血と鬼と白い少年
潰れたトマトのように体液を累々と流し、その臓物を溢れさせる。骨の砕ける鈍い音。血液に浮く脂。瞬間で生命活動を停止した彼女は、まだ生き足りないように痙攣していたが、それもすぐに、停止した。深紅の月光に映える桃色の髪。いつも爆発しているそれすらも生命力を失い、赤い湖面に広がり、揺蕩っている。
そのどこにも、もはや彼女はいなかった。加賀殻叶は絶命した。後に残るは、ただただ気持ちの悪い、胸焼けのような感情を固形化した、物体。
散逸する、死骸。
「う……ああああぁぁぁぁ――――!!」
それは、恐怖でも悲哀でもない、嘔吐感だった。僕はうなだれ、彼女の血液に額を押し当てる。嫌悪。その生温さに嫌悪して、その臭気に嫌悪して、その嫌悪に嫌悪した。
これは、彼女だったものだ。好きだったわけじゃない。好きと言えるほどの関係ではなかった。好きと言えるほどの関係にもなれなかった――なりたかった! そんな、彼女だったものだ!
ここにきて、ようやく怒りに気付き始める。殺したい殺したい殺したい殺したい! そんな復讐に意味などない。そのことに頭が回るほど冷静に、殺したい、と、思った。だが、あの巨体の、あの威圧感の、あの鬼に敵うはずもない。それには気付かぬほどに、冷静さを欠いていた。
「うおおおおぉぉぉぉ――――!!」
なにも見えてなどいない。だからこそ、僕は恐怖に身がすくむことなく、鬼に殴りかかった。
*
コツン。という、おそろしく平易な音で、それは遮られた。
頭に――頭の奥に、鋭く響く、音。次いで、かすかな痛み。その元である頭部に手を当てると、血がついていた。……いや、これは加賀殻さんの血だ。……いやいや、それは確かにその通りだけれど、それ以外に、なぜだか自分のものと解る血が付着していた。ほんの、わずかに、だけれど。
それを見て、我に返った。復讐に意味などない。されども、僕は復讐を望む。きっとじっくりと熟考を重ねても、その結論に至るだろう。
だがだとしたら、なおさらだ。なおさらここで無駄死にするわけにいかない。まっすぐなただの暴力で正面から、この鬼に勝てるはずがない。復讐が成せるはずがない。
そう思って鬼を見る。見上げる。その巨体を。三メートルを越す、その高みにある、表情を。
あれ? と、思った。正体不明の怪物のことなど知りもしないが、
ともあれ、それについての考察は後回しだ。この隙に逃げ出す。大切な人を目の前で殺されて、僕は、尻尾を巻いて逃げ出す。
殺す。殺してやる。そのために、逃げ出す。
距離を隔てろ、観察しろ。あれは人間じゃない。ことここに至り、僕は確信した。だったら、
深紅の月を見上げ、いまだ狂ったように叫んでいる女子の、その影を見遣った。屋上にいる、その影を。
*
僕には力が足りない。おそらくだが、校庭の隅に備え付けてある用具入れ、その中にあるはずの、野球バット。そんな武器を取り出したところで、あの鬼を殺しきれないだろう。仮に、あの鬼が無抵抗で殴られてくれたとしてもだ。
だったら、この星に力を借りる。僕たちの住む地球。それが僕らを、常に地上に縛り付ける、重力。
位置エネルギー。僕に足りない力は、他から借りればいい。あの鬼を屋上にまでおびき寄せて、突き落す。四階建ての校舎の上にある、屋上。その高さも、そこから落とすときのエネルギーも、それがあの鬼を殺し得るかは解らないけれど。それでも、いますぐ現実的に僕があいつに与えられるダメージは、それが限界なのだと思う。だから、可能性があるのなら、やってやる。
僕はいま一度、スタート地点の大木へ帰ってきた。ふと、思い出す。清原くんとの待ち合わせの時間は、そろそろではないだろうか? しかし、どちらにしても彼に渡せる有益な情報もないし、そしてやはり、それどころではない。
