第14話 突然の別れ
あっという間に会社に入ってから、半年が経った。
入社した頃に比べ、社長はだいぶ優しくなった。
そうなると今まで最低最悪男と思っていたが、かっこよく見えてしまう。
優しくされるとけんちゃんと重ねて見てしまい、淡い初恋の気持ちが溢れ出てきそうになる。
時折、客先からの差し入れだと言ってプレゼントをくれるが、私のために時々買ってきていることを知っていた。
優しいことをされると勘違いしそうになる。
社長には綺麗な婚約者の高梨さんがいるし、身分違いも甚だしいと分かっている。
社長に邪まな気持ちを持ってはいけない、社長と秘書だからと自分に言い聞かせ、毎日を過ごしている。
社長を自分のものにしたいという感情と戦いながら、日々仕事をしていた。
この会社は試用期間が6ヵ月と短くこのまま1年延長で派遣契約をするか、このまま正社員として雇うか双方の合意で今後の契約形態が決まる。
社長との関係も良好で、仕事も要求以上のことはできているんじゃないかと自負している。
もし、正社員の話が出たらそのまま就職させてもらいたいと思っている。
正社員の話が出なかったら少し残念だなと思いながらも、少しでも正社員になって欲しいと思って欲しく毎日必死に働いていた。
正社員の話が出なかったとしても、延長での契約はしてくれるだろうとは思っていて、このまま秘書という立場で社長の近くにいられるだけで満足しなくてはと自分に言い聞かせていた。
ようやく週末を迎え、帰りにコンビニに寄ってご褒美スイーツを買って家に向かっていると、鞄に入っている携帯が鳴っているのに気づいた。
母親から電話だ。
私から電話をすることはなく、何かよっぽどの用事がないと連絡もない関係だったので、何事かと思い電話に出る。
母親からの電話は思った通り深刻な内容で、内部に疾患が見つかり1ヶ月程入院するということだった。
これまでほったらかしにしてたけど、命の危険を感じた時真っ先に思い浮かんだのは葵だった、最期になるかもしれないから、入院期間中だけでも付き添ってほしいとと電話口で泣いていた。
入院を直ぐにでもして、治療を受けないといけないということだった。
遠方に住んでいるので、母親に付き添うとしたら会社を辞めなければならない。
母親は離婚しているので、一人で心細い気持ちも分かる。
だけど決断できず、入院期間中の付き添いについてはまた連絡すると言って電話を切った。
母親が泣いているところなんて見たこともなかったし、強い人だと思っていたから想像以上に動揺しているのは分かっている。
今の会社は気に入っているし、社長と離れたくないという気持ちもあり、手放しで母親に所ににいく決断ができる状況ではない。
ちょうど契約が切れるころで、正規社員のお誘いがあるかもしれない現状に対して、どうしたらいいのか決められない。
さっきの電話で最期になるかもしれないと言っていたけど、それは動揺していて口走ったことのようで、よくよく聞くと今回命に問題はないようだった。
ただ、母親から一番に私の顔が浮かんだ、頼れるのはは葵だけと言われたことはうれしかった。
よく考えたら、社長をどれだけ想っても進展することはないし、この気持ちを諦める良いきっかけになるんじゃないかと、ふと思った。
離れてしまえば、所詮他人同士だ。
物理的に関係を断ち切ってしまえば、あとは私の気持ちを切り替えるだけの時間があればなんとかなるはず。
秘書シークレットに所属したままにすれば母親の付き添いが終わった際に、また次の会社に派遣してもらえれば良いんだと。
土日を挟んでどのように決断が変わるか分からなかったが、週明けには辞めることで話をしようと決断した。
悶々として気持ちで週末を過ごしたが決断を変える気はなかったので、週明けの今日まずは秘書シークレットに事情を説明した。
所属は残したままにして欲しいとお願いをしたこともあって、秘書シークレットの方にについては問題なく話ができた。
秘書シークレットからも会社に連絡してくれるとのことだったが、お世話になっていることもあるので私からも室長には話をさせてもらうことにした。
会社に着くと、室長に声を掛ける。
事情を説明して、契約終了で話した。
室長は驚いていた。
正社員で契約変更しようと思っていたから何とか残って欲しいと言われるも、一度決めた気持ちは中々返ることが出来ず、了承することはなかった。
秘書シークレットで後任は直ぐに見つけてくれるということだったので、母親の手術予定日のこともあり、来週いっぱいまでの契約だったが今週で終わりにしてもらうことも同時にお願いした。
急な契約終了で申し訳ないと謝り、正規社員のこともお誘いありがとうございます、と最後にもう一度室長に頭を下げる。
そしていつも通り、社長室の清掃・整理整頓をしてから自分の机に戻り、社長の出社を待つ。
