29 忘れている味
「
「……あ」
姐さんの声に大樹が顔を上げると、彼女は暖簾を持ってそこに立っていた。
「暖簾もしまってないし、あたしゃここの従業員じゃないんだけどね」
「真っ当な客でもないんだから、多少のことで文句を言わないでくれ」
「多少〜?」
暖簾を杖代わりに、彼女は大樹へと顔を寄せた。
「お嬢さんと何かあったんだか知らないけどね。人気だからって大根だけのおでんでも始めんのかい? あの日戻ってきてから、少し注意力散漫に思えるね」
「彼女と何かあったわけじゃない」
あったのはその後だからと思いながら、大樹は口をつぐむ。
単純作業をしていると、頭の中だけが忙しく動いてしまって、時間間隔が狂うのだ。
切りすぎた大根にため息を落として、改めてそれらをいちょう切りやおろしにしていく。小分けにして冷凍庫へと突っ込んだところで、源三がぼそりと呟いた。
『調子わりぃなら、休め』
「……わかってる」
一日二日、以前の大樹ならほいほいと休んでいた。今そうしないのは、彼女がいつ来てもいいようにで、なんだかんだと律夏を心待ちにしている自分を大樹は快くは思っていなかった。
昔、欲しかった言葉を彼女なら口にしてくれると、どこかで甘えてないか。
それでも、先日の吉出という男(正体はよくわからないが)の提案に心が動かなかった訳ではない。嫌われているのを解っていて、わざわざ商談を持ちかけるのだ。どこかに利益が出る絡繰りがあるのだろう。まだそういう期待を寄せられることは、嬉しくないわけがなかった。
話は早々に断って帰ってきたのだが。
気が付くと、大樹は頭の中でカフェをシミュレートしていた。そして必ず失敗して、苦い笑いが浮かぶのだ。
姐さんに見つからなかったことを思うと、あの名刺は普通の名刺だったようだ。しまい込んだ引き出しの奥に少しだけ意識をやって、大樹は小さくため息をついた。
「わぁ! 開いた!」
突然、引き戸が音を立てて開けられて、おさげ髪で黒縁眼鏡の女性が現れた。
「も、もう終わっちゃいました!? ちょっと早くないです? だめですかー!?」
暖簾を持ったまま振り返っている姐さんが、呆れたように笑った。
「坊がね、使いもんにならない感じだから早めに閉めようかと。のの嬢ちゃんならいいだろ。入って、戸を閉めな」
やった! と彼女は言われた通り戸を閉めて、カウンター席に座った。
姐さんは今度は鍵を閉めて、暖簾を置いてから彼女の隣に陣取る。
「熱燗」
「今日はビールで」
大樹は顔を顰めつつも徳利に酒を注ぐ。
「なんで姐さんまで……」
「いいだろ。暖簾も下ろしてやったんだし」
水を張った鍋を火にかけている間に、ビールが注がれる。
「おでんお任せと、焼き鳥食べたいかな」
お通しを用意しながら、大樹は頷いた。
「……大丈夫そうですけど、何かありました?」
首を傾げる女性に、姐さんはコロコロと笑う。
「客を相手にしている間は、さすがにそうでもないよ。この間、若いお嬢さんといい感じになってたから、浮かれてるのかね」
「浮かれてないし、いい感じにもなってない」
するどい一瞥に、女性はあははと顔を引きつらせた。とはいうものの、好奇心が勝る。
「もしかして、たまに会う、よくこの辺りに座ってる女性じゃ?」
「そうそう! ほら、のの嬢ちゃんにも判るんだから、いいかげん認めておしまいよ」
「認める、とか――」
「隠そうとしたって、あたしらはそういうのを糧にしてるんだから、無駄なのにさ」
反論しようと吸い込んだ息をそのまま飲み込んだ大樹は、湧いたお湯が跳ねて五徳がジュッと立てた音に慌てて火の調節をする。
「それって、『想い出の味』とかのことですか?」
「あれは、もっと特別だねぇ。込められる想いは坊じゃなくて、元々の作り手のものだから。さっきの、のの嬢ちゃんみたいに、びっくりしたり慌てたり感情が動くようなことは、おこぼれに与れるのさ。飴玉もらったみたいにね」
「……へぇ。じゃあ、そんなにこぼしてるんですね。店主さんは」
「なっ……」
含み笑いをこぼす彼女に、姐さんは「いいや」と首を振った。
「前の店主に似て頑固だからねぇ。でも、おでんは味が変わったからね」
「え?」
「えっ」
