血と鬼の虐殺
――逃――げ――――!! ……なければ!!
思い、固まる。威圧……されたのだろうか? 三メートルを越えていそうな高身長に、ボディビルダーのような重厚な肉体に、蒸気を上げる赤黒い肌に。
睨み下ろされる、文字通りの、鬼の双眸に!
鬼は、ただでさえ怖ろしい肉体と形相に、付随して所持していた巨大な木片――いや、この表現では生ぬるい、それは木製であるというだけの、ただの、凶器だ――を、ずしりと持ち上げ、僕を捉えた。
殺――される――。
その瞬間は、不思議と安堵にも似た諦観が、僕の思考を止めた。恐怖も、絶望も、消えた。なぜだか圧倒的な、確実に訪れる『死』に対して人は、どうにも安心するらしい。いい人生だった、とは言えないけれど、悪くはなかったのだろう。衣食住、不足なく、どころか飽和するほどに得ることができ、親の愛情にも、ゆかいな仲間たちにも恵まれた。……平和な国に生を受け、それだけのものに囲まれて育ったのだ、後悔なんて、――――ある!
足りないとは言わない、むしろ、この願いは実に高望みだ。それでも。
僕はまだ、彼女に気持ちを伝えていないじゃないか!
加賀殻さん。加賀殻叶さん。彼女を好きだとは言わない。そしてそれは、きっと事実だ。それでも、いつか彼女に救われたこと。その表現は大袈裟にしても、長いこと見つめて、幸せにしてもらったこと。言葉になんてできないだろうこの気持ちを、僕はまだ、言葉にしていない。解り合えるはずもない、胸のうちなど晒せるはずがなく、すべてを完全に伝えられるはずのないこの気持ちを、僕はその片鱗すらも、彼女に伝えていない!
こんなところで、死ねるか! このまま、なにも彼女に伝えないままで、死ねるか!
そう、思った。
凶器は、振り降ろされる。
*
体は、動いた。いや、動かされた。手を引かれて。
「こっちや!」
まだ引きずられていた僕の体は、瞬間、浮いた。
「――――!!」
冷や汗。まず、それを体感する。そして、遅れて認識する、風圧。
外れた――外させた。僕が、ではなく、僕の手を引いてくれた、誰かが。
「さ、
そうだ。この暗がりで、しかも後ろ姿だが、すぐに気付く。我がクラスの学級委員長、いつも柔和な笑顔のナイスガイ、清浦
「なんで清浦くんが!? あの鬼はなに!? ってかこの状況が――」
「ええから走れ! しゃべっとると体力消費するで!」
……そもそも清浦くんて関西弁だっけな? いや、それこそいまは、どうでもいい!
僕は清浦くんに手を引かれるまま、走った。向かう先は、校庭側。僕が当初向かおうとしていた方向とは逆向きだけれど、それも致し方ないだろう。
だって、あの鬼は校舎側からまだ、こちらを追ってくるのだから!
それを、僕は振り向いて確認。死ぬ気で走る。が、鬼の動きを見て、ほんの少し安堵した。あの巨体だからだろうか? その動きは、決して速くない。というより、歩幅こそ大きいものの、ゆったりと歩いて向かってくる。このままなら少なくとも、速度的に、追い付かれるということはないだろう。
とはいえ、追い付かれることがあれば、それすなわち『死』である。あれだけの強靭な、人なのか鬼なのかが明確に僕らを殺そうとしている。立ち向かって勝てるはずもなく、その攻撃は、まず間違いなく僕らを一撃で死に至らしめる。全力疾走を緩める選択肢は、いまはなかった。少なくとも、もう少し距離を隔てるまでは。
……で、距離を隔てた。場所はまだ校庭。校庭のいたるところにある生垣の裏である。
「……行ったな。どうやら俺らのこと、見失ったみたいや」
確か清浦くんは、剣道部だ。だからか解らないけれど、あれだけ走って息も乱していない。僕はもう、肩で息をしているというのに。
「で、これがどういう状況か、僕は説明、してもらえるの?」
息を整えながら、問う。
「いや、解らへん。……じゃなくて、解らん。
関西弁を意識的に矯正して、清浦くんは言った。いまさらながら清浦くんも僕と同じ、入院着姿である。ぶっちゃけ、ちょっとキツいな。女子ならともかく、僕ら男子にこれは似合っていない。客観的に客体を見るとそう思う。まあ、それどころの状況ではないのだけれど。
「とにかく、早く学校から出た方がいいと思うけど。あの……鬼があっち行ってるあいだに」
まだ校庭から出るにはやや距離がある。しかし、タイミングよく鬼は僕たちに背を向けている状況だ。いまなら気付かれずに抜け出すのも無理ではないだろう。……校庭を――学校を出たところで、もはや街が安全とも限らないが。
「それが……」
僕の言葉に、清浦くんは苦虫を噛み締める表情で、言葉をうろたえさせた。
「出られねえんだ。ここから」
*
清浦くんが言うところによると、校庭の隅、学校の敷地から外へは、出られないらしい。なんとも言葉にすると嘘っぽいが、
ほんとのほんとに嘘っぽいが、彼の言葉であるから真っ向から否定もしにくい。僕は清浦一助とたいした友好関係を持たないが、それでも、彼が善人でお人好しで、悪意のある嘘をつくような人間ではないと知っている――つもりだからだ。傍から見ているだけの印象でしかないけれど。
