第5話 隷従の呪い

 アースラは肩をすくめ、ミレイユに視線を戻した。頬の赤みや目の腫れは若干落ち着いてきたようだった。それでも痛ましさが消えるわけじゃない。逃げる事も反撃もできない状態で責め立てられて、どんなに辛かっただろう。


「何なのよ。こんな子に酷い事をして。可愛い顔が台無しじゃない」

「私がいけなかったんです。ジード様からの婚姻の申し出を断ったから……。自分の身分や立場をわきまえていれば、街もこんな事には……」


 ミレイユは沈痛な面持ちで目を伏せた。一粒の涙が、新たに頬を滑っていく。アースラはぽかんと固まってしまった。


――私がいけなかったって、何?


「あんた、バカなの?」


 呆れ混じりに言いながら、眉をひそめる。


「嫌なら断るのが当然じゃない」


 結婚はしたら終わりじゃない。そこから新しい生活が始まっていく。個人の生活が二人で築き上げていく生活になる分、楽しさや喜びが増えるし、逆にぶつかり合って嫌になる事も増える。その中には、時に致命的な出来事が混ざったりする。


 それでもお互いに思い合う気持ちがそこにあるなら、望む幸せを掴んでいける。結婚さえすれば何もしなくても幸せになれるってわけじゃない。


 ミレイユは自分の身分や立場をわきまえていれば、と言った。そんなものを口にするくらいだ。両思いではなく、一方的な好意を向けられて、婚姻を結ぶよう迫られたのだろう。そんなのには応じないのが正解だ。


 相手に我慢を強いている事に気付きもしない人間は、結婚した後もそのままだ。嫌だと思う自分の気持ちを蔑ろにして夫婦になっていたら、間違いなく人生を棒に振っていただろう。


「あんなヒゲのおっさんが、うら若き美少女と……なんて、うえっ……気持ち悪いってもんじゃないわ」


 アースラはしかめっ面になりながら口を抑えた。嫌悪感で吐き気がする。あの男はずいぶん自分に自信を持っていたようだった。きっと伴侶は若くて可愛く慎ましい娘こそ相応しいとでも思ってたのだろう。おえっ、とアースラはえづいた。いっそ人形相手に結婚すれば良かったのに。


「で? そんな理由で磔にされたの?」

「はい……」

「たまったもんじゃないわね」


 結婚を断られるとは夢にも思ってなかったから、いつまでも根に持っていたんだろう。そして恨みを晴らす為に殺そうとした。馬鹿馬鹿しい話だ。まるっきり人を人とも思ってない。


 アースラは邪法ゲヘナで小さな炎を生み、ミレイユの拘束を解いた。ようやく自由を取り戻したミレイユは、対価を要求するでもなく解放したアースラに不思議そうな目を向けた。


「あ、ありがとうございます……」

「別に。ただの気まぐれよ」


 フンと鼻を鳴らす。小首を傾げるミレイユは可愛らしく、お礼を言われるのは満更でもない。


「さあ、どこへなりとも行きなさい。安全な場所なんてないと思うけど」

「そうですね。祭壇も壊されてしまいましたし、もう結界も……」


 ミレイユは肩を落とした。アースラは屋上の縁に歩み寄り、魔族軍の様子を眺める。ヴァルターが上手く指揮しているのだろう。侵攻は順調そうに見えた。


「この街はもう終わりね」

「ええ……」


 ミレイユは力なく頷いた。


 二人の間に沈黙が降りる。風に乗って戦場の騒々しさが流れてこない間、屋上の時間は止まったかのように思えた。しばらく憂いを帯びた横顔を見つめていたアースラは、ふといい事を思いついて手を打った。


「そうだ。アンタ、見た目も可愛いし、妾の傍仕えにしてあげる」

「……え」


 ミレイユはきょとんと目を丸くした。


「どういう事ですか?」

「簡単よ。妾の奴隷になるの。これからアンタに隷従の呪いを掛けるわ」

「そ、そんな。待ってください!」


 ミレイユは慌てて説得しようとするが、アースラは得意げに背を反らしてばかりで耳を貸さない。


「決定事項よ。大丈夫、すぐ妾への奉仕の喜びしか感じなくなるわ」


 安心させるような声色でそう言うアースラの手には、禍々しいオーラが集まり始めている。黒い煙の粒子のようなそれは次第に密度を増し、ついにアースラの手が見えなくなるほどに濃くなった。頃合いを見計らって、アースラはオーラをまとった手でミレイユの下腹部に触れようとした。


