37 閉店
『居酒場 源』はそれきり休業が続いていた。
もう、ひと月程は赤ちょうちんに灯が入ることもなく、お化け屋敷の異名も確たるやという風情。
真夜中にチラチラと中で揺れる明かりを見た者がいるとかいないとか。
最終電車も出た後の時間では、ただの噂話の域を出ることもない。
そんな、夜がビルの影でさらに深くなっている場所に、子ぎつねが一匹。いや。もう一回り小さな生き物も影の中を進んでいく。
それらは閉め切った引き戸に吸い込まれるように消えて行った。
「ホントに来たのかい。さすが、面の皮が厚いねぇ」
姐さんの嫌味を聞き流して、
狐がトンボを切ると少年が現れる。
「お休みなの? 何も食べられない?」
ひどく哀しそうに目を潤ませて大樹を見つめるので、彼は苦笑して四角いおでん鍋を指差した。
「おでんならある」
パッと表情を明るくした少年を座るよう促すと、大樹は手早くおでんを盛り付けた。二人の前に差し出せば、貂がじっと大樹を見上げてくる。
「今日はつけておいてやる。その様子じゃ、仕事も行けてないんだろ」
「だいぶ吸い取ってやったからね。
「そうなのか?」
「……お前も、ちびのままじゃないか」
「あたしゃ見かけはどうでもいいのさ。ま、職を失くしたのはお互い様といえばそうだね。今じゃぁ子供が働くのは難しいからねぇ」
「俺はまだ失くしてない」
姐さんの方を見ようともせず、じっとおでんを見下ろして貂は言う。
「へぇ? 力を取り戻すための悪だくみでもしてんのかい」
何も答えず、貂はそっと玉子にかじりついた。隣の少年は鼻歌など歌いながら大根を割っている。
「うん! 源さんがいなくても、ちゃんと美味しい。大樹、本当にやめちゃうの? もったいないよぅ」
「爺さんに頼まれた分はそろそろいい頃合いだ。ずるずるしててもしょうがない。居酒屋は嫌いじゃないが、やはり畑が違う」
「……お姉さんにも、やめるって言った?」
大樹は少しだけ間を開けてから、ゆっくりと首を横に振った。
「客には誰にも言ってない。彼女だけ特別にはしない」
「言い訳だな」
顔を上げないままの貂に、大樹は自嘲気味に笑う。
「そうかもな」
「せっかく、連絡先の交換までしたっていうのにさ。せめて無事を知らせてやればいいのに」
「もう、怖い思いも嫌な思いもさせたくない。だから、これでいい」
少年の耳と尻尾が見るからに萎れて、箸を咥えたまま口を尖らせる。
「お姉さんも、ぽかぽかあったかな『気持ち』をこぼすのに」
「無駄だよ。まったく、頑固なんだから」
「お前たちには時々こうして作ってやるから、それで我慢しろ」
うー、と少年が一唸りするのを大樹は柔らかく微笑みながら見下ろす。貂はすっかり皿を空にしてしまって、ふと後ろを振り向いた。
同時に、ガタガタと強めに戸が揺れる。
「大樹さん、開けてください」
強めの声に、大樹は一瞬息を止めた。
姐さんと少年の視線を受けて、それでも意固地に口を引き結んだまま。
「いますよね? 食事に来たんじゃないです。預かってるものがあって……」
「一路のお守りなら、貴女が持って行くといい。俺はいつでも自分でもらいに行ける」
「……それも、そうなんですけど……あの日、お爺さんから預かったものがあって……多分、大樹さんのお爺さんだったんじゃないかって」
大樹はハッとして騒動後の一路との会話を思い出す。
「律夏ちゃんが会ったお爺さんて、源さんじゃないか?」確かに、彼もそう言っていた。
でも……と、店の中の面々を見渡して、大樹はあえて冷たい声を作った。
「こんな夜中に来るなんて不自然だ。渡したいものがあるというなら、そこに置いて行ってくれ」
外に明かりはない。暗闇に立つのが律夏とは限らなかった。
「夜中ならいるからって、姐さんが教えてくれたんです。ご迷惑なら、これで最後にしますから……顔を見せてください」
大樹が姐さんに鋭い視線を向ければ、彼女はつい、と視線を逸らした。口元が笑っている。
「ほらほら。暗がりにいつまでも立たせておくのは、危ないんじゃないかい?」
そう思うなら、彼女が戸を開けに行ったっていいはずだ。何故自分に開けさせようとするのか。信じ切れなくて迷う大樹の耳に、がやがやと数人の若者の声が聞こえてきた。
「あれー。真っ暗。こっち、出口じゃないん?」
「どっかから出れるべ。いけいけー」
「おっ。誰かいるじゃん」
「おばけじゃね?」
「げっ。マジ? 女じゃん! マジヤバ!」
「えー。幽霊なら、ヤっても罪にならん?」
「おま……女なら何でもいいのかよ」
ゲラゲラと笑い声がこだまする。
「おねーさーん。出口どっちー? 案内してよ。なんなら、ホテルも案内して」
「出口はこっちじゃありません。戻ってください」
「出口はこっちじゃありません! ……かーわいいね。ね、じゃあ、何してんの? あれ? ここ、お店? やってないじゃーん。ざんねーん! 俺たちと、飲みなおそ? ほらほら」
「ちょ……触らないで!」
ゲラゲラと不快な笑い声ともみ合う気配に、大樹はたまらず戸を開けた。
目の前には、きょとんと見上げる律夏が一人立っていて、あとは暗がりが広がっているだけ。外に出て辺りを窺っても、誰もいなかった。
気付いて、狐の少年を振り返る。ぺろりと舌を出した彼は、ウフフと笑ってはんぺんを一口頬張った。
思わず出た舌打ちに、律夏が申し訳なさそうに視線を下げる。
「ごめんなさい。でも、直接お礼を言いたくて……」
「……こんな時間に。危ないじゃないか。暗がりには、いろんなものが潜んでる」
「そう思うなら、入れておやり」
「あのなぁ……!」
前回ひどい目に遭わされた貂もいるというのに、大樹には中も外もそう違いはない気がしていた。
「大丈夫です。入れてください。お願いしたいことが、あるんです」
入口から中に視線を走らせて、律夏は一度弱くなった声を振り払うように凛と張る。
しばし見つめ合って、結局、大樹が折れることになった。
中に足を踏み入れると、律夏はおかっぱ頭の着物の幼女に微笑みかける。
「姐さん、ありがとう」
「いいって。あたしはこの後に期待してんだから」
二人の会話に、大樹は眉を顰める。
「おい。まさか、なんか取り引きでもしたんじゃないだろうな。そいつらと軽々しく……」
「大丈夫。私のしたいことと、彼女たちの利害が一致しただけ」
「利害?」
ますます苦い顔をした大樹に、律夏は黙って三枚のメモ用紙を差し出した。
「大樹さん。これ、お爺さんから預かった物。見ちゃったけど、許してね。それから、私に『想い出の味』を食べさせてほしいの」
畳まれたメモ用紙を受け取ったまま、大樹は首を傾げた。
「想い出の? でも、作るものによっては取り寄せなきゃいけないものもあるし、そもそも、俺に作れるものかも……」
「大丈夫。私が食べたいのは、そこにレシピがあるから。材料も一通り買ってきたし、私も手伝う。大樹さんの『想い出の味』、食べさせて」
思わぬリクエストに、大樹は手の中のメモ用紙と律夏の顔を交互に見比べるのだった。
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