血と鬼の夜


 暗い空に、紅の月が浮いていた。それはもう見事に、空を征服したかのような居住まいで君臨している。天球の十分の一以上を占めているのではないだろうか? あの大きさは。


 ここは、どこだろう? 暗くてよく把握できない。と、いうことは、少なくとも夜か。少しずつ把握しよう。


 地に腰を降ろしている。地面についていた手のひらを見ると、砂がついていた。屋外? ……いや、それもそうか。月が見えるのだから。

 他は? ……えっと、でかい木が見えるな。わりと近くに。というより、どこかで見たことのある木のような。……考えながら、僕は立ち上がった。体に異常はないと思う。


 が、しかし、不思議だ。おかしいとは思わなかったが、不思議なことが起きている。なんか見慣れない服を着ている。服っていうか、これ、服? 入院着みたいだな。僕はこれでも健康優良児だから、入院の経験はないけれど。

 端的に言うなら、清潔な白い服。上下の境がない、ワンピース姿だ。とはいえ、ちっとも女性的ではない。本当にただただ、機能性を追求した入院着のようである。なんだこれ? 少なくとも僕の私物ではないはずである。

 裾も長いし、まあいいだろう。そもそもおかしな格好だからと言って脱ぐわけにもいかない。とりあえずこの件は置いておく。むしろ問題は裸足だということだが、これも、気にしたところで、すぐにはどうしようもない。


 で、結局ここはどこだ? 月明かりが舞台を照らし出す。が、どうにも知っているようで、知らないような。

 だだっぴろい、土の地面。大きな木が一本。そして、少し先に一棟、大きな建物がそびえている。月の方角だ。だから逆光で影がかかり、どういう建物なのか判別できない。


 ……いや、待て。そうはいってもあのシルエット、どこかで見たことがある――。


「……学校、か?」


 僕は気付いた。気付いて安堵するとともに、冷や汗を感じる。


 学校。つまり、僕が通う公立高校だ。場所は解った。家からも近い。すぐに帰れる。……が、しかし、なんで・・・こんな時間に・・・・・・こんなところに・・・・・・・? そしてその現実感を受け入れると、自分の不思議な格好にも、おかしいと感じる。


 非現実の中に非現実が混ざるのは普通のことだ。知らない場所で知らない格好をしているのは、納得できなくとも理解はできる。いや、理解もできないけれど、受け入れるくらいなら。最悪、夢オチだと思えば解決するし。

 しかし、現実の中にある非現実は、受け入れられないどころか新たな謎を引き連れてくる。わけが解らないなら、それでもいいんだ。だが、わけが解るからこその謎は、看過できない。なんだこの格好、恥ずかしいぞ。


「とにかく帰るか。わけ解んないし、急いで」


 僕は踵を返した。校舎に背を向けて、見るに、そこではいくつかの影が、阿鼻叫喚とともに駆け回っていた。


        *


 今度はなんだよ。と、思いながら、僕はとりあえず帰宅を諦め、いったん木の影に隠れた。


 校庭に誰かいる。一学年6クラス、全校生徒600人を越える我が校だ。そのほとんどの生徒と僕は面識がないけれど、それでも確率はn/600。こんな変な格好で知り合いに鉢合わせることを思うと、十二分に身を隠すべき確率である。夜中であるから、外部のヤンキーどもが騒いでいる可能性もあるけれど、その場合、なおさら身を隠すべきだろう。

 だが、身を隠し耳をそばだててみるに、騒いでいるという雰囲気ではない。いや、騒がしいのは確かだが、その方向性がネガティブだ。楽しんで騒ぐのではなく、慄いて、喚いている。そんな声色。


 これは、なんらかの犯罪に巻き込まれているのではないか? と、僕は戦慄した。それなら、このおかしな服装にも、こんな時間に学校にいることにも納得できる。できてしまう。

 いや、ともすれば、なんらかの実験か? この入院着のような服装を思うとそうも思える。そうだとして、犯罪に巻き込まれたことと比して、安堵すべきかどうかは微妙なところだが。というか、僕の記憶を辿るに少なくとも、そんな実験に協力した覚えはないから、結局、強制的に参加させられている時点で犯罪なのであろう可能性は高いのである。


 どうする? どうすればいい?