 ミレイユは咄嗟に右手でそれを振り払った。聖痕を宿した右手で。


 その瞬間、眩い閃光がカッと弾けた。

 視界は全て白く塗り潰され、二人は吹き飛ばされる。


 光の小爆発はすぐに収まり、戻ってきた景色に変化はなかった。魔族と人間の争いの流れ弾が飛んできたわけじゃないらしい。


 となると、手を払われた時に何かされたのか。


「いったぁ。もうなんなのよ」


 仰向けに倒れたアースラは、立ち上がって汚れを払うとすぐさまミレイユに詰め寄った。


「ちょっと、あんた。何してくれてんのよ!」


 行く当てもなさそうだし、気に入ったからこれから可愛がってあげようとしたのにこれだ。文句の一つくらいは言ってもいいだろう。


 尖らせた口を開こうとした、その時だった。アースラは意思に反して素早く片膝をつき、尻もちをついていたミレイユを助け起こした。服や膝についた砂を慎重に払い、擦り傷がないか確かめる。見たところ大丈夫そうだが、服に隠れたところを負傷していないか考えると気が気じゃない。


「大丈夫? 何処もケガしてない?」

「は、はい。問題ありません。さっきのは一体、なんだったのでしょうか……」


 ミレイユは謎の現象に困惑しているものの、先の衝撃でどこか捻ったりはしてなさそうだった。ホッと胸を撫で下ろす。


 ――って心配している場合じゃない! こいつに何をしたのか聞かないと。


 さっきは突然吹っ飛ばしてくれたのだ。問い詰めてやろうと息を吸い込んだアースラは、口を開くと同時にもじもじと恥じらいを見せた。


「あ、あのね。ちょっと聞きたい事があるんだけど」

「はい。なんでしょうか」


 優しい笑顔になぜか鼓動が早くなり、胸が熱くなっていく。


「あ、あんた名前はなんていうの?」


 ときめきが強くなって直視していられず、ちらちらと視線を向ける。頬が赤くなるのを感じていると、ミレイユはハッとしたように会釈した。


「あ、申し遅れました。私、ミレイユと申します。ミレイユ・サンドロットです」

「ふ、ふーん。ミレイユね。良い名前じゃない。妾はアースラよ、覚えておきなさい」

「はい、アースラさん。よろしくお願いします」


 アースラさん。

 微笑みながら名前を呼ばれた途端、ブワッと全身が熱くなった。親しみを込めた響きが甘く心臓に刺さる。嬉しい。もっと何度でも名前を呼んでほしい。


 ――って、違ーう! こんな事が聞きたいんじゃない!


 頭を掻きむしって叫びたくなった。さっきから勝手にミレイユに対して深い親愛の情を感じてしまって、思い通りに動けない。キッとミレイユを睨む。目の端には涙がかすかに滲んでいた。


「妾に何をしたのよ!」

「何と言われましても、私にも何がなんだか……」


 眉を下げて困り果てるミレイユは、嘘をついているようには見えない。


 ――こいつの仕業じゃない? だったら、術が暴発した?


 そうとしか考えられない。


 だがおかしい。呪いは扱い慣れている。掛け損なうなんてありえない。あの白い閃光も奇妙だ。まるで鏡面結界きょうめんけっかいが発動した時のように強烈な白い光が景色を焼いて、呪いを拒むように体を吹き飛ばしてきた。


 ――鏡面結界?


 そういえば、とアースラは小さく唸った。受ける衝撃こそかなり弱かったが、さっきの出来事は結界に跳ね返されるのに少し似ていた。


「あ、あの……」


 急に黙り込んだアースラに、ミレイユは控えめに声を掛けた。もう少しで事の真相にたどり着けそうなアースラは、今は話しかけないでと制止しようとした。しかし体は言うことを聞かないのだ。


「どうしたの? なんでも言って」


 晴れやかな笑顔で食い気味になる。


 ――あーもう! なんでも言って、じゃない!


 内心で地団駄を踏む。ミレイユは密かな悶絶など知らず、不思議そうにアースラの下腹部を指差した。


「その、さっきから光っているお腹の模様はなんなのでしょうか?」

「へ?」


 ――お腹の、模様?


 嫌な予感がした。慌てて視線を下ろしたアースラは、喉を引きつらせて硬直してしまう。


 堂々とさらされた滑らかな腹部には、くっきりと紋様が刻まれていた。ミレイユに刻まれるはずだったもの。隷従の呪いの証である紋様が。


「あ、あ、あ」


 あまりの事に、よろよろとたたらを踏む。はくはくと口から息を漏らして、アースラは飛び出そうな程に目を見開いた。


「ああぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!」


 この世の絶望を凝縮したような、悲痛な絶叫が轟いた。

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