僕はこれから、復讐へ向かうのだから。
「……動き始めた」
呟く。あのとき、止まった気がしたのは、僕の精神的な部分が要因だったのだろうか? なにか――たとえばあの鬼はマッドサイエンティストが作り上げた怪物で、ゆえに不完全で、ときおり動きを止め、エネルギーを回復しなければいけない、とか、そんな妄想が浮かぶが、情報が足りない。
「逃げねえのか?」
不意に、そんな声がした。どこからか解らなかったから、振り向いてみる。しかし、誰もいない。
ガサッ。と、葉擦れの音。そして、視界にノイズが入ったような、感覚。
「手ぇ、貸してみろ」
端的に言えば、飛び降りてきた、のだろう。木の上から。
「手を、貸して、くれるのか?」
僕は都合のいいように言葉を受け取って、疑問を投げる。
だが、彼の姿はそれ以上に疑問が多い、色彩だった。
*
真っ――白――――。
ふとそこに光源ができたような、空間にぽっかり穴が開いてしまったような、そんな、白だった。
いや、なんとかそれが、人間なのだとは解る。あの鬼なんかとは違う、人間だと。
白い肌。白い髪。そして、僕と――僕らと同じ、真っ白な入院着。どこをどう見ても白だらけの、……少年? 中性的な顔付きだけれど、おそらく。理由は、目付きが悪かったから。そしてその位置には、唯一の色彩、深紅の、眼光が浮いていた。
「ん」
と、彼は手を差し伸べてきた。握手、だろうか? 僕は、手を差し出す。
「痛くねえからなー」
手首を掴み、なんの気もなさそうな声で、彼は、僕の腕に木の枝を突き刺した。――突き刺した!?
「痛っ――」
声を上げようとしたところ、すぐに口を塞がれた。……どうやって? 彼は、片手は僕の腕を掴み、もう片手で僕に木の枝を突き刺して――!
「ん――んんんんぅ――――!!」
口で、塞がれていた。彼の口で僕の口が塞がれていた! その現実に、僕は新たに叫びを上げるが、それすらも彼の口に吸い込まれて、消える。
じっくり十秒。これは体感だが、それくらい経過して、彼は僕から唇を離した。
「黙れ。気付かれるだろうが」
「はあ?」
くい。と、彼は顎で示した。木陰から校庭を見る。そうだ。見るまでもなく、鬼が、まだいるのだ。
「だったら、急に刺すんじゃ……」
言いかけて、ぞっとした。そうだ、僕は腕を思い切り、突き刺されて――。
いた。突き刺されていた。確かに、突き刺さっている。ぼたぼたと、血の気が引くほどに血が流れていた。なのに――。
「痛……くない?」
自問。自分への問いだ、これは。痛くないのか、僕?
いや、『痛くない』は、たぶん間違いだ。痛いはずである。そんな『感じ』はある。だが、『痛くない』。痛覚が通っていない、ような。
「つったろ。んで、血ぃ借りんぞ」
つーか貰うんだけどな。そう言って、彼は拾った小石に、僕の血を付け始めた。……逆か。僕の傷付いた腕にその小石をこすり付け、血まみれにしているのか? ところでいま気付いたけれど、彼の片腕にも同じような傷がついていた。僕ほど傷は深くなさそうで、すでに血は止まっているけれど、新しい、ついさっきついたような――つけたような傷が。
「さて、こんくらいありゃいいや。さんきゅ」
軽く挨拶をして、彼は歩を進めた。木陰から出て、鬼のいる方へ。
十数個の、僕の血がついた小石を両手に、握り締めて。
*
「ちょっと待って。なにする気だよ?」
僕は小走りに彼を追い、小声で問う。ほんのわずかでも近付くことには、恐怖を覚える。復讐を誓っても、怖いものは怖い。
「なにって、検証」
なんでもないように彼は答えた。検証?
