第十話 氏子寄り
氏子寄り 1
こっそりと、静かに――いうなれば、中にいる人に気付かれないようにと、研究室の扉を開けたのだが、案の定、その部屋にいた唯一の人影は、ばっ、と、警戒心強めにこちらを振り向いた。いつも通りである。ゆえに、僕は
「……なんだ、レンくんか」
行儀がいい――という表現でいいかは解らないけれど、
「こんちわ、天蚕糸先輩。やっぱまだ残ってましたね」
「うん……?」
ただの首肯である相槌をしてから、わずかな疑問を引きずるように首を傾げた。横に。
「なにか用事でもあった?」
聡く、そう判断される。といっても、当然の疑問でもあるのかもしれない。僕がこんな時間に研究室を訪れること自体まれだし、それに、今日は一度、先輩に研究室にいるかどうかの確認をいれていた。
「まあ、ちょっと――」
そういえば、頼子さんのドッキリ作戦には乗っかった僕だけれど、この先の展開はノープランだった。はたしてどのように彼女を登場させるのが効果的か、瞬間、思案する。
「……えっと、いま、時間あります?」
とりあえずは時間稼ぎだ。とはいえ、あまり長く引っ張っても仕方がない。頼子さんだって、ずっと隠れているのももどかしいだろうし。
「大丈夫だよ。今日やるべきことは、あらかた終わっている」
天蚕糸先輩は言うと、顔だけ振り向いていた姿勢から、体ごと、こちらに向き直った。本当に細かな仕草がきっちりしている人なのである。
「あの――」
「そういえば――」
かぶった。ううん。と、先輩は咳払いをすると、「先にどうぞ」と、促してくれた。その気遣いは嬉しいが、どうにも出鼻をくじかれて、なんとも言い出しにくい。
「えっと、……ちょっと、紹介したい人が――」
「ばああああぁぁ!!」
僕が言いかけると、またも言葉を遮り、今度は部屋の出入口の方からドタバタと、必要以上の騒音を引っ提げて、頼子さんが駆けてきた。甚平の、長く、ぶかぶかな袖を振るって、まるで幽霊のように。それでいて機敏に。飛びかかって、喉元を喰い千切らんががごとくの勢いだった。
「うわあっ!」
天蚕糸先輩は順当に驚いた。机を背にして、それに体重を預けていなかったら、椅子から転げ落ちていたかもしれない。そういう、見事なリアクションだった。かくいう僕も驚きはしたが、ある程度、予測はしていた事態だったので、なんとか耐えた。よもやそんな古典的な脅かしをしてくるとは思いもよらず、少しだけ肝を冷やしたが。
「て、て、て、
そして、現れた人物を認識し、天蚕糸先輩は再度驚愕する。今度こそ腰を抜かし、椅子から床へ、へなへなと崩れ落ち――そうになるのを、机にしがみついて、必死に耐えていた。そんなふうに、僕からは見えた。
「ぶっぶー。頼子でしたー。これ、照花ちゃんに貰ったの。似合う?」
おかしそうに頼子さんは笑い、袖を振るってばつ印を作る。それからくるりと一回転して、その甚平を見せびらかした。
「よ、頼子、ちゃん……?」
天蚕糸先輩はなんとか体勢を立て直しつつ、引き攣った顔で彼女を、見る。まだ脅かされた衝撃が抜けていないのだろう。顔を、青ざめさせながら。
「なんで……なんで頼子ちゃんが、ここに? ……まさか――」
「そのまさか、だよ」
頼子さんはわけ知り顔で、天蚕糸先輩の言葉を遮る。脅かしを成功させたときの無邪気な表情から一変、真剣そうな顔で。
「村を、逃げ出してきた」
*
ふたりきりにしてほしい。天蚕糸先輩にしては強い、有無をも言わせぬ語調で言うから、僕はしぶしぶ、その場を後にした。
「そうだ、あの件だけれど、レンくん」
そう、思い出したように引き止められてから、だけれど。
「あれは、君には向いてないな。やめておいたほうがいい」
そう、なぜだか先輩は、スマートフォンを振るって、言った。正直、なにを言っているのかは解らなかった。が、まあ、いちおう、「はあ」と、どっちともつかない相槌だけは打っておく。
そうして僕は、その場から退場した。が、こんな面白そうなもの、見逃すはずもなく。僕はその後のふたりの会話をも、実は廊下に身を隠して、こっそり聞き耳を立てていたのだった。
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