スケジュール確認の後、辞めることも報告しようと思っている。
いつも通り社長が出社して、始業のチャイムが鳴ったのでいつも通りスケジュール確認を行う。
「社長、少しお話があります。」
スケジュール確認を終えたので、辞めることを報告しようと大きく息を吸い込む。
社長はいつも通り顔を上げず、視線は手元の書類にある。
その視線の先に辞表を置いた。
驚いた顔で社長が顔を上げる。
「急なお願いで申し訳ないのですが、今週いっぱいで辞めさせて頂きたいと思います。後任については秘書シークレットで必ず見つけるということでしたし、引継ぎもきちんと行います。短い間ではありましたが、お世話になりました。今週いっぱいはご迷惑をおかけしないようにします。室長には既に報告して、了承を頂いております。」
と一気に報告した。
驚いた顔で社長がこちらを見ている。
ただこちらを見ているだけで何も言わないから、出ていけという意味と捉え
「それでは失礼します。」
と言って部屋から出ようと思い、社長に背を向ける。
「おい、ちょっと待て。」
と社長が慌てた声で呼びかけるので振り返ると、社長が頭を抱えている。
「理由は?俺の指示が無茶苦茶過ぎたか?最近は上手く仕事が回せていると思ったが、負担が大きかったか?」
と思いもしない言葉だった。
私が辞めることなんて大したことじゃなくて、分かったさようなら、ぐらいのことだと思っていたので、少しでも気にかけてくれたことが嬉しかった。
「母が遠方に住んでいるのですが、体調が優れず入院することになりまして。数ヶ月かとは思うのですが、入院中付き添いが必要となり、会社に出社できない状況のため、やむなく退職させて頂きたいと思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
と言って再度、頭を下げた。
「数ヶ月の入院なら、入院が終わったころにまたここで働けば良いじゃないか。何も辞めることはないだろ。今までもっと長い期間秘書が不在で宇佐美が中継ぎしてくれた時もあったんだ。」
「数ヶ月といっても宇佐美室長は通常業務もありますので、ご負担をかけるわけにはいきません。派遣の身でご迷惑をおかけすることもできませんので、辞めさせて頂きます。」
お世辞にも引き留めの言葉を言ってくれたことは嬉しかったが、本心で迷惑をかけるわけにはいかないということと、社長への気持ちにキリをつけるためにも辞める決心は変わらなかった。
「今日のところはよく分った。ただ、まだ退職の受理はしない。俺は入院期間が終われば戻ってきて欲しいと思っている。これはお世辞じゃなくて本心だ。今週いっぱいよく考えるんだ。気が変わったら、すぐ言え。」
と言って辞表を机の引き出しにしまい、再び書類に目線を戻す。
「承知しました。残りの今週精いっぱい働きますので、よろしくお願いします。それでは失礼します。」
と言って部屋を出る。
席に戻った途端、室長が急ぎ足で社長室に入っていく。
私のことかなとも思ったが、私が辞めるごときで大騒ぎはしないはずだと、何を己惚れているのかと少し恥ずかしくなった。
しばらくすると室長が部屋から出て来る。
「澤田さん、社長からも話を聞いたよ。数ヶ月の入院なら、その間俺が中継ぎするから休職すればいい。付き添いが終わったら、戻ってこればいいんだよ。澤田さんほど優秀な人材は今までいなかったから、辞められる方が負担が大きい。考えてみて。」
「嬉しいお言葉ありがとうございます。ただ、これ以上、室長に負担を増やす訳にはいきませんし、ご迷惑をおかけする訳にもいきません。辞めさせて頂きます。」
「辞められる方が迷惑なんだけどな。まだ今週いっぱいあるからよく考えて。結論が出たら教えて。」
と言って室長は部屋に戻っていってしまった。
必要とされていることは嬉しいが、気持ちが変わることはない。
辞める報告をした後もいつも通り、淡々と業務をこなしていく。
特に何か変わることもなく、あっという間に最終日の金曜日終業時間となった。
終業のチャイムと共に身辺整理を行う。
半年いただけなのに結構荷物が増えていたことに驚いた。
出張用にと置いてあるキャリーバックの中に無理やりものを詰め込んで、整理整頓を完了させる。
最後に社長に挨拶をしていこうと思い、社長室に向かう。
ドアをノックすると、いつも通りの「入れ。」という返事が返ってくる。
この返事を聞くのも最後かと思うと寂しい。
「失礼します。本日をもって退職させて頂きます。来週からは別の秘書が勤務となります。引継ぎについては、きちんと行っておりますのでご安心下さい。短い間でしたが、お世話になりました。」
と言って頭を下げると、社長が席を立つ気配を感じた。
顔を上げると目の前に社長が立っていて驚いた。
「俺の提案は?」
「やはりご迷惑をおかけする訳にはいきませんので辞めさせて頂きます。室長の負担をこれ以上増やす訳にもいきませんし。」