おでんを盛り合わせたどんぶりが、カウンターとぶつかって派手な音を立てた。
「そんな、ばかな」
大樹は客に詫びるのも忘れて、小皿におでんの汁を注いで口に運ぶ。客の入る前に味見した時も違いはなかったはずで、今口に含んだものも特に異変は感じない。小さく眉を顰めると、同じように、こちらは大根を口に運んだおさげの女性が首を傾げた。
「……わかりません。いつもと同じですよ? いくぶん染みてるかもしれませんけど、その程度で」
姐さんは二人の行動をにやにやと見守って、大樹にそろそろだろと徳利を指差した。
布巾で徳利の首を持ち、姐さんの前の猪口に一杯目を注いだ大樹は、呆れたような顔をしている。ちびりと酒に口をつけてから、姐さんはだらしなく頬杖をついた。
「
大樹はこっそりと源三を振り返ったけれど、源三も黙って首を振るだけだった。
「それよりさ、嬢ちゃん。何か想い出の味はないのかい? 最近客が入れ替わって、あんまり出なくなったんだよねぇ」
「姐さん」
大樹の窘める声にもうるさそうに手を振る。
「想い出の味、ですか……うーん。あんまりないんですよね。基本、何でも食べるので特にこだわったものとか……まして、もう食べられないようなものなんて」
新しいものを次々食べ歩いている彼女としては、過去のものよりこれから出会うものの方が楽しみだった。
「つまらないねえ」
「……すみません」
姐さんはくすくす笑いながら、猪口をゆっくりと傾けるのだった。
* * *
お腹も人心地ついて、焼酎の水割りなど口にしながら、おさげの女性は少しずつ片づけを進めている大樹をちらりと窺った。物欲しげな目に、遠慮しているのかと大樹の方から声をかける。
「構わないから、注文があるならどうぞ」
「えっと……あ、甘いもの、あればなー……なんて」
『源』ではデザートは基本出していない。
彼女には、たまたま詫びとしてケーキを出したことがあるから、こうして時折確認されるのだ。大樹は機嫌よく出すわけではないので、彼女はいつも遠慮がちだった。
「懲りないねぇ」
ケラケラと姐さんが笑う。
「締めパフェみたいな感覚で、どうにも甘いものが欲しくなるんですよぅ」
聞えよがしな溜息をついて、大樹は冷蔵庫へと向かった。「当たりだね」と姐さんのにやけた声が聞こえる。
大樹が仏頂面で差し出したのは、透明なグラスにスポンジやクリームが層になっているものだった。
「あれ……トライフルですか? わ。なんか、いつもと少しイメージが」
「……居酒屋じゃ堅すぎるっていうようなことを言われたから……」
ぼそぼそと言い訳のようなその声を聞いているのかいないのか、おさげの女性はさっそくスプーンでひと掬いしている。
薄いグリーンの欠片がカスタードと生クリームの間に埋まっていて、口に運んだ彼女はきゅっと目を閉じた。
「メロン〜〜〜!! 確かに、このくらいの方が気軽に楽しめますね! あ、やば! 写真撮るの忘れてた! これ、ネットに上げてもいいですよね?」
いつもは申し訳なさそうに静かに堪能している彼女のハイテンションぶりに、大樹は少々気圧されながら頷いた。横では姐さんが猪口を片手にずっとニヤついている。
がっつく勢いで食べきったおさげの女性は、名残惜しそうに空のグラスを眺めて、ひとつため息をついた。
「……食べちゃった……これ、いくらでも食べられそう。なんて、罪な子! うぅ。また作ってくださいよ。お代先に渡したら、用意してくれますか?」
「いや――その……じゃあ、また気が向いたら……用意する」
「本当ですか!? うふふ。私も常連っぽくなったなぁ。じゃあ、次を楽しみにして、今日は帰ります。閉めるところ、ありがとうございました!」
計算を待つ間、財布を握りしめながら、おさげの女性はふと姐さんに視線を投げた。すぐに大樹に向き直る。
「――そういえば、店主さんは何かないんですか?」
「……何か?」
「『想い出の味』。自分で作れるといいですね。それとも、自分のはできないのかな?」
首を傾げた彼女に電卓を差し出しながら、少し間抜けな顔で、つられたように大樹も首を傾げた。
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