第394話 未知なる通信

 あれほどの戦闘が嘘だったかのように、辺りに渦巻く炎や熱が冷め切った。


 僕のエーテルの供給が絶たれたことで、地下空間の壁に張り巡らされていた軌道レールの残骸が細かな破片となって降り注いでくる。


 軌道の中に残っていた電子が、最後の輝きを放ち煌めく様子は、僕たちの戦いが漸く終わりを迎えたことを改めて教えてくれているようだ。


 イフリートの虚像を吹き飛ばされたイグニスは、まるで燃滓もえかすのようだ。人間のイグニスの身体は燃え尽き、今はちらちらと邪法の炎が泳ぐだけになっている。呻き声が聞こえるので、種火の中に彼がまだ生きていることは確認出来るが、脅威とはほど遠い存在となった。


 僕の近くに戻って来たホムが警戒を滲ませて種火を凝視しているが、イグニスが邪法を行使する様子はない。魔力切れを起こした人間がそうであるように、復活するだけの邪力を完全に失っているようだ。魔族の邪力は人間のエーテルとは根本が異なるので、その意識を失うことはないようだが。


「ありがとう、ホム。僕の意図を汲んでくれて」


 望む結果を成し遂げたホムを招き、僕は手を伸ばしてホムの頭を撫でる。ホムがはにかむような笑みを浮かべながら、安堵の一呼吸を吐いた。


 イグニスはもう脅威とはならない。デモンズアイの残滓もなくなったことで、カナルフォード学園に巣食う全ての魔族を排除したといえるだろう。エステアも祭壇から無事に救出し、ヴァナベルたちも間もなく追いつく。


「みんなで帰ろう」

「はい!」


 安堵から自然と口を突いて出た言葉に、ホムが笑顔で応じる。僕はアーケシウスに乗り込むと、アルフェのそばにアームを差し伸べた。


「リーフ……。ワタシたち、やり遂げたんだね」

「ああ、そうだよ、アルフェ。みんなのおかげだ」


 アルフェは意識を取り戻してはいるが、その目は虚ろだ。立って歩くことさえ難しいと思い、アーケシウスのアームに乗るように促した。


 ホムに支えられてアームに乗ったアルフェを操縦席に引き寄せ、大事に抱える。ホムも祭壇のそばに横たわらせていたエステアを、その背に背負った。あとは、寮に帰るだけだ。


「……マスター、あのままでよろしいのでしょうか?」


 ホムが視線で示すのは、種火だけが残ったイグニスだ。


「実は少し迷ってる。脅威ではもうなさそうだけれど、この種火が燃やしているのが本物のイグニスの魂かと思うと……」


 アーケシウスを歩ませ、種火と化したイグニスの元に寄る。子供の姿のままの僕と比べても、半分にも及ばない弱々しい炎だ。


水魔法クリエイト・ウォーターで消滅してしまいそう……」


 か細いアルフェの呟きに、僕も同意した。


「クソっ、クソっ、クソぉおおおっ! なんでオレ様が、ヒトモドキのせいでこんな目に遭わなきゃなんねぇんだよぉ……」


 吠えるイグニスが禍々しさを欠いた弱々しい炎を威嚇するように噴き上げている。脅威はないとはいえ、残しておくと万が一邪力を補給された場合に、面倒なことになりそうだ。だが、四肢さえ失ったイグニスに果たしてそれが出来るだろうか。


「トドメを刺しますか、マスター?」

「いや……」


 ホムの問いかけに、僕は口を噤んだ。


 今のイグニスを生かしているのは本物のイグニスの魂だ。間接的にせよ人間を殺すことは、かなりの抵抗を覚える。ホムにもそんなことに手を染めてほしくない。


「今トドメを刺さなくても、このまま消滅してしまうだろう。わざわざ手を下さなくてもいい」

「なんだその目は! オレ様を憐れむんじゃねぇええええっ!」


 僕たちを威嚇するために燃やした炎が魂を更に削ったのか、種火がまた人回り小さくなっている。イグニスが消滅するのも、もう時間の問題なのだ。


「畜生、畜生、ちくしょぉおおおおおっ! こんな筈じゃ! こんな筈じゃなかった! オレ様の計画は完璧で、お前らさえ邪魔しなければ!! このヒトモドキのガキどもがぁあああっ!」


