第10話 成長の片鱗

 転生後の今の生活にも慣れ、最近は眠りが少しずつ浅くなってきたように思う。今までは昼夜問わず眠気があったが、このところは朝に目覚め、夜に眠るというサイクルに入っている。


 前世――グラス=ディメリアの記憶の中に、赤ん坊の頃の記憶は存在しない。僕が置かれていた環境から察するに、生き残っていたのは奇跡だと思えた。


 グラス=ディメリアとしての人生の最初の記憶は、汚物と異臭に塗れた薄暗い部屋の記憶だった。断片的な記憶ではあるが、それがリーフの両親であるナタルとルドラのような、穏やかな庇護下ではないだろうことは容易に想像がつく。何故なら、次に気がついた時には、路地裏でゴミを漁る生活をしていたからだ。


 冬の寒い季節だった。子供だけで身体を寄せ合って震えながら眠り、痛みで目が覚める。冬を越せない仲間はたくさんいた。それが『普通』だった。


 リーフとして生まれた今の人生は、グラスとして生きてきた人生の『普通』とはまるで違う。


 例えば、この家にいる限り、寒い日も暑い日もほとんど意識せずに過ごすことができる。空調魔導器と呼ばれるもので室温を管理し、室内の温度がほぼ一定に保たれているからだ。


 僕がグラスとして生きていた時代では、寒い日には魔法で火をおこし、暖炉に火を焼べていたが、ナタルもルドラも暖炉は使わない。生まれてすぐの頃は暖炉があったが、いつの間にか使われなくなっていた。二人の会話で耳にしたが、空調魔導器に入れ替えたのは、僕のためを思ってのことらしい。


 生活の全てが、僕に合わせて動いているような印象があった。

 僕はただ寝ているだけで、両親が代わる代わる世話してくれる。

 餓えやかつえに苦しむことなどない。そもそも我慢することを、ナタルもルドラも許容しなかった。


 不思議なことに、僕が自分の状態を知らせることで、彼らは喜ぶのだ。知らせると言っても、「あー」とか「うー」しか喋ることができないわけだが、どういうわけか彼らは僕の状況や要望を正しく理解する。


 手間が増えるだろうにと思うが、その手間を喜んでいるのも理解できなかった。それを苦とも思わないのだろうというのは、目が少しずつ見えるようになって明らかになった。彼らは僕の世話をするときはいつも笑顔でいるからだ。


「少し体重が増えてきたわね、リーフ」


 今も目を覚ました僕に気づいた母が、優しく抱き上げながら嬉しそうに頬を寄せている。


「ミルクを良く飲んでくれるからかしらね、ありがとう」


 僕は欲求の一つを満たしているだけだというのに、母はそれに感謝の意を述べる。礼を言うのは僕の方で、どうにかして感謝の気持ちを伝えたいが、まだ微笑み以外の方法はない。


「あーううあ」


 毎日少しずつ唇や舌のかたちを意識しながら発声を試してみるが、思うような成果は得られない。だが、それで通じるようで母は満足げに僕の頭をそっと撫でてくれる。


「いいこね、リーフ。とってもいいこよ」


 優しくて甘い匂いのする母にそう言われながら抱かれていると、奇妙なまでの安堵を覚える。こんな感覚は、グラスとしての人生では経験したことがなかったものだ。


『そうね。今度は良い環境に生まれるように計らうから、あの酷い人生と比べたらかなりいい感じになるんじゃないかな。まあ、幸福だとかなんとか感じられるかは、それを知らないあんたには難しいかもしれないけど』


 不意に、フォルトナの言葉が脳裏を過った。

 確かにあの女神の言う通りなのかもしれない。僕はグラスとしての自分の人生を幸福だと思ったことがない。幸福というものを知らなかったから、こういう世界があることを知らなかった。


 かつて所属していた錬金術学会には、自分の周りにいた人物も似たような人間が集まっていた。自分が成功するために、研究成果を盗むことも厭わない、嫉妬と欲望が渦巻いていたあの世界に嫌気が差し、僕は学会を離脱し、一人で生きる道を選んだ。


 ナタルとルドラからはそうしたものをまるで感じない。

 彼らは自分を愛しみ、無条件に愛しているように見える。


 ――それさえも、僕を欺くための手段なのか?


 忌まわしい養父の記憶が蘇り、僕は油断しきっていた自分を諫めた。だが、それでも両親が僕をなにかの『材料』にしようとしているなどということは、全く想像がつかなかった。それだけ二人は献身的に赤ん坊の僕を世話しているのだ。


 ――一体なんのために?


 考え込んでいるうちに、底なし沼に沈むような白昼夢を見たかのような感覚があった。冷たい汗が背を濡らすような感覚にちいさく身体を震わせた。


「リーフ」


 呼びかけられてはっと気づく。母は僕を抱き上げたまま、手を伸ばし、口の中に指を突っ込んだ。


 ――嫌だ!


