彼岸花の蠱惑 2


 瞬間、呼び名に迷ってから、「頼子さん!」と、僕は、声をかけた。そういえば彼女の話の中でも、彼女の名前は『頼子』と呼ばれるばかりで、その名字が呼ばれたことはほとんどなかった気がする。いや、むしろ一度としてなかったのかも。ゆえに、彼女の名字を、僕は覚えていなかった。合コンの初めには自己紹介にて、いちおう一回は聞いたはずだけれど。

 名を呼ばれた彼女は、二歩ほど、音ずれしたみたいに不自然に歩んでから、ゆっくりと立ち止まり、振り向く。あまり長くないが、とても綺麗な黒髪を、照れ隠しのように片耳にかけて、一直線に揃った前髪の下に美しく浮く、双眸を煌めかせた。

「えと……西日場にしびばくん?」

 僕の方は、名を――やはり合コンの最初にしか名乗っていない気がする名字を呼ばれて、どきりとした。「なにか用?」と、表情にはしていても言葉に出さなかったのも好印象である。これは本格的に合同コンパの本来の目的を視野に入れて接してもいいのかもしれない。……いやまあ、それは追々、ということにしておこう。そういう下心もないでもないが、いまはまだ、別の話題の方が優先順位が高い。

「えっと、夜も遅いし、よかったら送るけど……」

 我ながら、下手な誘い文句である。呼び止めておいて、相手に決断を迫るとか、どういうことやねん。しかも、男子から女子に対して、だ。

 ん〜。と、頼子さんは空を見上げて、思案した。その間の取り方には、成熟した大人の女性である余裕が感じられる。男は度胸、女は愛嬌。などという、有名な格言があるが、現代のチキンな男子よりよほど、女子の方が肝が据わっている。まあ、女の子は早熟だとも聞くしな。

「さっきの話だけれど」

 だから、沈黙に耐えかねて、先に僕から、切り出してしまう。合コンの戦利品として、彼女とお近付きになりたい欲望はある。しかし、やはりそれだけではないのだ。さきほどの話。彼女の生まれ故郷。烏瓜村での物語。それが、おそらくは・・・・・真実であろう・・・・・・こと・・を、僕は知っている。だから、僕の知っている情報と、彼女の情報を擦り合わせたいという、これは、知的好奇心からの誘いでもあるのだ。

 僕の言葉に、彼女も好奇心がそそられたように、やや食い気味に視線を下ろした。驚いたせいなのか、やけにまんまると剥き出された瞳が、本当に綺麗に、僕を射すくめる。

天蚕糸てぐす退人のくと、じゃないかな。あの、話に出てきたノクトくんの、フルネーム」

 彼女はあの話の最初の方に、確かこう言っていた。『ノクトくんの名字は忘れてしまった』と。そのようなことを。しかし、『ノクト』なんて珍しい名前、そう多くはないだろう。そして、彼女――頼子さんは、僕のひとつ上の二十一歳。話に出てきたノクトくんは彼女と同い年のはずだから、当然彼も、僕のひとつ上、二十一歳なのだ。

 そして僕は、今年二十一歳で『ノクト』という名の男性をひとり、知っていた。彼と出会ったのは、約九年前の十二月。……いや、出会ったというとすれ違った――僕が一方的に認知しただけなのだが、とにかくそれは、頼子さんの話に出てきたノクトくんが、殺人を犯し、烏瓜村を出たであろう時期と、一致していた。僕が小学校五年生のとき、ひとつ上の学年、小学校六年生として、彼は転入してきた。うちの小学校は、転校生が全校集会で、壇上で紹介されるしきたりがあったので、僕は彼を知っていたのである。

 そして、いまではかなり、近しい関係の間柄でも、あるのだった。

「そう……そうだよ! 天蚕糸退人。そうだ……そんな名字だったよ!」

 ぐっと、まるで喰いかかってくるように思い切り顔を近付けて、頼子さんは言った。長年忘れていた彼の名字を思い出したことや、だいぶ前に別れた友人の手がかりを得た感動を、田舎育ちゆえの対人関係の拙さで、示す。だから僕はその近すぎる距離感にどぎまぎした。純真無垢な、輝く瞳に、心臓が跳ねる。