「逃げねえの? だったら付き合え」
そう言うと、彼は片手分の小石を僕に手渡した。その個数、七個。
握る手に、またも血がつく。彼女のものがすでに濡らした、僕の手のひらに。
「とりあえず俺がぶつけっから。……九個だな。まあ、当たるだろ、一個くらい」
「ちゃんと説明してくれない?」
当然の疑問である。
「だいたい解んだろ。馬鹿かおまえ。俺がこの石をあの鬼にぶつけるから、それまではなんもすんな。俺の手持ちで一個くらい当たるだろうけど、もし全部外したら、おまえの石を俺に渡せ」
「だったら最初から君が全部持ってれば?」
「投げにくいからな。それと、俺が俺の持つ石だけであいつに当てたら、次はおまえの番だ。その石をあいつにぶつけろ」
「はあ……」
どういうつもりだ? 巨大な岩とかならともかく、こんなものをどう力強くぶつけたところで、あの鬼にダメージなどあろうはずがない。むしろこちらに気付かれて危険度が上がるだけでは?
そう思ったが、もう遅い。彼は一投目を、気安く放り投げた。
*
お世辞にも威力があるとは言えない。というか、弱すぎる。そのうえ、コントロールも壊滅的だった。
その一投目はまっすぐも飛んでいないし、距離的にも全然足りていない。なんとか転がって、鬼の視界には入ったのではないだろうか? という距離で、止まった。
「…………」
「……僕が投げようか?」
「……いや、それは後回しだ」
頑固にも? 彼はそう言って、いま一度投げた。
……今度は飛び過ぎだ。これでは場外ホームランである。いくらなんでも鬼に、気付かれてすらいないだろう。逆に安心だ。
「…………」
「……ちっ」
「……運動音痴?」
他人のことをとやかく言えないが、さすがに彼より僕の方が肉薄できる。……いや、肉薄するのが一番まずいのだけれど。
「イメージが足りてねえなあ。もっと、当たる、イメージを――」
ぶつくさ言いながら、彼は瞬間、目を閉じた。言葉通りにイメージをしているのだろうか?
「ほれ」
緩い。ゆっる~い、一投だった。そしてそれは、鬼に、……当たらなかった。
「……あ」
「……あ」
ワンテンポ遅れて、彼は僕の真似をする。
当たらなかった小石は、最悪なことに
鬼が、振り返る。
*
「やっべ、逃げんぞ」
言うが早いか、彼は駆け出していた。また、あの大樹の元へ。
「なにがしたいの!?」
僕も遅れて走り出す。文句を上げながら。
「見てりゃ解る!」
言いながら、叫びながら、彼はぶんぶんと、やたらめったら小石を投げた。四投目、五投目、六投目……当たらない! そして当たったからといってなんだというのか!
駄目だ。藁にも縋りすぎた。こんなわけ解らんやつに頼ったのが運の尽きだ。ふざけやがって!
と、僕もせめてもの抵抗で、小石を――
「投げんな!」
投げようとしたら、止められた。理由は解らないけれど、しかし、鬼との距離も気になる。まだまだ追い付かれはしないだろうが、追われるとなおさら、あの存在感は怖ろしい。僕は彼の言葉に従い、いまは走ることだけに集中した。
「ふう……覚悟、決めんぞ」
彼は立ち止まる。その横を僕は走り抜けて、距離を隔ててから立ち止まった。
「おい!」
「いいから、見てろ」
言って、振りかぶる。ピッチャーのよう……だとも、お世辞にも言えないが、そんな雰囲気で、狙いを定めて――。
「くそっ!」
暗がりではよく見えないが、七投目は鬼の顔面すれすれを抜けた、ようだった。少なくとも当たってはいない。
鬼が、近付く。
「――っしゃあぁ!」
掛け声をあげて、彼は勢いよく、八投目を投げた。それは二投目と同じく、鬼のだいぶ上空を射抜く。
鬼が、もう、そぐそこまで近付いている!
「駄目だ! 逃げろ!」
「黙ってろっての」
焦る僕とは対照的に、逆に冷静に、彼は言った。
「この距離なら、当たんだろ」
容易く言い退けて、無駄にピッチャーの構えもとらず、ただただ、ダーツでも放るようにあっけなく、九投目を、投げた。
鬼が、振りかぶる。
小石が、当たる。
――――――――。
鬼の動きが、止まった。
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