長雨の章
閑話(六月)
しとしとと、雨が降る。もう一週間、毎日雨が降っている。
梅雨だった。まさしく梅雨まっただ中だった。
「じめじめしてて嫌だねぇ……」
左隣の
「ああ」
だから話しかけられた本人、僕の右隣の
「ほえみん制服しっかり着ててえらいよねぇ。暑くないの?」
「暑い」
「んじゃんじゃ、胸元、ボタン外した方が楽だよ。スカート丈も短くさぁ」
「いえ結構。お構いなく」
きりっとしている。知之田さんはきちんと制服を着こみ、姿勢正しく正面を向き続けていた。その表情は微塵も揺らがない。
彼女は、変わらぬ鉄面皮で規則正しくボールペンを走らせる。板書である。この、騒がしい授業にも気圧されることなく、淡々と。
僕は息苦しくて、胸元のボタンをひとつ、外す。夏服に変えたというのに、嫌な汗が一筋、額を伝った。
「ほらぁ!
僕はピクリと身を震わす。
「うん。まあ、暑いね」
僕は努めて笑顔で、井奈さんに応えた。
*
六月の新しい席は、梅雨のように湿度が高かった。6×6に規則正しく並ぶ席順の、ちょうど真ん中あたり。なぜだか四方を女子たちに囲まれた、ピンク色に肩身が狭い席だった。
左右のお隣だけでなく、前後も、斜めの先もほとんどが女子ばかり。ただ一席、左斜め前を除いては。
その、左斜め前の席。そこは、空席になっている。クラスの全生徒数は36人。そして席数も6×6の36席。つまり、空席などないはずである。とはいえ、本日偶然のお休みというわけではない。その席は、今学期が始まってからずっと、空席だ。
マサラ。あの夢の中で、あの白い少年はそう名乗った。どこかで聞いたことのある名前。しかし、あれだけ目立つ格好ながら、まったく見覚えのない姿。35人しかいない教室。空いたままの席――――。
まあ、その件については、次に夢で会ったときにでも確認すればいいか。そう、結論付ける。確認する必要もないほど、状況証拠はそろっているけれど。
*
それよりもいまは、このじめじめした肩身の狭い席だ。居心地が悪い。
ただでさえ人付き合いが苦手なこの僕が、あろうことか女子ばかりに囲まれている。早く来月にならねえかなあ。
とはいえ、とうとう最後列から脱してしまったこの席にも、いいところはある。それは、僕のふたつ前の、そのひとつ右隣の席。ピンク色に寝癖だらけのミディアムヘア。子どもっぽい星形の飾りがついたヘアゴム。
この距離感は初めてかもしれない。ずっと近い。これほどまで近くに彼女の後頭部がある。しかしそれも、こうなってしまえばむしろ、ストレスが溜まるのみだ。
というのも、彼女のお隣、僕のふたつ前の席が、僕の嫌いな
輝野
彼は、クラス一のイケメンだ。その点については、僕も認めるところである。べつにそのことについて僕は文句を言うつもりはない。ただ、彼がその事実を他の誰よりも理解していて、それを用いていろんな女で遊んでいるナンパさが気に喰わないのだ。
「ねぇ~、いいじゃん、
「あらあらぁ、うふふふ……」
加賀殻さんは輝野のナンパなどにほいほい乗ったりしない。授業に真面目な性格であるというのもあるけれど、そのおっとりした性格は、どんな力押しも有耶無耶に消し去ってしまうのだ。……たぶん、愛の告白とかでも。いやまあ、彼女への愛の告白とか、僕にはまったく全然、微塵も関係のないイベントであるのだけれどね?
