第3話 最低最悪の社長
今勤めている会社の契約期間が終わる。
この会社は3年も働いたので、正社員への引き抜きを期待してたがあっさりさようならだった。
期待してただけにがっかりだった。
派遣会社に戻ると、また戻ってきたんどなと笑いながらうちの会社の社長が言う。
「早速、明日からの秘書派遣の依頼があるから行けるか?ただ、ここの社長がくせ者らしく短期間で何人も辞めているみたいなんだ。それもあってか、契約条件はすごいいいのたが。どうする?」
と聞かれる。
どうせ次行くところも決まっていなかったし、契約条件は魅力的だった特に給与は今まで行った会社のどこよりも良い。
お金のためにも、ちょっとぐらい変な社長でも我慢しようと、会社の詳細を見ずに二つ返事で行きますと答えた。
出勤は早速明日からだったので、今日は明日に備えて、寝坊しないように早めにベットに入った。
久しぶりにけんちゃんの夢を見た。
けんちゃんが私の手を引いて、立派な会社の中に入っていく妙な夢だった。
なんだか幸せな気分で目を覚ますことができ、幸先良いスタートに新しい会社への期待が膨らむ。
今日から新しい会社への出勤だ。
どんな社長なのかドキドキする。
昨日寝る前に会社情報はざっと確認して頭に入れてある。大手の自動車部品メーカーのようだった。
海外にも多く工場支社があるから、英語を使う機会もありそうだ。
こういう時、帰国子女で英語がしゃべれることはプラスになることが多い。
新しい会社までは電車で乗り換え無しで行けるから、あれこれ考えているうちに、会社がある駅に着いた。
会社に向かって歩いていくと、想像以上の立派な会社が目に入ってきた。
見上げる程高いビルだった。
こんな立派な会社の社長の秘書が務まるのかしら、こんな立派な会社の秘書に派遣を使うなんてよっぽどここの社長は癖が強くて長続きしないんだなと思うと一瞬不安になったが、ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。
意気込んでロビーに入り、受付で声をかける。
「今日から社長秘書としてやって参りました、秘書シークレット株式会社の澤田と申します。どちらへ伺えばよろしいでしょうか。」
目を奪われる程美人な受付の人が
「確認しますので、少々お待ち下さい。」
というとパソコンでなにやら確認している。
確認が済んだのか顔を上げて
「澤田様、お聞きしております。奥エレベーターより12階社長室へお願い致します。」
と言ってセキュリティーカードを渡してくれた。
私もあれぐらい美人で物腰が柔らかければ、色んな会社から声がかかってたんだろうな、と考えながら首からセキュリティーカードを下げた。
この会社はエレベーターを呼ぶにもセキュリティーカードを使わないといけないようだ。
若干のめんどくささを感じながら、受付で言われたとおり12階のボタンを押した。
あっという間に12階に着いて、エレベーターから降りる。
ここの入り口もセキュリティーカードをかざさないと入室できなかった。
さすが大手の会社はしっかりしているなと感心しながら、カードをかざし中に入って行った。
入室するとすぐに秘書が働いているフロアに繋がっていて、役員達の秘書と思われる人が働いている。
一番近くにいた人に先程受付で言った言葉と同じことを言ってみる。
「今日から社長秘書としてやって参りました、秘書シークレット株式会社の澤田と申します。どちらへ伺えばよろしいでしょうか。」
とても感じの良い女性で年齢は私と同じくらいに見えた。
私の話を聞くと、心配そうな顔をして
「今日からでしたね。聞いております。私は常務秘書の黒田花といいます。よろしくお願いします。まず秘書室の室長を紹介します。」
と言うと、室長と呼ばれる男性の基へ連れて行ってくれた。
花さんは室長に声をかける。
「本日から社長秘書として来て下さる澤田さんがいらっしゃいました。」
と紹介してくれたので、私は慌てて
「秘書シークレット株式会社の澤田と申します。よろしくお願い致します。」と頭を下げた。
室長もまた心配そうな顔になり