 怨嗟の叫びを上げるイグニスの炎が赤黒く明滅する。まるでイグニスが命と魂を削って、僕たちを呪うように。


「リーフ……」


 なにかを感じ取ったアルフェが、僕にしがみつく。


「マスター、あれを……」


 アルフェと同じく異変を感じたホムに促されて祭壇を振り返ると、崩れた骨の祭壇が、イグニスに呼応するように禍々しく赤く明滅していた。


「あー、もしもし? 吾輩、吾輩だよ。魔王ベルゼバブ様」


 エステアが吊るされていた十字架からくぐもった声が響いてくる。魔王ベルゼバブと名乗るその声に、僕の肌が粟立った。


「……ん? しつこく呼びかけてきたくせに、応答がないねぇ? これ、誰からの通信だ? 切っちゃおっかな~」

「俺です! 貴方の忠実なる配下、イフリートです!」


 陽気な口調に釣られたという訳ではなく、イグニスが明らかに狂喜の反応を示している。


 魔王というのは、魔界の神である魔神デウスーラを支える四大将軍に与えられる称号のことだ。


 僕がグラスの頃に伝え聞いた話では、魔界の領土は四体の魔王が分割統治しているらしい。そして勇者アレフによって魔神が滅ぼされた今、魔王とは魔界の最高権力者のことを指す。


 つまり、ベルゼバブと名乗るこの声の主は――


「イフリートォ~? 人間界にそんなヤツいたっけぇ~?」

「カナルフォード制圧計画を託された、獄炎獣イフリートですよぉおおっ!」


 必死に訴えるイグニスに対して、ベルゼバブは自分のペースを乱さない。場違いなほどの軽口混じりの発言が、かえって不気味だ。


「はぁーん? あー、ひょっとしてぇ、あの人間界に送り込んだスパイか。ギハッ! ちょっ、お前、久しぶりじゃ~ん。元気してんの?」


 配下ということもあり、完全にイグニスを見下している。ベルゼバブのふざけた態度は、前世の僕が知る、人魔大戦時の魔王とはまったくかけ離れたものだ。


 あれから300年の月日が流れたとはいえ、威厳すら感じられないこの態度は、一体どういうことなのだろうか。


「ってか、なにその姿~? 獄炎獣じゃなくて、手のひらサイズのペットじゃん、ペット! ギハハハッ!」


 通信は声だけかと思ったが、ベルゼバブにはこちらの様子が見えているようだ。僕たちに意識が向いていないのか、ひたすらイグニスを馬鹿にしている。


「申し訳ございません! 俺が不甲斐ないばかりに! カナルフォードを制圧できないばかりか、貴重な戦力まで失って――」

「ギハッ! ちょ、マジウケる~。制圧とか計画とか、話がさぁ~ぜーんぜん、見えねぇんだけど、どゆこと?」

「え……?」


 イグニスの炎が弱々しく揺らめいた。明らかに困惑しているのがわかる。


「有力貴族のガキの身体を乗っ取り、その権力で学園を支配し、カナルフォードを魔族の進攻拠点として接収するという作戦の指揮官を拝命したはずでは……?」

「あー、はいはいはいはい! それね! そういうことね~。お前ん中ではそういうことになってたんだ~」


 イグニスが語る作戦に対し、ベルゼバブはまるで他人事のように、生返事を繰り返した。


「俺の中では……? どういう意味ですか、ベルゼバブ様!?」

「ギハハハッ! 悪ぃ、それ全部嘘っつーか、でっち上げってゆーか? そんな作戦なかったっつーか? 人間界侵攻派のヤツらにやる気を出させるために話盛ったみたいな? ギハハハハッ」


