時宿り 2


 しかし、そもそもどうして照花ちゃんは村を出たいのか? まあ、文明社会を知っていれば、出たいと思うのも無理からぬ話であり、そして、照花ちゃんはその文明社会とやらを、幼いころから見知って育ってきていた。そういうことだった。

 照花ちゃんの……お父さんかお母さん、どちらかは忘れたけれど、どちらかは村の人間で、もう片方は外部の出身だった。その関係でか、照花ちゃんは幼少期よりときおり、親御さんと一緒に村を出て、街に降りていたらしい。たまに街に降りていたことは、十歳くらいになるころにはなんとなく知っていたけれど、親御さんの片割れが村の人間でないことは、大学を目指すという目標を話してくれたときに初めて聞いた。別にだからといって、私に一緒に受けようなどとは言ってくれなかったけれど、当時も私は照花ちゃん大好きっ子だったし、村の外にも興味はあったので、勝手に着いて行くことにしたのだ。

 そんな事態になってしまって、一番問題なのは私の親の説得だろうが、実のところこれはあっさりと解決した。どころか、両親としても私が外へ出るのは賛成だったようで、むしろ喜んでもいたようにすら見受けられた。男の子ならともかく、女の子を――しかも、生まれてからずっと辺境の村で育った世間知らずを、そう簡単に外に出す親の気持ちは、いまとなっては正気を疑うけれど、当時はただ賛成してくれたことが素直に嬉しかったものだ。ところで私より七つも年上のお兄ちゃんはといえば、二十歳になったころからか、ときおり村を出て街に降りて行くことがあったけれど、生活のほとんどは結局、烏瓜村で過ごしていた。少なくとも、私が村を出た、あの、十八歳の十二月までは。

 そして、亡くなったケンシくんはともかくとして、ノクトくんは、事件後ほどなくして、夜逃げのようにふと、ご家族ともども村を出た、のだそう。誰も彼らが村を出たところを見てはいないが、家財道具一式なくなっていたし、特段、森などで獣等に襲われたとか、一家心中のような痕跡もなかったので、まあ、きっと生きてはいるのだろう。……機会があるなら、ノクトくんとは会いたいものだ。そう思って村を出たという理由も、まあ、一割くらいはある。

 さて、まあ、ただ勉強するだけのつまらない描写を語っても仕方がないので、この、勉強漬けの退屈な時期に遭遇した、烏瓜村の真実を垣間見た出来事を語り、締めとしよう。こうして私は絶望した。人間に、絶望した。だから、予定よりわずかに早く、逃げるように村を出た。そういう、終わりであり、始まりの、大事件だ。


        *


 私がギブアップして定子ちゃんに課題を丸投げしていたら、照花ちゃんがやってきて、私は面食らった。

「え、照花ちゃん、もう帰ってきたの?」

 というのも、照花ちゃんはこの日、数日前から街に出かけていて、帰ってくるのはまだ数日先の予定だったからだ。

「ん……」

 照花ちゃんは相槌だけで静かに私を見て、それから定子ちゃんを見て、私たちの間に広がった、課題を見た。見て、嘆息。それからもう一度私を見るから、私は目を逸らす。

 照花ちゃんは、だいぶ大きくなっていた。成長期が遅れてやってきたのだろう。いったいいつごろだったか、いつも一緒にいた私には気付けなかったが、いつの間にか、一番大きかった私の背丈にまで追いつきそうなほど成長していた。相変わらず着ている、古めかしい赤の甚平は健在である。が、そのサイズも、ようやく合い始めていた。とはいえ、まだ少し、袖が長すぎたが。

「頼子。また定子に課題させてんの? 定子も、甘やかすと頼子のためになんないじゃん」

「違っ――」

 言い訳をしようとする私の一声を――

「解ってるんだけどね」

 定子ちゃんが遮った。悪意などわずかも持っていないように、少し苦しそうに笑うから、私も胸が痛む。

「はあ……」

 嘆息……というにもセリフのような一息を吐いて、照花ちゃんは私の隣に座る。それはいったい、私と定子ちゃん、どちらに呆れたのだっただろうか?

「大学落ちても知らないからね。つーか、せっかくこれ持ってきたのに、落ちたら無駄になる」

 言って、照花ちゃんは見せびらかすように、ひとつの鍵を私に向けた。赤と白と黄色で編んだ水引の紐を通した、その無骨な銀色は、私がこれまでになく目を見開くには十分すぎる輝きを放っていた。

「こ、これって……!」

「部屋の合鍵。大学からは少し歩くけど、いい物件、すぐ見つかったんだよね」

 それで早く帰ってきた。そう、感情の薄い声で、照花ちゃんは言った。

 そうなのだ。今回、照花ちゃんが街へ降りた理由は、四月から私たちで一緒に住む、部屋を探しに行っていたのである。

「わあ……ありがとう、照花ちゃん! 私、勉強がんばる!」

 私はその合鍵に見惚れ、日に当てて輝きを楽しんだ。きっと馬鹿みたいに呆けて、恍惚と見惚れていたのだろう。

「頼子。馬鹿面してないで、がんばるってんならいまからでも課題、やりなよ」

 トントン。と、照花ちゃんが机を叩いて言う。この年になるともう、照花ちゃんは私への悪感情を露骨に表に出していた。それでも、徐々に徐々に辛辣になっていった彼女の態度には、同じように伸びた彼女の身長のように、ずっとそばにいた私には、大きく違ってしまわないと気付けないほどの緩慢さだったのだ。そして、気付いたときにはもう遅い。彼女が私に、どれだけ冷たくあたろうと、私は彼女を。とうに大好きになってしまっていたのである。

「えー……明日からがんばる」

「じゃあ、これは不要だね」

 ダメ人間の常套句を告げた私の手から、照花ちゃんは合鍵を取り上げた。

 だから仕方なく、私は解らない文章を読み、解らない文章を書く作業に取り掛かるのだった。


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