第2話 狂嵐の魔皇女アースラ

 縛られた足元を、冷たい風が走り抜けた。塔の上で磔にされたミレイユは、せめてこのままでも結界が張れないかと懸命に辺りを見回した。しかしいくら探しても、塔の屋上に祭壇などなかった。これでは祈りを捧げられず、結界も張れない。


 魔族の姿が見えないのは不幸中の幸いだったが、いつ彼らがやってくるかと思うと気が気ではなかった。


 なんとかして逃げられないものかと悩んでいると、兵士達が一斉に背筋を伸ばした。


「……ジード様」


 兵士達に敬礼される中、ジードは悠々とした足取りでミレイユに歩み寄る。軽蔑しきった顔で、ジードは口元を歪めた。


「気分はどうだ?」

「ジード様、お気は確かですか」


 切羽詰まっているせいで、口調が鋭くなる。わかっているのだろうか。自分を殺したら、何がミロワールを守ってくれるというのか。


「私が張る結界が維持できなければ、魔族の侵入を許すことになります」


 どうかわかってほしい。ミレイユの切実な願いはジードに届かず、鼻で笑われる。


「それは脅しか?」

「違います。本当に――」


 パン。


 言い募るミレイユの頬を、ジードは容赦なく打った。じんと頬が熱くなり、痛みが追ってやってくる。


 薄く涙が滲んだ。頬を打たれたせいじゃない。人族の生死がかかった判断を、粗雑に済ますジードに対する失望が、ミレイユの心を傷つけた。


「私の求婚を断るなど、考えられないと思っていた。偽の聖女ならば納得も行く」

「それは違います、私は――」


 ――女性しか愛せないのです。


 そう伝えようとして、言い淀んだ。断られた原因を相手に押し付けるような人に、心の内をさらしたくない。


「見苦しいぞ、ミレイユ」


 ミレイユの顎を指先で持ち上げ、ジードはねっとりと愉悦に浸り、笑った。


「自分の代わりはいないとでも自惚れていたのだろう? お前の目論見は全て外れた。お前はもう不要だ」


 ミレイユは震えていた。自業自得の罪に震えているのだろうと思い込んだまま、ジードは磔に背を向けて去っていった。


 ミレイユは悔しさに震えた。守れる命が無数にあるのに、何もできない。結界を張れず、傲慢な男の背を黙って見送るしかできないのが、堪らなく悲しかった。それだけだった。



◇◇◇



 兵士に監視されたまま陽は沈み、暗闇が辺りを包んだ。兵士の数人が松明を掲げ、磔の周囲を赤く照らしている。


 いよいよ処刑の時が迫っている。ミレイユを囲む兵士達は槍を構えていた。場の空気が張り詰める。殺される時を目前にして、それでもミレイユが最も恐れているのは死ではなかった。


「これで最後だ。遺言はあるか?」


 ジードの言葉に、ミレイユは必死に訴えた。


「お願いです。結界を――」

「この期に及んでまだそれを言うか!」


 怒号が屋上に響き渡る。もはやジードにとって、ミレイユはあくまで聖女であると装う悪人でしかない。そのせいで、民を思うミレイユの言葉さえ耳障りなものになる。


「もういい、やれ!」


 ジードの合図を受けた兵士達は、一斉に槍を繰り出した。松明の明かりを受けて、切っ先が鋭く光る。


 絶体絶命。思わずミレイユはとっさに目を閉じた。


 その瞬間、轟音が大気を震わせた。驚くミレイユの前で、屋上が崩落していく。塔の内部から強い衝撃が走ったのだ。そのせいで瓦礫がそこかしこで弾け飛び、容赦なく兵士達に直撃した。


「バカな人間ども」


 偽の聖痕を宿した悪魔は、聖堂でほくそ笑んだ。目の前には祭壇だった物がある。


 ジードがまんまと騙されてくれたおかげで、潜入したその日の内に結界の祭壇を破壊できた。これで聖女がもしここへ戻ってきたとしても、邪魔な結界は張れなくなる。


 邪法ゲヘナで聖堂に風穴を開けた悪魔は、手の内に禍々しい光を集めて叫んだ。


「アースラ様、結界は解けました!」


 作戦成功を伝える照明弾を放つ。宙で弾けたそれは血のように赤く、魔族の侵攻を祝福する花が夜空に咲き乱れたようだった。


「なんだ、どうなっているっ?」


 ジードは予想外の出来事にうろたえていた。


 兵士はことごとく崩落の被害を受け、倒れたまま動かない。確かな聖痕を持つ聖女を引き入れたのだから、問題が起こるはずがない。それなのに、この不可解な騒動は一体なんだというのか。


「ジード様」


 混乱するジードの元に、聖女のフリをした悪魔が歩み寄る。頼みの綱が現れ、ジードはホッと胸を撫で下ろした。


「おお、聖女殿。無事でよかった。すぐに結界を」

「出来ませんわ」


 聖女は即答した。ジードは怪訝な顔になる。


「どういうことだ?」


 聖女なのだから、それくらい出来て当然ではないのか。まるで見当がつかないといった様子のジードに、聖女は歯をむき出して高らかに笑った。


「つまりこういうことだよ、マヌケ!」


 本性を表した悪魔は、倒れる兵士から奪った剣でジードに斬りかかる。ジードは間一髪で致命傷を回避し、追撃を剣で跳ね除ける。ジードの斬撃の重さに悪魔は吹き飛ばされ、着地して後方へ滑りながら体勢を整えた。その間に兵士達が屋上に駆けつけ、ジードを守るように一斉に悪魔に向かった。


 無謀にも取り押さえようとする兵士達に、悪魔は嘲笑した。邪法ゲヘナが赤黒い光の刃をいくつも生み、目にも留まらぬ早さで兵士達の体を貫いた。八つ裂きにされた兵士達は、悲鳴すら上げる暇もなく死んでいく。


 悪魔は気分良く高らかに笑った。死角からジードが殺意を向けている事に気付かずに。


「マヌケはお前だ、魔族めが!」


 目を飛び出しそうなほどに見開いたジードは、容赦なく悪魔を斬り捨てる。油断していた悪魔は断末魔を上げて倒れ伏した。とどめを刺すジードに反撃できないまま、悪魔は大きくのけぞる。しばらく痙攣していたが、それも次第に大人しくなり、やがて悪魔は動かなくなった。


「やったぞ!」

「さすがはジード様、なんてお強いんだ!」


 ワァァァと兵士達は歓声を上げる。ジードは胸を張り、称賛を当然のものとして笑みを浮かべた。


 しかし危機が去ったわけではない。ジードの視界の端で、都市を囲む防衛壁の一角が粉々に弾け飛ぶ。丸裸も同然になった都市に、一人の魔族が流星のように飛び込んだ。


 それが塔の屋上に着地すると衝撃で塔全体が揺れ、土煙が舞った。


 厚い煙の向こうから、少女がゆらりと姿を表す。艷やかな白藤の髪に、ツンと吊り上がる蠱惑的な目。少女は堂々とした佇まいで、次々に階下から現れる兵士達を睥睨した。口元には笑みが浮かんでいる。


「妾は狂嵐の魔皇女アースラ。貴様らをこれより処刑する。生き残りたければ死ぬ気で抵抗してみせろ、人間ども!」

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