第96話 無情な宣告
蒸気車両の前で控えていたホムは、父を手伝って後部座席に母を寝かせ、移動中もその身体に衝撃が加わらないように細やかに気を配ってくれた。
父の車は夜の街を病院へと急ぐ。対岸の黒竜灯火診療院の夜間診療の灯火が、これほど遠いと感じたことはなかった。
「大丈夫だぞ、リーフ。先生に診てもらえばすぐに良くなる」
「…………」
こんなときでも僕を励まそうとする父は、本当に立派だ。僕は、明らかな
「……大変申し上げにくいのですが、黒石病の初期症状が出ています」
今回ばかりは、眼鏡の医師も人当たりの良い看護師も非常に険しい顔をしていた。
「そんな……」
父はそう呟いたあと、口許を押さえて絶句したきりだ。僕は声も出なかった。
母は解熱剤と栄養剤が入った点滴の管を腕に通されて、病院のベッドで眠っている。詳しい検査と治療をすぐにでも始める必要があり、このまま入院となる旨が告げられた。
――僕のせいだ。僕が前世と同じ錬金術に手を出したから……
転生してから、ついこの前までは楽しかった。錬金術師である母や先生たちに、自分の才能を認めてもらい、笑顔で褒められることが心地良かった。――幸せだった。
けれど、けれど今は違う。
激しい後悔が僕の中で渦巻いていた。悔やんだところで、もう決して取り返しがつかない。
「……一体、いつから……」
父が呻くような声を絞り出し、黒い斑点が浮かぶ母の腕に触れた。
「この腕の斑点は、少なくとも昨日今日出たものではありません。恐らく錬金術師として働いていた頃に取り扱った
眼鏡の医師の話す内容は、もっともらしかった。そして僕は、本当のことを言い出せなかった。
「……ご家族に心配をかけまいとされていたのかもしれません」
母が黙っていたのは、僕が原因だとわかっていたからなのかもしれない。そう思うと、こんなことになるまで一人で抱え込んでいた母の想いに胸が痛んだ。
「不治の病……。どうしてナタルが……」
僕には父に本当のことを打ち明ける勇気はない。これまで黙っていた母も、僕が原因を作ったであろうことを父に知らせるつもりはないだろう。
ならば、僕がすべきことは後悔ではない。後悔は自己満足でなにも生み出さない。母を救うためには、まず前を向くことだ。出来ることを全てやり、その行動を母への謝罪とすべきだ。
「なんとかならないんですか、先生!」
「……残念ながら、有効な治療法はありません。せめて進行を止めようと研究が進められてはいるのですが、完治となると――」
父の悲痛な声に、医師が頭を振る。それができれば、どれだけ多くの人が救われるかわからないといった表情だった。
だが、この初期症状なら、
さらに改良を加え、半永久的に進行を止めることができれば――
「先生。黒石病研究の件ですが、不治の病を治療する『
声は震えたが、淀みなく質問をすることができた。眼鏡の医師は少し驚いたようだが、現代の医学の現状と組み合わせた説明を、掻い摘まんで話してくれた。
結論から言うと、錬金術による『
「……
そこまで話して、僕は死の間際の自分がしたことを思い出した。
「グラス=ディメリア……? 彼の晩年の研究は、焼身自殺によって全て失われてしまった。残っているのは、学会に提出されていたものだけだ。それでも
宥めるように医師に言われ、僕は自分がしたことの愚かさを悔いた。手柄を横取りする学会を信頼していなかったとはいえ、人類に希望を与えるあの黒石病抑制剤の
「ここでの治療法は心許ないことでしょう。自由都市同盟で最先端の治療を受けられるよう紹介状を書きます」
医師の提案に僕は首を横に振った。
最先端の治療を受けても完治しないとわかっているのであれば、数年程度の延命にしかならない。母を一人で異国の病院に入れ、その先に希望がないのであれば、到底受け入れられない。
――僕がやるしかない。
「……黒石病抑制剤の錬成に成功すれば、母上の病状の進行を止められるはずです。その方が母上の希望になります」
「理論的には可能だが、しかし……」
僕が子供だからだろう、医師は困惑の表情を浮かべている。どうにか医師を説得しようと、僕はあくまで『一研究者』の話として、
だが、話していて僕自身も痛感したのは、その製法が現代に伝わっていないことだ。材料程度なら思い出せるが、詳細な
「残念だが、医師としては机上の空論に過ぎないとしか言えない。気持ちはわかるし、それができればどんなに良いかとは、私も思う……」
「……ごほっ……」
咳込む音で、その場の全員が母の方を向いた。目を覚ました母が、気丈に微笑みながら僕たちを見つめていた。
「私のことでしたら、心配はいりませんよ、先生」
「ナタル……」
「ルドラ、お願いよ。身体を起こしたいの」
母は咳き込みながらも父に支えを頼み、ベッドの上に身体を起こした。
「……話は途中から聞いていました。先生がお認めになるのは難しいでしょう。でしたら、私が私の責任において、リーフの被験者になります」
母が僕の目を真っ直ぐに見つめて話してくれる。僕のことを信じ、なにも疑ってはいない。僕が出来ると、僕がそうしたいと望んでいることを全て見抜いてくれているようだった。
「母上……」
胸がいっぱいになって、瞬く間に目の前の母の姿が滲んでしまう。ああ、本当に僕はこの人を母に持って、この両親の元に生まれて良かった。
「
「しかし――」
反論を紡ぎかけた医師の言葉を、母は笑顔で遮った。
「大丈夫です。リーフは私たちの自慢の娘……。私は、リーフを信じていますから。それに、不治の病であるならば、待つだけじゃなくて攻めないとね。そうでしょ?」
「そうだな、ナタル」
母が笑顔で父を見上げ、それから僕を優しい目で見つめてくれる。
「母上……」
僕はそう呟くのがやっとで、母に抱きついて、その温もりが消えないことを祈りながら大声で泣いた。
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