「宇佐美は負担じゃないと言っていたし、お前にもそう言うと言っていた。何故辞めると言い張るんだ。数ヶ月休めばいいだろ。」
と怒りを含んだ声が耳に入る。
「そうは言いましても社長秘書の業務は多いですし、室長の仕事も分かっていますので、かなりの負担になることは私も理解できます。後任ですが、私よりしっかりした人でしたのでご迷惑をおかけすることはないかと思いますので、ご安心下さい。」
「何故辞めるんだ。」
と再び社長が問いかけてくる。
また同じことを聞いてくることに戸惑いながらも、
「ですので、母の入院の付き添いがありますので、物理的に出社できなくなるからです。」
さっきまで怒り顔だった社長の表情がみるみる悲しそうな表情に変わっていく。
何を思ったのか私をおもむろに抱き寄せてきて耳元で
「本当にやめてしまうのか。俺にはお前がどうしても必要だと言ってもか。」
と勘違いしそうになる言葉をかけてきた。
心臓がこれでもかというぐらいバクバクしている。
社長に音が聞こえてしまっているのではないと思うほど心臓が暴れている。
動揺しながらも、勘違いしてはいけないと自分に言い聞かせ
「今までありがとうございました。お世話になりました。」
と言って社長の腕からすり抜け、頭を下げて社長室を後にした。
このまますぐ会社を出てしまわないと決心が鈍ってしまうと思い、手早くキャリーバックを手に掴むと室長に挨拶をしにいく。
「短い間でしたがお世話になりました。色々ご迷惑をおかけしたかと思いますが、こちらの会社で働けたことは非常に良い経験になりました。後任にもきちんと引継ぎしてありますので、来週からよろしくお願い致します。本当にありがとうございました。」
「本当に辞めるのか。何度も言っているが、俺への負担は気にするな。澤田さんが想像している以上に簡単なことだ。本当に辞められる方が大変なんだ。もう一度考え直せないか。」
ここでも決心が鈍りそうになる言葉をかけてくれいているが
「身に余るお言葉ありがとうございます。ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので、本日をもって辞めさせて頂きます。ありがとうございました。」
「何を言っても気持ちは変わらないんだな。分かった。入院期間が終わって、気が変わったらいつでも採用するから連絡して。」
「ありがとうございます。」
と言って、室長に頭を下げ秘書室を後にする。
帰り道、半年だったけど色んな事が思い出される。
最初は最低最悪な男だと思っていた社長が、本当は優しくていつの間にか気を引かれる存在となっていたこととか。
どうしてもけんちゃんと被ってしまうところがあるところとか、仕事については厳しくもやりがいがあったとか。
今までの会社は辞める時にここまで感慨深くはならなかったので、やっぱりあの会社が社長が好きだったんだなと改めて認識する。
とは言うものの、叶わない恋心を持って結婚した社長の傍でいつまでも社長のことを好きなまま秘書として働き、年老いていく自分を想像するとぞっとする。
ちょうどいい機会だったから、この気持ちを忘れるためにも良い選択をしたと自分に言い聞かせながら家に向かう。
歩きながら視界が滲んでいく。
頭で分かっていても、心はついていかないようだ。
これで社長に会うことが無いと思うと、胸が締め付けられて涙が溢れてくる。
すれ違う人が驚いた顔で見て来るのは分かっていたが、涙を止めることはできなかった。
家に帰るまで存分に泣いて、この気持ちに終始を打とう。
家に着くころには声を上げて泣いていた。
思いっきり泣いたおかで、少しは気持ちが楽になった。
まだ、社長のことを忘れることはできないが、いつまでも感傷に浸っている場合ではないことも事実だった。
母親の住んでいるところは他県のため、数ヶ月とはいえ家を空けてるのに家賃を払うのは無職の身で辛い。
家を引き払って、入院の付き添いが終わり次の仕事が見つかったら引っ越すをすることにしていた。
一日でも家賃が惜しくて明日、引っ越しをすることにしている。
引っ越し業者が来るまで、あとちょうど15時間。
ある程度荷物はまとめてあるが、15時間後にはこの家を空っぽにしないといけないと思うと、社長との最後の別れを惜しんで夜通し泣きたいところだが、そうはいかない。
泣きすぎて腫れた目を擦って、荷造りを開始する。
時間は無情にも過ぎ去るもので、寝る間もなくあっという間に引っ越し屋さんがくる時間となった。
ぎりぎり時間には間に合い、荷造りしたものをトラックに乗せてもらい、自分は電車で実家へ向かう。
家を引き払い母親の住んでいる街へ向かう。
都会の雑踏はない、のんびりとした田舎へ。
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