16 バレンタインキス

 扉に貼ってある紙を見た時は、やっぱり縁が無いのだと、無かったのだと思ったんだけど。

 未練たらしく近づいて、書いてある内容を読んでいって、また少し希望を持った。だって、それは閉店のお知らせではなく、開店予定の張り紙だったから。


 源さんが亡くなったと聞いた時は、恥ずかしがってないでお願いしておけばよかったと、ひどく後悔したものだ。出来ないと断られていれば、もっとスッパリと諦めもついたのにと。

 葬儀は身内で済ませたようだし、店も畳まれてしまったのだと思い込んでいたのに、しばらくしてからちらほらと噂を耳にした。

 ぼんやりと暗闇に点る赤ちょうちんは地獄の入り口だ、と笑う見知らぬ誰かの戯言に、幽霊でも、もしかしたら聞いてくれるのではないかと思ってしまったのだ。源さんなら、あり得ると。

 そうして迷った挙句に足を運んでみた結果が、あの張り紙だ。いやが上にも期待は高まる。


 緊張して開いた扉の先には源さんではなく、仏頂面の青年が立っていた。

 一瞬怯んで、カウンターに若い女性の客が座っているのを見て、ほっと足を踏み入れる。

 「いらっしゃい」と置かれたごつい湯飲みが(当たり前だけど)源さんの出してくれたものと同じで、鼻の奥がツンとした。

 いくつかの注文を終えると、店の中はシンと静まり返ってしまった。

 先に来ていた女性も何やら不機嫌で、少々居心地が悪い。それでも、他の客もいないし、妙な注文をするのにはこれ以上ないチャンスのような気がした。

 ジョッキを空けて、おかわりを頼む勢いで、カウンターの向こうの彼に話しかける。


「あの……『想い出の味』は……」


 言い切る前に顰められる眉に、くじけそうになる。

 でも、そうやって言い出せなかったことがいつまでも引っかかっているのだから、うやむやには出来ない。


「……僕は祖父ではないので、できないことの方が多いのですが」


 祖父。そうか。お孫さんなのか。そういえば、源さんも黙っていれば、ぎょろりと鋭い目つきだったかもしれない。ああ。でも、そうなら。


「お願いできませんか! チョコレートなんですけど」

「チョコ……いや……俺……僕では、ちゃんとその味が出せるか」

「大丈夫です。大丈夫なんです。困らせるかもって思って言い出せなかっただけで、きっと、どんなのでも区切りをつけられるから」


 戸惑う青年の様子を見て、女性がふっと意地悪な笑みを浮かべた。


「受ければいいじゃない。得意でしょ。チョコレート」


 キッと睨みつける彼の視線を、彼女は軽やかに受け流す。なんだかわからないけど、応援してくれるのはありがたい。


「味の方は本当に、大丈夫ですから。僕、そのチョコレートの味、知らないんです」


 一瞬泳いだ青年の瞳が、僕の肩越しに何かを捉えたように見えた。



 * * *



 彼女に出会ったのは、桜が咲く前の近所の病院の駐車場でだった。

 褒められたことではないのだけど、そこを突っ切るとコンビニまで近道だからと、時々横切っていたのだ。

 駐車場の真ん中でうずくまっていた彼女に声をかけ、車まで手を貸したのが最初で、それから何度か同じように手を貸した。貧血と原因不明のだるさに、時々そうなるのだと。しばらく休めば動けるようになるらしいのだが、病院に来るくらいの時はそれだけ調子が悪いという訳で。時に車ではなく病院に逆戻りして休ませてもらったり、まあ、偶然が続いた後は、多少邪な思いを抱えてもいたのだけど。

 そうやって仲良くなって、調子のいいときはデートに誘ってみたり? 車なんて持ってないから、レンタカーでぎちぎちに緊張しながらドライブしたり。見渡す限り一面の芝桜に、いつもは青白い彼女の頬もピンクに染まるのを見れば、疲れも吹っ飛ぶってものだった。


 彼女の父親はおとなしそうな人だったけれど、お酒が入ると豹変するようなタイプだった。仕事もしているのかいないのか、彼女がたまの休みに出かけることにも顔を顰めて文句を言う。昼の仕事の他に夜のバイトを始めたと聞いた時は、止めたんだ。そうでなくともよく体調を崩しているのに、無理だって。お金がいるなら、おじさんを働かせればいい。

 彼女は来年高校に進学する弟のためだから、しばらくの間よと強がっていた。すでに家に寄りつかない弟のために、全寮制の私立高校へ通わせる費用が必要だと。


 おじさんに煙たがられながらも、どうにか年を越して、ぐっと冷え込んだ日々を越えると、彼女は小さな咳を繰り返すようになった。時々微熱が出る程度だと言う彼女を早めに病院に連れ込んで、薬を処方してもらう。


「これですぐ治るね」

「ちゃんと寝てろよ?」

「うん。もうすぐバレンタインだしね。私、チョコレートって渡したことないの。作ったら……受け取ってくれる?」

「毒が入ってても食ってやるから、早く治せ」


 熱っぽくて上気した顔が、色っぽく見えたなんて、まさに盛りのついたオスだろう? 重ねた唇を弱々しく押し返され、風邪がうつるって、怒られた。うつしてくれればよかったのに。無駄に丈夫な自分なら、一晩寝れば撃退できたんだ。

 数日会えなくて、文字だけのやり取りでバレンタインの約束を取り付けて。

 当日家まで迎えに行ったら、玄関サッシのドアが微妙に開いていた。引き戸のレールに雪が詰まって、二センチ程度どうしても閉まらなくて、昨夜降っていた雪が隙間から中に吹き込んでいる。

