氏子寄り 5


 ダメだ。と、解っていた。だがそれゆえに、足は、がくがくと震えてしまう。そっと、気付かれないうちに、物音を立てないように、逃げなければ! そう、頭では解っていても、体が、ついてこない。

「……さて、と――」

 照花ちゃんは殺人に対するなんらの嫌悪もない声音で、いとも軽く、伸びでもするかのようにリラックスして、そう、……あえて、声を張り上げた。

「レンく〜ん?」

 僕を、呼ぶ。だが当然、僕はなんとも、応えない。

「いるんでしょ? 一緒に帰ろうよ」

 男子を誘うような、甘い声。こんな状況であるのに、なぜだか安心してしまいそうな――まるで、これまで見てきたものは、幻覚だと、そう囁くような、甘い声だ。だけど――もちろん、そんなものに惑わされたりはしない。僕はとにかく、足に力を入れて、走った。何度も転びそうになったり、そのもの転びながらも、必死で。もう、音を立てることすら厭わずに、とにかく、懸命に。

 幸い、現在は館内のほぼすべての部屋において、消灯がされている。身を隠してやり過ごすこともできなくはないだろう。そう思って、僕はひとつの教室に、隠れひそんだ。

 本来なら、とにかく急いで、階段を駆け下り、外を目指すべきだった。しかし、足が思うように動かず、外までは走りきれないと判断したのだ。それに、この状況では階段をまともに下りることもできず、転げ落ちて自滅しそうでもあった。

 ……いや、これは言い訳か。僕はただ、怖かったのだ。身を晒して逃げることが。だからとにかく、どこでもいいから隠れたかった。隠れて、その場しのぎだろうと、安心したかった。それで、運よく逃げおおせると、思っていたのだ。

「レンく〜ん? どうして逃げるの〜?」

 カツ、カツ……。と、ゆったり靴音を響かせながら、廊下を歩く音が聞こえた。ニケケ。笑い声は聞こえないのに、なぜだかその笑い顔が、フラッシュバックする。だから僕は、頭を抱えた。

 夢なら、醒めてくれ……! そう、切実に願い、ぎゅっと、目を瞑る。

「ねえ、レンくん。夜行族って、どういう意味だと思う? どうして夜行族になると、目の色が変わるの? この目は――この目には、なにが見えるんだと思う?」

 問いかけに、僕はなんとか、薄く目を開いた。なんだ? なにを問われている? 夜行族? 目の色? ……確か夜行族は、江戸時代に夜な夜な、人々を襲った人斬りだ。その犯行は、夜中の暗がりの中でさえ、なにひとつの明かりもなく、行われた。つまり――。

烏瓜カラスウリってさ、夜にだけ咲く花なんだよ」

 照花ちゃんが言う。もうそれだけで、僕は理解した。夜行族――夜に行動する一族。であれば、暗闇でこそ、その目は獲物を、捉えられるということ。

「か〜〜ご〜め〜、か〜ご〜め〜。か〜ごのな〜かのと〜り〜は〜――」

 ふと、照花ちゃんは歌い始めた。――かごめうた。である。

「い〜つ〜い〜つ〜で〜やぁる〜。よ〜あ〜けぇの〜ば〜ん〜に〜――」

 なにか、空寒い感覚が、背筋をなぞった。その歌の意味を、僕はよく知らない。しかし、歌詞を素直になぞれば、それは、隠れている誰かが、出てくるのを待っているような、そんな歌にも、聞こえた。

「つ〜るとか〜めがす〜べった〜。後ろの正面――」

 声が、僕の潜む部屋の前で、止まった。彼女はいま、そこに、いるのだ!

「だ〜ぁれっ!」

 その声を引き金にして、僕は走った。部屋には、前方と後方、ふたつの出入り口がある。照花ちゃんの声から、彼女がどちらの扉のそばにいるかは明瞭だった。だから、その反対側へ、走る。

 バンっ! と、僕が向かったのとは反対の扉が、けたたましく開けられた。彼女はそこから入ってくるだろう。だから、いまそちらとは反対の扉から出れば、彼女と十分な距離を隔てられる!

「がっ……」

 だが、そう思うのも束の間、廊下に出た瞬間、足がもつれて、僕は転んでしまった。彼女の歌に合わせて、意を決したつもりだった。でも、まだ体がついてきていなかったのかもしれない。そう思って、自らの足を、検分する。

「う、わああぁぁ――!!」

 どくどくと、血を噴き出す様を見て、反射的に叫んでいた。包丁が――包丁が刺さっている!

「あ〜あ〜、運悪いね、レンくん。あたい、投擲は苦手なんだけどなぁ」

 言って、照花ちゃんは一歩一歩と、僕の方へにじり寄る。

「ひっ……く、来るなぁ!」

 恥も外聞もない。僕はただ、生き永らえたいがために、鋭く痛む足を引きずり、彼女から距離を取る。

「ぼ、僕は、なにも知らない! なにも見てない! 聞いてない! 誰にも、なにも、言わないからっ!」

 命乞いだ。もう、足が痛すぎて、動ける気がしない。相手は女子だ。力で抗えないこともないのかもしれないが、それも、体ががたがたと震えて、できそうもない。

「ふうん?」

 特段に興味もなさそうに小首を傾げると、照花ちゃんは、這いずる僕の足元にしゃがみ込んで、僕を、見据えた。もはや真っ暗とでも言えるほどの暗闇の中、なぜだか彼女の瞳は、灰色に、輝いて見えた。

「ね、マヅラってなにか、知ってる?」

 ニケケ、と、笑って、照花ちゃんは問う。……と、同時に、僕の足に刺さった包丁を、一息に引き抜いた、らしい。「うああぁぁ――!!」。再度訪れた鋭い痛みに、僕はもう一度、情けない叫び声を上げた。

 やっぱり赤いな。マヅラの血は。そう、僕の叫びの影に隠れて、照花ちゃんはつぶやく。それから問いに対する答えを示したのだ。

「夜行族を追放刑に処したっていう、マツっていう名前の人。それに複数形として『ら』をくっつけて、なまったものが、マヅラ。あたいたちがね、こうしてやつらを複数形で呼ぶのはさ、全員を許さないってことの表明なんだよ。あたいたちは、ノイギィ派――夜行族以外の、全地球の人間を、許さない」

 照花ちゃんは言うと、僕の、足の傷口に、触れた。……いや、触れた、どころではない。彼女の、長くて鋭い爪を食い込ませて、掻きむしって、ぐちゃぐちゃとかき回していく。

「――ああああぁぁ――!!」

 だから僕は、もはや声にもならない、叫びを上げた。

「江戸時代だって? それ、どれくらい前か、あたい馬鹿だからよく知らねーけど。何百年かは経ってるんだよね? その、何百年。それだけかかって、ようやくだけれど、あたいたちは、こうして、村の外まで、出てきたよ」

 僕はもう、まともに話など聞いていやしない。それでも、痛みに耐えるように歯を食いしばり、懇願するように、彼女を、見据える。

「まだ、こんなもん。やっと村を出られた。それくらい。だけども、あたいたちは生きてる。夜行族は、続いてる。……まだ、何百年もかかるかもね。でも、いつか、全世界に、あたいらは復讐する」

 ぐちゃり。と、嫌な粘度を孕んで、照花ちゃんはようやっと、僕の傷口を解放してくれた。

「その、はじめの一歩だね。今日は」

 そして、終焉を告げるように、ニケケ、と、笑って、血まみれの包丁を掲げる。

 あろうことか、僕は、よかった、と、安堵してしまった。この痛みから解放される。この恐怖から解放されて、楽に、なれるんだって――。



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