第5話 麗しのマダム
まだもう少し情報収集が必要だという渡辺学の言葉に従い、私は夜汽車という名前のバーを訪れていた。
まだ昼間なので他に客はいない。
そのバーにいたのはカウンターの掃除をしている黒いドレスのほっそりとした女性だった。
「マダム……」
学は彼女をそう呼んだ。
黒いドレスの女性は拭き掃除をしている手をとめて、こちらを見た。
私はその女性の顔を見て、息をのむほど驚いた。
それはその女性が呼吸をするのを忘れるほど、美しかったからだ。
髪にはかなり白いものが混じり、顔にはしわが刻まれていたが、それすらもふくめて美しいとおもわせた。
私が彼女に勝っている部分があるとすれば、この豊満な体と若さぐらいだろう。
マダムと呼ばれた女性のもつ気品のようなものはどう逆立ちしても勝てる気はしなかった。
その麗しのマダムが学の顔を見るとその大きなアーモンド型の瞳に涙を浮かべ、両手を広げて彼の小柄な体を抱き締めた。
「ああ、学。本当に学なのですね……」
涙ながらにマダムは言った。
「ええ、渡辺学です。恥ずかしながら帰ってきました」
学も両手を伸ばし、マダムの細い体を抱き締めた。
おそらく二人には私の知らない関係があるのだろう。
私にはどこかこの光景を見て、言い知れぬ疎外感を覚えた。
学をあの狭く暗い部屋からだしたのは私なのに……。
ひとしきり再会を祝した学はカウンターの席に腰かけた。
私は学の隣に座る。
マダムは私たちにコーヒーを淹れてくれた。
そのコーヒーはよい香りのもので、かなり美味しかった。
ものがない現状でこれだけのものを用意できたのは、正直に感心できた。
おそらくこれは学のために隠していたものだろう。
学はそのコーヒーに砂糖をたっぷり入れ、一口飲んだ。
「やはり、マダムのコーヒーは世界一だな」
うれしそうにマダムは言った。
たしかにこのコーヒーは美味しい。パリでもこれほどのものはなかなか飲めないだろう。
「それで私のところに来たということはなにか聞きたいことがあるのでしょう」
マダムは言った。
「ええ、僕は今ある三名のアメリカ将校の不審死を調査しているのですが、彼らについて何か知っていますか?」
学は訊き、その三名のアメリカ将校の名前を告げた。
その三名の名前を聞き、マダムは形のいい眉をよせた。その顔にはあきらかに怒りの色があった。
「ええ、その方々ならしっているわ。私の女の子たちに口ではいえないひどいことをしていたの。私は白州様を通じて連合国本部に苦情をもうしあげてたのですがね。それでもまだ夜の仕事をする娘たちなら我慢できたでしょうが、彼らは普通の娘にもそのひどいことをしました。その娘はそのあと自ら命をたってしまいました」
美しい顔にまた涙を浮かべて、マダムは言った。
戦争に勝ったとはいえ、その国の人間を好きにしていいわけではない。
戦争とは外交、政治問題の解決の手段にしかすぎないのだ。
非戦闘員に乱暴を働いていいわけではない。
同じ連合国の人間である私は彼らの行ったであろう行為を大きく恥じた。
「その自決した娘には美人の姉がいたわね。必ず復讐してやると私にいってたわ。私は女の身ではなにもできることはないから、別の方法を探しましょうっていったのだけどね」
マダムは言った。
「その女性はどこにいますか?」
学は訊いた。
「その娘なら私が用意したアパートにいるわ。どうやらひどい病気にかかっているみたいなのね。浅沼先生にみてもらってはいるのだけどね」
そう言い、マダムは簡単な地図を手帳に書き、それを破って学に手渡した。
渡すときにその白い手で学の手を握った。
「学、必ず戻ってきてくださいね」
マダムはじっと学の紫色の瞳を見て、言った。
「ええ、必ず」
学もその手を握り返し、言った。
私たちはその病にふせっている娘に会いにいくことにした。
彼女は必ずこの事件に関わっていると思われたからだ。
私は学の腕をつかんだ。
「学はマダムのような細いひとが好みなの」
こんな感情は私には珍しかったが訊かずにはいれなかった。
「なにか勘違いしているようだけど、マダムは男性だよ」
渡辺学は言った。
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