 内臓に響くような気味の悪い笑い声だ。生理的な嫌悪感を覚え、僕は唇を引き結んだ。僕にしがみついているアルフェは、顔が真っ青だ。


「そ、そんな……! じゃあ、俺はいったい何のために……」

「まぁ~、ちょっとした実験にはなったんじゃない~? 帝国のど真ん中でテロ起こしたのって、お前でしょ? 黒竜のクソガキがどう出たかって、報告、上がってきてんのよ。まあ、無様に敗北したって聞いた時点で、もういいや~ってなってるけど~」


 その言葉に嘘はないだろう。僕たちを意識していないベルゼバブには、嘘を吐く理由はない。イグニスが起こした魔族テロも、黒竜神ハーディアがデモンズアイを倒したことも、全て伝わっている。


「う、嘘だ……! 俺はカナルフォード進攻作戦の指揮官で、今後も人間界侵攻の中核を担う精鋭――」

「だ~か~らぁ~、んな作戦は、どこにもねーって言ってんの!」


 ベルゼバブの声が次第に明瞭になっていく。苛立ったような声に遮られ、イグニスは押し黙った。


「普通さぁ~、どっかで気づくと思うんだよねぇ~。デモンズアイが召喚出来たってとこで満足してんのが、もう二流、二流っつーか三流。じょーしき的に考えてさぁ、てめぇがそんな崇高な役割を担ってんなら、何年も吾輩と連絡取れないってこと自体あり得ないわけよ。要するに捨て駒ってね! ギハッ!  転移門から吾輩の親衛隊が一人も出てこなかったのに、おかしいと思わなかったのぉ? 馬ッ鹿じゃねぇのぉ?」


 言われてみれば、確かにその通りだ。この平和な時代においては、魔族が起こした大規模なテロという位置づけになるが、人魔大戦を振り返れば、魔族の襲撃として見た時に、余りにも手ぬるい。


 僕たちがそれと知らず妨害したことにより、イグニスが大規模な邪法の召喚陣を用意できなかったのが原因だと思っていたが、どうやらベルゼバブの率いる本隊は、最初から本気で進攻する気はなかったようだ。


「嘘だ嘘だ、そんな筈……」


 現実を受け容れられずに、イグニスがぶつぶつと譫言うわごとのように繰り返している。


「なぁ、イフリートくんよぉ。今、どんな気持ち? 捨て駒って言われて、どんな気持ち? ワンチャン怒りで復活しちゃったりしないかぁ? ギハハハッ! そんなこと出来たら、人間如きにそんな惨めな姿さらしてないよねぇ?」


 ベルゼバブにとって、配下の魔族であってもイグニスは本当に捨て駒に過ぎないのだ。献身的に働いたイグニスを嘲笑うその様子が、前世の僕グラスの古傷を掘り起こすようで、不快感に奥歯を噛みしめなければならなかった。


「……それはそうとさぁ。なんでデモンズアイを召喚してくれちゃったのぉ? お前ごときが使っていいやつじゃないんだけどさぁ? すっかり無駄にしちゃって、どーしてくれるつもり? あれ作るのどんだけ手間掛かるかわかってんの?」


「それは事前の段取りで決めて……」


「はぁ!? なに言ってんの? 捨て駒ごときに吾輩が許可するわけないって、なんでわかんねぇかなぁ? あーゆーのは、リップサービスってのね? 最初から捨て駒だってわかったらつまんねぇから、士気高めるためにやってんの。分不相応ってのがさぁ、わかってねぇの?」


 ベルゼバブが怒りの感情を見せた途端、嫌な空気が流れた。内臓をひっくり返されるような強烈な嫌悪感が襲う。邪力が生じる瘴気のようなものが、ベルゼバブの声を通じて流れ混んできているのだ。


