21 ゴールテープのその先 (お題:ゴール)
草木も眠る丑三つ時。
おんぼろ居酒屋のカウンターにはろうそくが一本。どこからか隙間風でも入るのか、炎はちろちろと揺れていた。
カウンターの中には影の薄い老人が一人。差し向かいには赤い襦袢の美女が酒を舐めている。
「どうだい? そろそろ未練もなくなるんじゃないかい?」
『そうよなぁ。もとより、しがみつくほどの未練もなかったと思うんだがなぁ』
言いながら、源三は孫の準備した出汁や煮込みをチェックしていた。もう手の出せるものではないのに、すっかり習慣になっている動きは止められないらしい。
「
源三は整った微笑みに一瞥をくれて、そこにあった丸椅子によいせと腰掛けた。
『坊主は挫折はしたが、ちゃんと生きとった。バイトとはいえ、働いて、それなりに暮らしてたんだ。残るほどの心配はしておらんよ』
「おや……」
くすりと笑った唇に、酒が吸い込まれていく。
地上げ屋の相手をして血を巡らせすぎたのか、単に寿命だったのか、源三は心臓発作を起こしてそのまま帰らぬ人になった……はずだったのだが。店だって、畳んでしまおうかと思ってたくらいだから、未練があってこの世にとどまった、というのは少しおかしい。店に通っていた物の怪たちのことは確かに心配ではあったけれど、どちらかというと、周囲に悪さをしないかの方が気になっていた。
『店からは出られない。こういうの、地縛霊っつーんだろ? 普通、店にゃあ良くねえはずだ。このまま
ギロリと襦袢の女を睨みつける。
女は盃を置いて、物の怪らしく気味の悪い笑みを浮かべた。ろうそくの灯がかき消え、暗闇に女の白い肌がぼぅっと浮かぶ。するすると首が伸びて、源三の目と鼻の先にまで女の顔が迫った。
「さぁすが、源さんだねぇ。気づいておいでかい。そうだよ。源さんを縛っているのはあたしらさ」
女の首はぐるぐると源三に巻き付くように伸び続ける。
『やっぱりな。おかしいと思ったんだよ。俺程度が残るのなら、死後の世の中はもっと騒がしいはずだ。で。俺をどうしたい』
「決まってるじゃないか。こちらへ誘うんだよ。人間を終わらせて、それ以外へ」
まがまがしい空気を纏って、女はゆらゆらと首を揺らす。
源三はフン、と鼻で笑った。
『それは、俺も消費する側に回るということだろう? ちょっと、考えが甘ぇんじゃないか?』
女はぷぅと膨れて、しゅるしゅると首を戻した。
ぱちんと指を弾くと、ろうそくの灯が戻る。
「ちぃとは怖がっておくれよ。つまみにもなりゃしない」
『死んでる人間に、何を怖がれってんだ』
物の怪たちは人間の心の動きを糧にする。怖がったりびっくりしたりは手軽なおやつらしい。そして、どういうわけか、源三の作る料理にもその効果があったようだった。
「半分は本気なんだよ。源さんがこっちにくれば、面白おかしく酒盛りができるじゃないか」
『そっちでつまみを作れたとしても、元のようにお前さんたちの栄養になる力はこもらねえんだろう?』
「そうだけどさ。そんなのは、些細なことなんだよ。ワンチャン、残る可能性も微レ存だし?」
源三は呆れた顔をする。
『その、微妙に現代っぽい表現混ぜるの、気持ち悪ぃからやめろ』
「やぁねぇ。これでも現代の客商売やってんだから。ちょっと遅れてついて行くのは、教えたがりのオジサマ連中には受けがいいんだよ。で、どうだい? 考えてみないかい?」
『考えるまでもねえよ。俺は人生の幕を下ろした。それで、終いだ』
女は苦笑して、また酒を口に含む。
「死んだら終わりなんて、信じてるのかい?」
『違うってのか?』
「生きてようが死んでようが、ひとつゴールすれば、次のスタートが待ってんだよ。源さんは死んだのになんでそこにいるんだい?」
『だから、お前さんたちが……』
「あたしらは残ってたもんを縛っただけだよ。行ってしまわないように。あたしゃ人間じゃないから、人間が死んだあとどうなるのか知らない。天国に行くのか、消えてなくなるのか。輪廻するってぇのは、よく聞くけど、確かめられた訳じゃない。解らないことは、恐いねぇ。だから誘うのさ」
『誘いに乗ったやつってぇのはいるのかい』
「いるよ」
『どうなった』
「……いろいろ、だねぇ」
女の笑みは、それ以上聞かない方がいいと判るものだった。
『やっぱり、碌なモンじゃねぇじゃねえか』
「人間の死が碌なものだっていうのは、誰かに聞いたのかい? 結局、そいつ次第だと思うんだけどねぇ」
源三は渋い顔で腕を組んだ。
「ま、いいよ。源さんの答えはわかってたから。んでも、もう少しは我慢しとくれ。坊がねぇ、ちょいと心配なんだよ。神さんのとこにいただろう? 根が素直なんだろうね? ちょっとしたモンは祓えるようになってる。まあ、変だと判るモンは、いいんだけどサ……ずる賢く情に訴えてまとわりつくものを疑えるしたたかさは、なさそうなんだよね」
『……おめぇ……』
「坊は挫折を味わって、全く違う暮らしを始めた。ところが、ここに来て諦めたはずのものに手が届くヒントが見えてきた。今まで聞く耳を持たなかった甘い言葉にも、心を動かされるかもしれない。自信がないってのは、厄介だね。あたしらの中にはそういうのが上手い奴もいる」
そういえば、しばらく狐っ子を見てないなと、源三は店の中を見渡した。あの子を疑う訳ではないが……ああいう子を利用しようとする者はいるかもしれない。
「いやね、ミイラ取りがミイラになって、所帯を持っちまう話も聞くよ? そうならまだいいさ。だけど、源さんがいなくなっちまって、坊まで誰かにかどわかされたなんてことになるのは、まっぴらごめんなんだよ。恐怖にひきつる味もたまには刺激的だけど、あたしらすっかりここの味に慣れちまったからねぇ」
『贅沢な話だな』
女はコロコロと笑った。
「こういうのは、Win-Winって言うんだっけ? 坊の次のゴールが見えるくらいまでは、ちょいと付き合いなよ。本当は、そんなに嫌でもないんだろう?」
渋面を作りながらも、源三は否定の言葉を口にしなかった。
パティシエになると言って、店を出すまでこぎつけたのに、全てを捨ててしまった経緯を彼はよく知らない。身内で唯一、誰かのために作るという同じ道を選んでくれた孫なのに。
それでも嫌だというものを無理強いするのは気が引けていた。
少しやらせて、源三と同じにできないことを悟れば、物の怪たちも去って行くだろうと思ったのに……
万全とは言わないが、源三のレシピや、源三が仲介して作る『想い出の味』には、ある程度の効果が認められてしまった。これも、神社でのバイトの御利益なんだろうか。
その代わりというように、彼の本職であるはずのスイーツには驚くほど何もこもらなかった、らしい。源三には見分けがつかない。
しかし、そう言われれば心配になるというもの。神職に念入りに清めてもらえば、解放されることは解っている。解っては、いるのだが……
物の怪に縛り付けられていますという大義名分があれば、閻魔様も少しは待ってくれるだろうか。
源三が切ったと思っていたゴールテープは、どうやらスタートラインも兼ねていたらしい。同じゴールに向かう訳ではないが、しばらくは孫と並走することになりそうだ。
まったく、ずる賢いもんよ、と源三は小さくため息をついた。
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