ともあれ、出口を探して僕たちは、手分けすることにした。十五分――十五分だ。なぜだか校庭から見える、校舎に掛かった時計は零時で止まっているから、確実な時間は計れないけれど、十五分手分けして出口を探して、またこの場所に戻ってくると約束した。スマホも持っていなかったし、連絡も取れないから。
この命がかかった状況で二手に分かれるのは、心理的に辛かったが、効率を考えたら手分けするのは仕方がないだろう。僕はそう、了承する。僕は校舎側へ。いまなら鬼もそちらには近付いていないし、こっそりと向かえば気付かれないかもしれない。そして清浦くんは再度、校庭側へ。いまだ鬼はそちらをうろつき、あるいは幾人かの影も阿鼻叫喚も残る危険地帯だが、そこは体力がある清浦くんが率先して引き受けてくれた。
そうして、僕は改めて、スタート地点の大木のあたりまで戻ってきた。
*
さて、ここからが肝要だ。ここまではそれなりに生垣があり、隠れながらだったから少しは安心もしていたが、この先は完全に開けた校庭だ。いつ鬼がこちらを見、迫ってくるか知れたものではない。しかし、どこかで意を決しなければならない。
ここまでの道中、僕は念のため、校庭の端まで行ってみた。そして清浦くんの言葉が真実だったと知る。そこには確かに、この学校の敷地をぐるりと囲むように、黒いもやが覆っていた。そしてそれは確かに、触れられもしないのに、外へ出ようとする僕の体を受け止める。ほとんど反発も感じないのに、なぜだか僕は、そのもやの先へ出ることができなかったのだ。
とはいえ、それはあくまで、見える範囲でのこと。『この学校の敷地』とはいっても、その境界すべてを確認したわけではない。ゆえに、これは、それを確認する工程だ。
校舎の反対側なら、もしかしたらあのもやが切れている部分もあるのかもしれない。そう、信じて。期待して。
鬼の位置を確認。現在の僕の位置よりも校庭側に寄っている。速度は僕よりも鈍い。これなら、仮に見つかってしまっても、少なくとも僕が校舎に入るまでは追い付かれないだろう。しかし、そのままずっと追ってこられたら、いつか僕のスタミナが尽きる。それすなわち、死だ。
ゆえに、できるだけ良好なタイミングを。少しでもここから距離を隔て、鬼が、反対側を向いている、タイミングを――。
その、ときだった。
まさしく、そのタイミングだった。
鬼がこちらに背を向け、反対方向へ歩いて行く。その大股で、なにかを――獲物を見つけたような、淀みない足取りで。
だから、僕は、駆けた。
鬼の、
「加賀殻さん!」
鬼が追いかける、ひとりの女の子へ向けて!
*
走れ走れ走れ走れ! 走ってどうする!? あの鬼へ、背後から奇襲!? 無理だ! 僕ごときが全力でぶつかっても、その体勢を崩すことすらできやしない! 彼女の――加賀殻さんの手を引いて、走れ! 逃げろ! 彼女を、殺されてたまるか!!
「おおおおおおおおぉぉぉぉ――――!!」
呼吸が荒い。それでも、周囲の景色は、これまでにないくらい早く流れていく。火事場の馬鹿力か、僕はいま、おそろしいほどの高速で、自分の限界を超えて、駆けている!
「加賀殻さああああぁぁん!!」
手を伸ばせ! 声を上げろ! 僕に――僕に手を伸ばしてくれ! 加賀殻さん!
鬼が、振りかぶる。加賀殻さんは腰が抜けたのか、動かない。ただただ驚愕に鬼を見上げ――その視線を、僕へ落とした。
「あらぁ……?」
のんきな声で、彼女は言って、ほんの少し強張った頬を、緩めた。
そのとき僕は、不覚にも、ときめいてしまった。これまで、十年以上も彼女を見つめてきて、そうなるとときおり、視線が合うこともあったけれど、それでも、こうして微笑んでもらえたことは、きっと、そう多くなかった。まったくなかったはずもないだろうけれど、まったくといっていいほどなかった気がする。それはきっと僕が、すぐに目を逸らしていたから。だから、こんな幸福な時間を、僕は知らずに、生きてきた。
彼女はどうだっただろう? 彼女は、この十七年間をどう思い、なにに感動し、誰を好きになって生きてきた? 誰を見つめて生きてきた? その生涯は、幸福であっただろうか?
頬が、濡れる。遅れて、むせるほどの鉄臭さ。
生理的な畏怖。気持ち悪さ。それを理性で払い除け、半身に浴びた彼女の血の、その温かさを拭う。見る。砂と血にまみれた、手のひらを。
人間は、死ぬ。いまだかつて死ななかった人間など歴史上、ただひとりも存在しない。だから、僕は、人間が死ぬことを知っていた。
だが、知らなかった。人間が死ぬなんて、僕は知らなかった。僕の目の前で、僕の知る、僕の思う人が死ぬなんて、そんなこと、知らなかった!
驚愕。喪失感。遅れて、悲しみ。そして、怒り。次々に湧き上がるそれら感情は、どれも消えることなく混ざり合い、混沌と黒く、暗く、滲んでいく。
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