 身をよじったが上手くいかない。


「あー、あーう!」


 口を塞がれ、息の根を止められそうになったあの養父と重なり、恐怖で声を上げたが、ナタルは微笑んだままだった。


「ごめんね、嫌だったかしら?」


 指先が歯列をそっとなぞり、それだけで終わった。


「最近お喋りが上手になったから、歯が生えてくるのかなって思ったのよ」

「あー……」


 僕をあやすように揺らしながら、母が申し訳なさそうに眉を下げる。心からホッとすると同時に、ずっと気づいていなかった違和感を覚えて舌を動かした。言われてみれば、確かに歯が生えていない。


 母音はなんとか発音できるが、他が難しいのは、もしかして歯がないせいだろうか……。そのせいだとすれば、歯が生えれば多少は喋られるようになるのかもしれない。


「あー、あーう?」


 ナタルの口許に手を伸ばし、歯がいつ頃生えるのかを聞いてみる。当然質問の体を成していないのだが、やはり彼女には不思議と通じるらしく、微笑んで口を開いてくれた。


「歯茎がかたくなり始めているから、もう少ししたら離乳食を始めるわよ。美味しいものをたくさん食べられるように、準備しておくからね」


 なるほど、歯が生えればミルク以外のものを与えられるようだ。礼代わりに微笑むと、母は僕を高く抱き上げて微笑み返した。


「ふふっ。ご近所のクリフォートさんに、お料理を教わらなくちゃ」

「そうそう。クリフォートさんのお嬢さんもあなたと同い年なのよ。今度、一緒に遊びましょうね」


 そう言えばこの家から出たことがなかったが、どういう場所に建っているのだろう? 家そのものの全貌もわかっていないが、外の世界にも興味が湧いた。


 近所にクリフォートという名の家があるらしいので、少なくともこの家が孤立した場所にあるわけではないようだ。

 ルドラが軍人だということを考えると、それなりの街と考えるのが妥当かもしれない。


「ただいま、ナタル。ただいま、リーフ。今日はお土産があるぞ」


 ぼんやりと考えていると、ルドラが帰ってきた。


「まあ、どうしたの?」


 視界がぼんやりしていて良く見えないが、ルドラが大荷物を抱えているのはわかる。母が自分を抱いたまま近づいたので、荷物の内訳を知ることができた。


「部下から出産祝いをもらったのだよ。玩具や本もある。……こっちの文字盤は、早期教育用の新作玩具らしい。リーフには少し早いかな?」

「そうね。お喋りの方が早いはずだし……」


 いや、それがあればかなり意思疎通が楽になる。危うく片付けられそうになる文字盤がほしいのだと、身振り手振りでアピールした。


「ん? これが欲しいのか、リーフ?」

「あーっ、あっ!」


 父が気づいて文字盤をこちらに示す。


「これに興味を示すとは、将来有望だな」


 近づけられた文字盤をじっくりと眺める。文字盤には僕も知っている基本となる文字と、喜怒哀楽の感情を示す絵や記号などが書いてあった。言語だけではなく、使用している文字もグラス=ディメリアの知識が活かせそうで安堵した。


「どうだ? まだちょっと難しいか?」

「あーう!」


 そんなことはないと、手のひらで『喜』の絵を叩いてみせると、ルドラとナタルが揃って驚きの声を上げた


「今のを見たか、ナタル! この子は天才だぞ!」

「ふふふ、きっとそうね」


 僕の反応を偶然と見ているのか、母の反応は父よりは落ち着いていた。


「そうか! 嬉しいのか、リーフ!」


 もっと意思疎通を図りたいところだが、先ほどの反応を見るに、言葉を操るのはまだ早そうだ。

 僕はとりあえず笑って誤魔化すと、文字盤をばんばんと叩き、はしゃいでいる素振りを見せた。


「気に入ってくれたようだな」

「リーフったら、離そうとしないわ」

「子供用に角も丸く削ってある、好きに持たせてやりなさい。指先を使う練習にもなるだろうからね」

「そうしましょうね、リーフ」


 僕は『喜』の絵を叩き、文字盤を引き寄せる。重くて自力では持てそうになかったが、母は気をつかって文字盤と一緒にベッドに寝かせてくれた。


 寝返りは打てないので、漸く動かせるようになった首を動かし、横目で文字盤を眺める。文字と絵が対応している文字盤を眺めているうちに、これを扱うことのできる子供の知能が推測できた。


 今はまだ赤ん坊だが、この先も子供らしくコミュニケーションを取るというのは、かなり難儀なのかもしれない。


 どこかで『普通』の赤ん坊を参考にできると良いのだが……。


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