「知ってるの!? 西日場くん! ノクトくんは、いまどこにいるの!?」

 肩に掴みかかって、一心不乱に彼女は、問う。もちろん僕ももったいぶるつもりはないけれど、そうけたたましく揺らされては、うまくしゃべれない。

「ちょ……ちょっと待って……! 話すから!」

 まるで脅されてでもいたように、僕は懸命に、彼女を嗜めた。成人した男性としてはやや低めの僕の身長だ。成人した女性の中では比較的高めの彼女の身長とでは、さほどの差がない。つまり腕力的にも、男女の差こそあれど、そう違いはしないのだ。力いっぱいに揺らされては敵わない。

「あ、……ごめんね?」

 可愛らしく小首を傾げて、頼子さんは謝った。うむ。可愛いから許す。

「……天蚕糸先輩は、まあ、先輩なんだよ。僕の通う大学の、同じ研究室にいる、先輩」

 そう、僕は告げた。小学校のころから知っている、と、そういう話は省いて、現在の彼の所在について。

「西日場くんと、同じ大学……」

 僕の――僕たちの通う大学については、先の合コンでの自己紹介時に言ってある。僕の名前を覚えているような頼子さんだ、大学名も記憶しているのだろう。少し神妙に、その名を脳内で手繰っていたようだったが、すぐに明るい表情になり、想起したことを表明する。

「……ねえ、会えるかな? ノクトくんに」

 ややためらって、頼子さんはそう言った。うん。まあ、僕もそのつもりはあった。合コンでの話。そしていま、こうやって話してみて、僕はちょっと頼子さんに惹かれ始めていたけれど、それでも、天蚕糸先輩との感動の再会を邪魔する気には、まったくなれなかった。むしろ頼子さんに惹かれるからこそ、その再会に手を貸したいとも思う。それに、天蚕糸先輩にも、社交辞令を通り越して本当に、お世話になっているし。それに、頼子さんと天蚕糸先輩を引き合わせて、そこでまた繰り広げられるであろう烏瓜村でのエピソードにも興味があった。きっと今日聞けた話よりももっとたくさんの出来事が聞けるだろう。それはオカルト研究部員である僕にとっても、民族史を研究する一介の大学生としても、多大に興味をそそられる話題だった。

「うん。よければ近々、案内するよ」

 僕は言った。

「近々……?」

 頼子さんはやや不満そうに、そう、問いただす。

「……いつがいいかな?」

 気圧されるように僕はそう、聞いてみた。

「いまからじゃ、だめかな?」

「いまから?」

 少し声がうわずってしまった。なにを言い出すのだ、この女子は。だってもう、日付が変わりそうな時間だぞ。天蚕糸先輩もさすがに研究室に、もういないだろう。ご自宅の場所までは僕も知らないし。

「いや、さすがに、今日は……」

「じゃあ、明日は?」

 やや喰い気味に、頼子さんはまた、距離感近めに、そう迫ってきた。

「……明日なら、まあ、なんとか――」

 天蚕糸先輩は勤勉だ。毎日、まず間違いなく研究室に顔を出す。本来ならアポを先に取るべきだったが、旧知なのだし、まあ、いいだろう。

「じゃあ、明日! お願い、できるかな? 西日場くん」

 哀願するように眉を顰めて、上目遣いに、頼子さんは、僕を拝み倒した。そんな顔をされては断りようがない。

「うん。……アポ、取っとくよ」

「ううん。ノクトくんには言わないで」

 やけにきっぱりと、頼子さんは言い切った。

「内緒で行って、驚かせたいから」

 人差し指を唇にあてがって、いたずらっぽく、彼女は言った。やけに赤いその唇が官能的で、僕は言葉を失う。だからそれは、肯定の合図のように、なってしまった。


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