「室長の宇佐美です。社長は扱いにくいこともああるかと思うが、よろしくお願いします。」
花さんも室長もまず心配そうな顔をして私を見るので、よっぽどヤバイ社長なのかと心配になってきた。
室長は私の気持ちを知ってか知らずか
「社長に挨拶しに行きましょう。」
と言って着いてくるよう促した。
行く途中でデスクは社長室の前室にあるが、社長が不在の時は秘書室にあるデスクで仕事をしてもいいと教えてくれた。
社長室の前に着くと室長は短く息を吸い込むと、ドアをノックする。
中から「入れ。」と声がすると、室長が着いてきてと言って「失礼します。」と言って中に入って行く。
私も慌ててついていく。
「社長、本日より社長秘書として勤務となります澤田さんです。ここ最近秘書が変わりすぎていて業務にも支障が出ているので、そこのところよく考えてお接しください。」
と最後は語気を強めた。
こんなこと言って大丈夫かしら、と室長を心配しながら
「澤田葵です。本日よりよろしくお願いします。」と頭を下げて挨拶をした。
「澤田葵・・・・・・。よろしく。」と社長が言うのを聞いて、顔を上げて社長を見た。
見た瞬間知り合いなはずはないのに、何故か懐かしい雰囲気を纏った社長に目を奪われた。
どこかで見たことがあるような気がするが、全く心当たりがない。
室長が「では挨拶に伺っただけですので、直ぐ業務の引継ぎがありますので失礼します。」
と言って社長に声をかけ、部屋を出るよう促された。
急いで室長の後を追って部屋を出ようとしたとき「おいちょっと待て。」と社長が声をかける。
室長が「なんでしょうか。」と振り返るも
「おまえじゃない、新しい秘書だ。」
早速なんかしでかしてしまったかと、今の行動を振り返るも挨拶しただけで、失礼なことをしたか思いあたらない。
おずおずと「はい、社長なんでしょうか。」と振り返ると、目の前に社長が立っている。
あまりに距離が近かったので、驚いて後退りしてしまった。
「おい、お前。俺とどっかで会ったことあるか?」
と顔をまじまじと見ながら社長は私に話かけている。
私もさっき同じことを思ったが、全く思い出せないので
「多分初めてお目にかかるかと思います。」と返しておいた。
横から室長が「社長、早速変なことを言うのは辞めて下さい。さっき忠告しましたよね。さぁ、行きましょう。」
と言って私の手を引いて、社長室から出た。
社長室から出ると室長が
「社長は口が悪いのですが、根は良い人だから。色々あると思うけど、その時は俺に言ってね。」
と最後の方は砕けた口調になっていたのにはびっくりしたが
「承知しました。」と返事をした。
「早速、業務についての説明をするからこっちへきて。」
と言われ社長室の前室での業務の説明を受ける。
今まで務めてきた会社とシステムはほぼ同じだった。
タブレットで予定管理して、電話応答、お礼状の作成等、特に変わった業務はなかった。
「以前勤めていた会社とほぼ同じ業務内容ですので、問題ないかと思います。不明なことがありましたらご相談させて頂きます。」と言って室長に頭を下げた。
「分かった。来て早々で申し訳ないけど、早速仕事にとりかかってもらっていいかな。」と声をかけると早々に室長は出て行ってしまった。
今社長は部屋にいるから呼ばれたら直ぐ行けるように気を張りながら、タブレットで予定を確認した。
信じられないぐらいびっしりと予定が入っている。
ここの社長は忙しいんだなお気の毒にと心の中で呟くと、早速デスクにある電話が鳴った。
「社長との面会ですね。予定を確認しますので、お待ち下さい。」
急いでタブレットで予定を確認して、面会許可が出ている人か確認する。
「お待たせ致しました。ご希望の日程でお待ちしております。ご連絡ありがとうございます。」
一息ついて電話を置いた。
電話を置いた途端、また電話が鳴る。
来客対応と電話対応であっと言う間に午前中が終わりそうだった。
お昼休憩まで少し時間があったので、午後から社長が使用する資料に目を通すことにした。
資料を見ていると社長の名前が目に入った。
「川崎健太」
けんちゃんと同じ名前だ。
まさかあのけんちゃん・・・・・?