 逃げるにしても、この位置からではあの、だだっ広く見通しのいい校庭を駆け抜けねば、学校の敷地から出ることもできない。いや、むしろ校舎側に向かうべきか? そちらへもある程度、校庭を駆けることにはなるが、比較的、人の気配はないし、逆光や、校舎自体の影にまぎれて見つかりにくいかもしれない。校舎の中に隠れてしまえば、それだけで難を逃れられもしそうだし、校舎を通り抜け昇降口に出ても、それはそれで帰ることができる。……昇降口側が安全とも限らないけれど。


 しかし結局、校舎側に駆けるしか――賭けるしかないだろう。いまのところどちらかというと、そちらのほうが安全そうだし。


「ひひひ……! ひゃーっはっはっはっは!! 死ね! 死ね死ね死ね死ねえぇ!!」


 駆け出そうとした足を止める叫びが、タイミングよく響いた。


 見ると、校舎の屋上だ。誰かいる。逆光だし、遠目だし、判別はできないが、きっと女子だ。というか声的にも女子だ。……むしろ女性か? 年齢は解らないけれど、なんとなく学校だし、生徒の女子かと思ったが、よく考えればこの犯罪を引き起こした犯罪集団の可能性もあるのだし、女子とは限らないか。


 ともあれ、加害者にしろ被害者にしろ、危うい絶叫を上げる女子が、屋上にいた。


        *


 僕は、後ろ髪を引かれた。再度、迷う。

 しかし、すぐに判断した。いかにおかしい誰かがいるとはいえ、もしくはこの犯罪の首謀者だったとして、屋上にひとりいるくらいなら問題はない。やはり逃げるべきは校舎側、だろう。


 もし、あの女子が首謀者だったとしたら、彼女が屋上にいる関係上、その仲間たちも校舎内にいる可能性も十分にある。しかし、だからこそ逃げるべきはそちらなのではないか? とも思った。


 どんな犯罪を起こしているのかは解らないが、その首謀者や仲間が校舎にいるのなら、そこは安全地帯とも言える。僕の予想では、この犯罪は実験のようなもの。とすれば、いくら不法に行われているとはいえ、危害を加えるのはあくまで、実験過程・・・・での話。その実験を主宰する科学者連中がモルモットをただむやみに殺すことに意味はない。うまくすれば見逃してももらえるだろう。

 それに、危害を加えられるわけ解らん実験に付き合うより、ひょろい科学者を相手取る方が勝率も高い気がする。……僕に戦闘力はないに等しいけれど、それでも。


 どちらにしても、前門の虎、後門の狼には違いない。どちらが正しいとも、このままでは完全に判断できようはずもないのだし、どちらかへ進むしかないのだ。


 頭の中でいろんな理由を付けて、僕は選択した。間違っていてもいいし、仕方がない。どうしようもないのだ。叶うはずのない恋のように、人生にはどうしようもないことが多すぎる。それでも、僕たちは生きている限り、進むしかない。抗うしかない。


 僕は僕を納得させて、木陰から踏み出した。ねちゃりとしたなにかを踏んだ感触を、裸足ゆえに感じたが、気に留めず、校舎へ。駆け――。


「な……んだ……これ・・……」


 見上げた。影が僕を覆ったから、見て、その視線を、持ち上げた。


 蒸気を上げている。その、常軌を逸した、現実離れした存在を。


 人間と同じ、二足歩行。しかし肌は赤黒く、表皮には深紅の液体が常に滴っている。いつだったかテレビのドキュメンタリーで見た、カバの汗のように。筋骨隆々な肉体。いや、むしろ岩肌のようだ。ごつごつと、それがそこに在るだけで威嚇のように、破壊力を漂わせている。そして、人間でいえば顔にあたる部分。

 それを、顔と呼ぶのだろうか? 人間の常識には当てはまらないほどの、歪み方。やはり赤黒く、ごつごつと岩肌のようで。あるいは、肉食獣のような鋭い牙を、その鋭さゆえに収納できないと言わんばかりに剥き出して。鼻は常に息荒く轟音を響かせ。極めつけは、目付き。もとより吊り上った瞳の形に、まなじりは、さらに直角に近いほどに天を向いている。いや、剥いている。眉間にはきっと一生消えないほどに深く皺ができ、まるで、怒り続けることを強要されたかのような顔。


 はっきり言って、どんなに性格の良い人だったとしても、絶対に近付きたくもない。いや、そもそもその、二メートルどころか、三メートルも越えているのではないかと思える高身長に、ごつい体。赤黒い肌。滴る深紅の液体。常に蒸気を上げ続ける肉体。そして――


「鬼……!?」


 頭部に生えた・・・・・・二本の角・・・・。そんな存在が、人間のはずが、ないのだから。



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