とか、思ってたら、終業のチャイムが鳴った。しゃあ! メシだ! という声がどっか後ろの方から上がる。もはや『かつての隣人』というのも無理があるが、そう、僕のいちおうは友人、
「あの、最後にね、このプリントを……」
古典のハゲが申し訳なさそうにプリントを配った。僕の眼前の席は、なぜだかまたも
*
この日の帰り道、僕のような陰キャには本来起こり得べからざるべき、一大イベントが発生した。
「やほぅ、分美っち、帰り~?」
その声の主は、六月の僕の隣人、井奈
「帰りだけど、なにか?」
どことなくメガネキャラっぽいセリフになった。ちなみに僕は裸眼で1.5の視力がある。メガネなどかけたことはない。
「イナコトを申すね」
申していない。
「あたしもお帰りなの。たまたまこうしてクラスメイトに昇降口で鉢合わせたんだから、挨拶くらいするでしょ」
そうなのだろうか? 彼女のような――若干周囲から浮いているとはいえ――陽キャの常識など、僕には推し量るにも困難だ。
「うん。じゃあ。さよなら」
知らないものは仕方がない。僕は陽キャの流儀に則り、別れの挨拶を済ませる。下駄箱から外履きを取り出し、内履きから履き替えた。
「はいは~い。さよなら~。……って、そうじゃねえ!」
おお、噂に聞くノリツッコミだ。初めて生で見た。大仰な逆平手までおまけして。
「分美っちご近所組でしょ? 家どっちよ?」
「……あっちだけど」
僕は曖昧に方向を指さした。
「んん~、まあ、遠回りでもないね」
「?」
いや、僕はまっすぐ帰るけれど。と、言おうとしたが、遮られた。
「じゃ、途中まで一緒に帰ろっか」
……どうしてそうなる?
*
「あっはは。分美っちおもろい~」
どうしてこうなった? そして、僕はいったい、なにを言ったのだろう? テンパって無意識にウケを狙ったのだろうか? 彼女がそれを感じ取って、笑ってくれたのだろうか?
「おもろいのは僕じゃなくて、村坂の方だ。……いや、あいつがおもろくない、ということをネタにすると、なぜだかおもろくなっているだけで――」
そう、無意識に口をついた。なるほど、僕は我が友人、村坂応次のくだらない話をしていたのか。
僕の――というより、村坂のくだらない話にも、彼女は本気で楽しそうに、笑っている。それを見て僕が最初に思ったのは、不思議と、
あれから――五月のあのゲームから、三週間弱。その間、僕はふたつのゲームに参加した。……というより、召喚された、というべきか。その参加にはまったくといっていいほどに、僕の意思が介入していないのだから。
その中で気付いたゲームの
だから、必然的に疑心暗鬼になってくる。いったい果たして、クラスのうちの何人が――もっと具体的に、誰が、ゲームを1回以上クリアし、夢の記憶を維持しているのか、という点について。
あの白い少年――マサラについても、改めて調べた。かなり特異な立ち位置だが、確かに彼も、
まあ、それはさておき。結論、僕はいったい、あの中の何人が、どいつがゲームの記憶を保持しているのかを気にしている。気にしたところでどうということもないのだろうけれど。考えたところで特定はできないのだろうけれど。特定できたとしてどうするということもないのだろうけれど。それでも。
だから、彼女の笑顔に疑問を向ける。こんなふうに、まっすぐに思い切り笑える彼女は、あのおぞましい地獄を知ってはいないのではないか? いや、知っていてなお、その顔ができるとしたら、それこそが問題だ。
……まあだから結局さ、疑おうとなんだろうと、僕はクリア者探しをする気は、特にないのだけれど。
「ところで分美っち。聞きたいことがあったんだけども」
話がひと段落して、彼女は不意に立ち止まり、僕を正面から見た。
だから僕も緊張して、彼女を横目で見る。
「……どうやったらほえみん、笑わせられるかな?」
やけにトーンを落として、神妙な顔で問われる。
「あ、はは……」
だから僕も、正常に吹き出してしまう。
彼女はきっと、大丈夫だろう。
*
さて、本日の日記は分量が多くなることだろう。本当にこれまでで一番の、一大イベントが起きたのだから。
そして、これも――偶然の可能性の方が高い気はするが――見つけた規則性のひとつなのだけれど、日記が長くなったり、単純に、内容が濃いときは、あのゲームに呼ばれる率が高い気がする。まあ、こちらは、クラスがどうとかじゃなくて、僕個人の事情なのだから、関係ない可能性の方がやはり高いのだけれど。
ともあれ、夢の件も相まって、いまでは定着してしまった日記を書き終え、僕は念のため、ゲームの覚悟をして、眠りについた。
外は今日も、ささやかながら止む気配のない、雨が降り続いている――――。
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