうか?」


 ミレイユの視線の先には、常緑針葉樹がわさわさと生えている森があった。アースラはちらりとその森を眺め、すぐに俯いてしまう。いつもなら口が回るところだが、今のアースラはそんな気分にはなれなかった。


 はぁ、と小さな溜息が出る。


「そうね」

「……アースラさん、疲れていませんか?」


 心配そうに顔を覗き込んでくるミレイユに対し、アースラは隙間から雑草が生える道を見るともなく見たまま、中身のない返事をする。


「そうね」

「早く休める場所が見つかるといいですね」

「そうね」


 ろくに話を聞かずに返事をしながら、がっくり肩を落とした。頭の中では焦りと混乱がぐるぐると回り続けている。


 ――ど、どうしてこうなった!? どうしてこうなっちゃったのよ……!


 いっそ叫んでしまいたかった。何が悲しくて侵攻しに向かった先で、自分が放った呪いに掛からなきゃいけないのか。せっかく難攻不落の結界を破って戦果を上げたのに、これじゃ台無しだ。


 ただの悪い夢だったら良かったのに。この狂嵐の魔皇女様が、人間に従う事になるなんてありえない。あまりの情けなさに泣きたくなる。


 ――いや、待って。落ち着いて。大丈夫よ、これくらいのピンチは何度だって乗り越えてきた。まずは冷静に状況を整理よ、アースラ!


 へこみそうになったのを何とか持ち直したアースラは、うん、と大きく頷いた。嘆いたって気が沈んでいくだけで、何も変わらない。少しでも前進しようと自分を鼓舞したアースラは、まず今現在の状態を三つにまとめた。


 一つ。自分はミレイユに掛けるはずだった隷従の呪いに、何故か掛かってしまっている。下腹部の紋様がそれを証明している。


 二つ。隷従の呪いによってミレイユとは主従関係にあり、彼女のお願いや命令に対して絶対服従してしまう。


 三つ。呪いが発動している最中は感情を強制的に操られてしまい、主人に好意を抱いてしまう。


 ――そう、好意を……。


 つい、昨日の事を思い出す。


 魔族軍を撤退させた時、ミレイユは喜んでアースラに抱きついてきた。ミレイユの髪からふわりと広がる優しい匂いと、無邪気にぎゅっと抱きしめる腕の強さ。ミレイユから与えられる全てが堪らなく愛おしくて、夢見心地になったのをしっかり覚えている。


 それに、キスした時の事も。


 傍にいてほしい。アースラにそう願ったミレイユの熱に潤んだ瞳は、濡れた宝石のように美しく、深い酩酊を誘っていた。重ね合わせた唇の甘さも、幸せな酔いを加速させた。


「……」


 そっと唇に指先を添えながら、ミレイユを見つめた。


 ミレイユは街道から見える景色を堪能しながら散歩を楽しんでいた。アースラの視線に気付くと、ほんのり頬を染めてにこりと微笑んだ。


 ただ視線が合って笑顔を向けられただけなのに、昨日の名残りで甘い熱が胸に薄く走る。慌てて逸らした顔は火照っていた。


 ――あーもう、そういう気分に浸ってる場合じゃないのに!


 アースラは甘い空気を頭から振り払い、念話を試してみた。街道を歩き始めてから何度かやってみてはいるのだが、相変わらず返事は来ない。


 この呪いを解くには、自分と同等か、それ以上の魔族の助力が必要となる。同胞が近辺にいるなら呪いを解く足がかりが掴めそうなものだが、そう簡単にはいかないらしい。


 ――どうにかして同胞と会えればいいんだけど。できればすぐに。


 のんびりしていられないのは、呪いの性質のせいだ。


 隷属の呪いが発動している最中に主人と約束をすると、それは制約となり、自らの意思で破る事ができなくなる。既にミレイユから課せられている制約は三つある。


 一つ、ミレイユを安全な場所まで連れて行く。

 二つ、ミレイユに迫る危険から彼女を護る。

 三つ、ミレイユの傍を離れない。


 ――安全な場所というのが厄介ね。


 これからの事を思い、アースラは舌を打ちたくなった。


 この約束を果たす為に、ミレイユを何処かの街に連れて行かなければならない。しかしアースラは魔族だ。街に近付けば、人間達は害意を持った敵が来たと認識して攻撃を仕掛けてくるだろう。


 それだけなら大した事じゃない。軽くあしらえる。問題なのは、交戦中にミレイユがアースラに制限を掛けてしまうかもしれない事だ。


 ミレイユが一言でも『抵抗するな』と言えば、アースラは例え窮地に陥ったとしても、言われた通り抵抗できなくなる。そうなったら当然、死ぬだろう。


 ――絶体絶命じゃないの! あぁ、もうサイアク!


 冷静に状況を確かめれば確かめるほど、どんなに絶望的な事が起こっているか明らかになって頭が痛くなる。やり場のない怒りで地団駄を踏みそうになっていると、辺りを見渡していたミレイユが明るい声を上げた。


「あ、馬車がありますよ、アースラさん! 私、ちょっと見て来ますね」


 そうね、と半ば無意識に返したアースラは、ハッとして慌ててミレイユを追いかけた。


「ちょ、ちょっと待って! 勝手に離れないで!」


 万が一の事は突然起こる。特にこういう人気のない場所は危険だ。野生動物や山賊なんかが物陰に潜んでて、奇襲の機会を狙ってたりする。魔族でもなく、武装もしてない娘など格好の餌だ。


 ミレイユは警戒心より好奇心が勝って動いているようだが、危なっかしくてしょうがない。

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