 嫌な予感がして、声をかけながら玄関ドアを引き開けた。あっさりと開いたドアの向こうは静まり返っている。僕は返事を待たずに彼女を呼び続けながら上がり込んだ。家の中は冷え込んでいて、まるで人が住んでいないかのようだった。それでも台所にはボウルやシリコンのへらなんかが水に浸かっていて、作業した様子が残っている。

 僕はそのまま二階の彼女の部屋に向かう。

 彼女はベッドの上で横を向いていた。声をかけても、体を揺すっても反応がなく、乾いた吐しゃ物が髪の毛にべったりと張り付いていた。


 混乱したまま救急車を呼び、そこから警察に連絡が行って……事情聴取を受け、連絡のつかないおじさんや弟さんが来るまで、彼女の傍で待つことになった。帰ってもいいと言われたのだが、彼女をこれ以上一人にしたくなかったのと、おじさんに話を聞きたかったからだ。

 検視の後、女の子だしと顔を少し綺麗にしてもらった彼女は、ただ眠っているようだった。

 なかなか来ないおじさんに時間を持て余した僕は、何度か彼女にキスをした。人工呼吸も試してみた。けれど、彼女の瞳も、唇も、開くことはない。かさかさとした冷たい皮膚が、僕の胸の奥まで乾燥させていくようで――




 暗くなり始めて、ようやく到着したおじさんは扉の向こうで呆然と立ち尽くしていた。かと思うと、突然何かをわめき始めて、子供のようにいやいやと首を振る。様子を見に来た警官たちになだめすかされても興奮は増すばかり。ドアの前でわめきながら立ち尽くす彼を黙らせたのは、彼女の弟さんだった。

 派手な金髪にピアス、そしてジャージ姿。文字通り駆けつけた彼は、勢いのまま父親を殴り倒した。


「っるっせーんだよ!! てめえのせいだろ! 吼えてんじゃ、ねえ!!」


 地階に響き渡る声に、僕も思わず肩をすくめる。まあまあ、と宥められた彼はそれきり父親に一瞥もせずに中に入ってきて、僕に頭を下げた。廊下からは押し殺した泣き声が床を這ってきて、いつまでも上がらない黄色い頭に困惑する。


「あの……僕はいいので、お姉さんに……」


 ゆっくりと頭を起こした彼は、瞳を揺らしながら彼女を見下ろした。おじさんの時とは違う、静かな対面だったけど、一筋頬を伝った涙が何か言葉をかけるより、ずっと彼の気持ちを伝えてきた。

 結局、おじさんがどうして、何日出かけていたのかは、聞けずじまいだった。




 彼女の弟さんに呼び出されたのは、2か月ほど経ってからだった。雪も融け、ようやく暖かくなってきた頃。相変わらず黄色い頭にジャージを着ていて「うス」と僕に頭を下げた。


「姉貴の荷物整理してたら、出てきたんスよ」


 彼が差し出したのは、赤いリボンのかかった小さな箱だった。


「あ、一度開けてます。スンマセン。迷ったんスけど、それのためにちょっと無理したんじゃないかって思って。渡しといた方がいいかなって」


 そっと開けてみれば、茶色い四角い物体が並んでいた。振りかけたココアが崩れて、見えた表面が白っぽくなっている。


「チョコ……?」

「あー、食わねえ方がいいっスよ? もう、二か月も前のだし、常温放置されてたし……アリにたかられかけてたし……」


 そっと視線を外す彼をぎょっと見つめて、少し可笑しくなった。


「そうか……ありがとう」

「いえ。あと、墓はここに。気が向いたら、行ってやってください」


 メモを一枚残して、イヤホンを耳に突っ込むと、彼は去って行った。



 * * *



 僕は保冷バッグから小さな箱を取り出した。ずっと冷凍庫に入れっぱなしで、霜のついていた箱はすっかり綺麗になっていた。それでもまだ一応冷たい。


「見ただけじゃ、わからないかもしれないですけど、一応。見た目くらいは似せられるかもって」


 カウンターの向こうの青年に押し付けるようにして渡すと、彼は僕がしたようにそっとそれを開けた。

 それから、何の意味があるのか、そこに置いてある丸椅子を見下ろして、小さく頷く。


「わかりました。やってみます」


 箱は閉じられ、丁寧に返される。


「本当ですか? ありがとうございます! あ、ひとつくらい切ったりしてみてもいいですよ?」

「いいえ。大切なものでしょうから。だいたいは判りました。来週の――水曜日にまた来てください」




 ほくほくと店に向かった水曜日。

 いざカウンターの椅子に座ると緊張してきた。それは源さんのお孫さんも同じようで、チョコの乗った皿を差し出す手が震えていた。

 皿の上には二センチ角くらいの四角いチョコレート。差し出された爪楊枝で刺してみると、柔らかく沈み込んでいった。


「溶かしたチョコに生クリームと洋酒を混ぜた生チョコだったと思います」

「え。そんなことまで? すごいな。それが分かっただけでも無理を言った甲斐がありました!」


 ドキドキしながら口に入れてみる。

 ほんのりとブランデーの香りが鼻に抜けた。売ってる物みたいに滑らかな舌触り、とはいかないけれど、柔らかな歯触りの後、溶けて広がる様が初めてにしては上出来じゃないかと思う。

 毒でも食べると言ったのに、ずっと口に入れられなかった罪悪感が、口の中でふわふわと溶けて、ぽろりと目からこぼれていった。




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作中参考食品:手作り生チョコレート

刻んだチョコレートを温めた生クリームで溶かして冷ますだけ。作中ではブランデーを入れて香りづけしたようです。仕上げにココアや粉砂糖を振りかけるのが一般的でしょうか。

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