崩れ落ちる屋上


 視界が、開けた。ずっと校舎内にいたせいで、やけに広く感じる、屋上。そこへ一歩、また一歩と、進み出る。


「うおっ……ほっ、てっ、はっ……!!」


 途端の、崩壊に襲われた。しかも、二連続に。しかし、崩れかけても地面を蹴り跳ぶことができる。そう認識した僕は、ロープの――それを引っ張る彼の助けを借りるまでもなく、自力で生き残ることに成功する。

 さすがに、バランスを崩しまくりで格好は悪かっただろうが。しかし、格好悪くとも、生きているなら重畳だ。


「いいねえ。だいぶ慣れてきたじゃねえか」

「おかげさまでね。それで――」


 屋上まで来られたはいいが、結局、ここが目的地だとして、ここでどうすればいいのか? 僕はそれを問おうとして、瞬間、言葉を失った。


 屋上から見える、夜空。星々の輝きを掻き消し、唯一、存在感を放つ、灰色の月。それは屋上に立ち、見晴らしのよくなった天球、その十分の一ほどを覆うくらいの、圧倒的なサイズ。これほどまでに大きな月など、僕の人生で見た記憶が、ない。


 だが、それよりも異様なものが、ひとつ。


 それが、屋上からやや見下ろせる、僕らの高校の武道場。その屋上――というよりは、屋根上に立ち昇る、光の柱・・・。校舎周辺の地面がすべて奈落への大穴になり、校舎内にも崩壊が浸食している現状、あらゆる奇想天外も受け入れられそうだと思っていた僕だが、あれはさらに、わけが解らない。


 地面が大穴になったことなら、なんらかの天変地異で地面が崩れて、たまたま校舎だけが生き残った、とかで、いちおう説明はできる気がする。校舎がところどころ崩れるのも、形あるものだ、いずれ老朽化などで崩れることもあるだろう。……そこに空いた穴が、どう確認してもどこにも突き抜けていなさそうで、それでも永遠に吸い込まれそうな尋常でなさであるのはおかしいにしても。それでも、まだ受け入れられる現実味はある。


 しかし、あの光は、まったく解らない。まあ、空から光が射すくらい、普通の出来事ではあるのだが、いまは、夜中――のはずである。時計は確認していないし、スマホも持っていないから確実なことは言えないが。それでも、空が真っ暗で、月まで浮いているのだ。いまは夜中の可能性が高い。であるのに、武道場の屋根上、その一部だけが、やけに明るい光の柱で天まで一直線、照らされているのだ。


「さあ、最後にして、最大の、跳躍だ」

 彼は意を決したように、口を開いた。


「跳ぶぞ。あの、光の柱ゴールまで」

 それ・・を指差し、彼は、言った。


        *


 現実的な話をしよう。あくまでこれは僕の目測だけれど、現在僕たちがいる屋上の高さは、およそ20メートル。そして、眼下に見える武道場の屋根上は、やや低く、15メートル、といったところだろう。そしてそれらの直線距離は、僕の目が狂っていないのなら、おそらく、20メートル、くらいだろう。走り幅跳びの世界記録がどんなもんか、僕はまったく造詣がないけれど、それでも、体育の授業で体力測定をした経験上、そして、日常生活という『常識』の中での経験上、10メートルも跳べるようなものではない、と、思う。


 冷静に考えよう。この屋上からあの屋根上まで、高低差がある。その分、跳躍距離は伸びるだろうから、火事場の馬鹿力で、10メートルそこそこ、跳べるとして。で、直線距離が、20メートルくらい? ふむふむ。なるほど。


「いや、無理だから!」


 無理だった。僕の頭が、無理と判断した。つまり、無理である。


「ちょっと意味解んない! 跳べる距離じゃないだろ! 見りゃ解んだろ! 落ちて潰れて死ぬわ! ふざけんな!」


「落ち着けよ。落ちたって潰れねえよ。大穴が空いてんだろうが」


「そうだね!」

 しかし、問題はそこじゃない。


「だいたい、あの光は確かに怪しいけど! あそこがゴールだって保証はないだろ! そもそもゴールってなんだよ!? ここは現実だ! ゲームじゃねえ! 現実的に考えれば、ここでヘリとか、救助を待つのが賢明だろうが!」


 そうである。そもそも彼の口車に乗って、復讐だとか考えていたけれど、考えてみれば、彼がこの現状を作り出した張本人を知っていて、そいつを僕と引き合わせてくれる保証などないのだ。いや、仮にあったとしても、よくよく考えたら復讐ってなんだよ。ただの一介の高校生が、こんなとんでもない世界に変えてしまえるとんでも存在に、なにを復讐できるってんだ!


「落ち着けって。……はあ。気持ちは解らねえでもねえけど、おまえ、本気でここが、現実だと思ってんのか?」


「はあ!?」


 落ち着け、の言葉よりも、落ち着いた彼の態度に、僕は少しだけ冷静になれた。『ここが現実だと思ってんのか?』。思ってなどいない。しかし、事実こうなっているのだから、そうなんだろうが!