「も、申し訳ございません! 出過ぎた真似を致しました!」


 種火の弱々しくなった炎が細かく揺れ、イグニスの恐怖を表している。震え上がっているであろうイグニスのその惨めな姿に満足したのか、噴き出すような笑い声が降った。


「なーんてな! 今のは怒ったフリ。ギハハッ。まあ、とにかく無事でよかったわ。今から救援送ってやるから、ちょっと待ってろ」


 救援という言葉にいち早く反応したホムが、決死の形相でこちらを見ている。


 ベルゼバブはこちらを意識していないと思っていたが、この空間に僕たちがいることは認識しているのだ。そうでなければ、救援など送るはずがない。


「ありがとうございます! ベルゼバブ様! このイフリート、次こそは、このご恩に必ず報います!」


 心臓が早鐘を打っている。非常に不味いことになった。アルフェもホムも消耗しきっていて戦える状態ではない。アーケシウスもあとどれだけ動けるか、と言われれば心許ない。


「……聞いたか? 貴様らの命もここまでだってことだ」


 イグニスが炎の中に醜悪な笑みを浮かべてこちらに視線を向けた。言われなくてもわかっている。今ここで魔族の救援が来ようものなら、一巻の終わりだ。


「オーケーオーケー! 部下の仇は取らねぇとなぁ!」

「目に物見せてくださいよぉ! ベルゼバブ様!!」


 イグニスが元気を取り戻したように声を上げたその刹那、突然の静寂が流れた。


「……はぁ? なんでお前が吾輩に命令してんの?」

「え? だって今、救援を……」


 不安を募らせるに充分な沈黙を置いて、ベルゼバブが苛立った声を上げる。イグニスはか細い声で訴えたが、それ以上は続かなかった。


「そんな面倒くせぇことするわけねぇだろ、クソボケがよぉ」

「えぁ……?」


 間の抜けた声と同時に、イグニスの種火に黒い線のようなものが走ったのが見えた。次の瞬間、イグニスの炎は真っ二つに分断された。


「ぎゃあぁあああぁあああ!!」


 遅れて上がった悲鳴に、ベルゼバブは笑いもせずに続ける。


「負け犬の分際で調子乗ってんじゃねぇよ、雑魚がよぉ。てめぇの敗北で人間どもが益々図に乗るだろうが」

「ゆ、許して、どうか……許してください、許してくださいお願いしますなんでもしますだから、だから……ぁあああああっ!」


 命乞いをするイグニスの種火を、地面から突如として現れた黒く細長い槍が貫き、串刺しにして持ち上げた。イグニスは断末魔を上げ、散り散りになった状態でまだ辛うじて足掻いている。


 ――信じられない。


 これは邪法による攻撃だ。ベルゼバブは、その姿を見せることなく、魔界から邪法を使って直接イグニスを攻撃したのだ。前世で人魔大戦を経験している僕でも、こんなことが出来る魔族を見たことがない。これが魔王と呼ばれる魔族の実力なのだとしたら、僕たちに勝ち目はない。


「いやだいやだ、死にたくないいい! ご慈悲を、どうか、ご慈悲を!!」


「ピィピィうるせぇんだよ。吾輩の軍団に無能はいらねぇ。死んで詫びても足りねぇ!」


 泣き喚くイグニスに対し、更に地面から複数の槍が伸び、串刺しにされたイグニスの炎を無残に散らした。悲鳴を上げることさえ出来ずに、イグニスの種火は掻き消えた。


 禍々しい黒い槍が、不気味に乱立している。イグニスの壮絶な最後と、それを易々とっやって退けるベルゼバブの底知れぬ恐ろしさに、息が出来ない。


 アルフェは直視できずに、僕にしがみついたままだ。静寂の中で、ホムが歯噛みする音が聞こえたような気がした。


 僕たちの目の前で、邪法によって生み出された黒い無数の槍が消えていく。


 邪法の槍が消えると、さっきまでの光景が酷い悪夢のように思われた。


 だが――


「よう、人間」


 魔王ベルゼバブが、初めて僕たちに意識を向けた。






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