「ここは、夢の中だよ」


 そんな受け入れがたい現実を簡単に跳ね除けるように、彼は、さらりとそう、言った。


        *


「夢……だって?」


 一陣、強い風が吹いた。だから、という理由を付けて、僕は自分の耳を、そして彼の言葉を、疑う。


「そうだよ。夢。人間が睡眠中に見る、虚構の世界だ」


「夢……」


 安心すればいいのか、驚けばいいのか、僕は決めあぐねて、ただただ、そうおうむ返した。


「だけど、この、現実感」


 この、というよりは、あの・・。炭文字さんや、加賀殻さんが死んだときの、あの、血の色、匂い、ぬちゃりとした、あの、感触。


 もちろん、それだけじゃない。屋上に出て感じた、夜風の冷たさ。外気の匂い。そして圧倒的な、死の恐怖だ。彼の言う通りに武道場まで跳ぶことを空想したときの、現実的な恐怖。地面に叩き付けられ――は、しなくとも、この高所から落ちて、あの深い穴に落ちて、いつか、どこか穴の果てに叩き付けられるはずの、恐怖。この、現実的な、高さ。


「なにが現実だ。むしろ非現実的すぎるだろ。唐突に深夜の学校にいて、おかしな格好をしている。これだけでもおかしいってのに、校舎の外は大穴で、校舎自体は崩壊。そこにできる穴は底が知れず、どこに繋がっているかも不明。どれだけ走ろうと足は痛まず、なにより決定的なのは、現実世界以上の、身体能力だ」


 最後の点に関して語るとき、彼は、なぜだか悲しい顔をした。


「身体能力?」


 痛みを感じないことには、なんとなく、覚えがあった。不思議に思っていたことのひとつだ。ずっと、裸足で走っても、足はまったく痛まない。


 とはいえ、身体能力が向上している、という点は、覚えがなかった。いやしかし、もしそれが本当であるなら、確かに、武道場へ飛び移るということも現実的・・・、なのかもしれない。


「崩壊する床から、自力でも跳び出せただろ? そんなこと、普通は無理だ。まあ、そんなことを日常で経験している人間なんて、そうそういねえだろうけどな」


「…………」


 真偽はともかく、そう言われてしまうと一言もない。僕だって一般人の例に漏れず、崩れる床を跳び抜けたなんて、はじめての経験だったのだから。


「とはいっても、ここを跳ぶなんて、さすがに……」


 僕はおそるおそる、屋上の隅から、下を、見る。真っ暗な夜中に、浮かぶ月。その巨大な灰色に照らされても、目下はなにも映し出されない。まったくの漆黒。それも、校舎での穴に見られるような、直径二メートル程度ではなく、巨大な、巨大な、奈落の大穴。逆に言えば、地面が目視できない分、叩き付けられる恐怖はない。しかし、落ちたら死ぬ。きっとそれは、確実だ。

 僕は恐怖から、後ろへへたり込む。するとその反動でか、左手付近の地面に穴が空いた。僕はバランスを崩す。が、無理にそこから跳び退けなくとも、落ちる心配はない、ようだ。


「……どうする? おそらくもう時間がない。おまえが跳べないなら、俺はひとりででも跳ぶぞ」


 迷いなくストレッチを始める彼に、僕も、覚悟を決めた。


「……いいよ。跳ぶよ。跳べばいいんだろ」


 ここが夢だという、彼の言葉を信じたわけじゃない。死の恐怖も、微塵も薄れていない。それでも、僕は跳べる、気がした。そしてこんなクソみたいなゲームをクリアしなければならない、気がした。


        *


 この感覚は、なんなのだろう? 不思議だ。不思議な、全能感。これは、ここを夢だと信じ始めているのだろうか? いや、それよりよほど、うやむやな感情だ。

 まるで、精神にまでなにかが、干渉しているみたいな――。


「じゃあ、行くぞ。もし俺が駄目で、おまえが跳び移れたのなら、しっかりロープを頼むぜ?」


 彼はそう言った。どうやら、そういうことらしい。これでどちらかが跳び移れれば、もうひとりも生き残れる可能性ができた、ということ。


 僕は、なにかが頭に引っかかりながらも、彼の言葉に従い、意を決する。




 跳べる。跳べる跳べる跳べる跳べる――!




 僕は――僕たちは、跳べる!!




「「うおおおおぉぉぉぉ――――!!」」


 声を重ね、まっすぐ走る。ご丁寧に人身落下防止の柵が、一か所だけなくなっていた。とすれば、それも崩壊して消えたのかもしれない。その場所は、しっかと武道場の方向――!


 あと、数歩! そのとき、パリッ、と、隣から音が聞こえた。


「おい!」

 僕は彼へ、注意を促す。


「解ってる!」

 彼は、少しだけ力を強めて、その崩壊より早く、一歩を先んじた。


 だからほんの少し彼が先を行き、……僕も、それに続いて、空へ――――!!



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