薄れ始めている記憶を手繰り寄せてみるも、同一人物とは思えない。
記憶にあるけんちゃんは優しくて暖かい人だ。
まだ、社長がどんな人か分からないが優しくて暖かい人には思えなかった。
それにこんな偶然があるはずがない。
そんなことを考えていたら、お昼を告げるベルが鳴った。
社長が出てきてから食事に行こうと思って少し待っていたものの、一向に出てくる気配がなかった。
このまま待ち続けてお昼休憩が終わったら、午後体力が持つ気がしないので、社長を待つことなくお昼に行こうと思い席を立った。
後で社長に文句を言われても、待ちましたが出てこなかったので先に行きましたと言おう。
そして明日からはどのようにすれば良いか確認しよう。
昼休憩も前室で待機していなければいけないようであれば、明日から前室でお昼ご飯が食べられるように何か持ってこよう。
そう心に決めて前室を後にした。
秘書室に入ると、今朝一番に声をかけてくれた花さんがまだいた。
花さんが私を見ると席を立ち、
「葵さん、食堂の場所分からないでしょ。私と一緒にお昼行こう。」
と言って可愛い笑顔でこちらに向かってくる。
待っていてくれたことに感動して
「ありがとうございます。実は一人で心細かったんです。お声がけありがとうございます。是非ご一緒させて下さい。」
と言って、花さんについて食堂に向かった。
やはり大企業は違った。
まるでカフェのようなお洒落な食堂でメニューもたくさんある。
しかもお財布に優しい全品300円。
明日から前室でお昼を食べろと言われたら、相当ショックだなと思いながらメニューを眺める。
「葵さん、ここのメニューはどれも美味しいですよ。なかでも女性一番人気はオムライス。トロトロでサラダもついてお得ですよ。」
何を食べようか迷っている私を見て声をかけてくれたようだ。
さすが秘書だけあって心遣いが素晴らしい、私も見習わなきゃと思いながら、オムライスを注文した。
席もたくさんあるので、空いている席に花さんと向かい合わせで席に座った。
「改めて黒田花です。26歳独身、彼氏募集中です。これから一緒に働く同僚として仲良くして下さい。」
「朝から色々ありがとうございます。澤田葵です。私も26歳独身、彼氏募集中です。心強い味方が出来て頼もしいです。これからよろしくお願いします。」
「なんだ同い年なのか。じゃぁ、花って呼んで。仲良くしようね。分からないことがあれば何でも聞いて。敬語もやめよ。お互い彼氏募集中なんだね。」
彼氏がいないことが不思議なぐらい可愛い笑顔だ。
「私のことも葵って呼んで。一緒に彼氏探そうね。」
久々に友達が出来て心が弾むのを感じながら、オムライスを食べた。
「ほんとにこのオムライス美味しいね。
「そうでしょ。女性はよく食べてるの見るよ。私も週1回は食べるかな。ところで今日社長は大丈夫だった。」
「特に何もなかったけど、そんなにヤバイ社長なの?」
「私が入社して4年だけど、一番長持ちした人で10ヶ月かな。一番短い人は1ヶ月で辞めたのよ。あまりにも秘書が変わるから、葵が来るまでは室長が秘書をしてたのよ。」
「なんでそんな短期間で辞めていくの?」
「パワハラとかはないみたいなんだけど、コミュニケーションが取れなくて冷たい人だから、途中でみんな嫌になるみたい。大企業の社長秘書だから、下心をもってくる人も多くてさ。葵はそんなことないよね?」
「私?私は生きるために仕事をするだけであって、こんな条件の良い会社、断られるまでしがみつくつもりよ。」
と笑いながら言うと
「それを聞いて安心したわ。社長は中学校に上がるまでアメリカに住んでいて、少し日本人とは違う感覚を持ってるところあるみたいなのよね。」
アメリカに住んでいたと聞いて、心臓がドクっとなった。
まさかけんちゃんと同じ境遇だとは。
「先代の社長から後を継いで、まだ5年なのよ。先代の社長が体を悪くしたから、若くして社長になったから、気苦労も多くて秘書なんかに気を配ってられないわよね。優しくしているところなんて見たことないわ。葵、そのつもりで接した方がいいわよ。」
優しくないと聞いて、私の記憶になるけんちゃんはとっても優しい人だったから、同じ人なわけがない。
なんでもかんでもけちゃんに結びつける自分が嫌になった。
「今までいろんな会社の社長秘書をやってきたけど、みんな変なひとばっかりだったわ。ある程度耐性がついているはずだから、頑張れると思う。花という心強い味方ができたからね。」
2人で他愛もない話をしながらランチを食べているとあっという間に休憩時間が終わろうとしていた。
秘書室に向かう途中で社内コーヒーショップを見かけた。
「花、先戻ってて。コーヒー買ってから行くから。」
「分かったわ。先に戻ってるね。午後からも頑張ろう。」
可愛いガッツポーズをしてから、秘書室に向かう花を見送ってからコーヒーショップに向かった。
社長がお昼を食べずに仕事をしていたら差し入れしようと思って、コーヒーと軽めのサンドイッチを買って秘書室に向かった。
秘書室に入ると室長がいたので
「お昼休憩ありがとうございました。社長は部屋から出てきましたでしょうか。」
「昼休憩はみんなとるものだから御礼は言わなくて良いよ。社長は部屋から出てきていない。真面目な社長だこと。」
と室長は爽やかな笑顔が話ながら、目は社長室の方を見ていた。
「ありがとうございます。午後も頑張ります。」
「初日だからあんまり無理しないでね。」
室長に頭を下げると、前室に向かった。
マニュアルを見ると、午後が始業したら社長に午後の予定を確認することになっていた。
タブレットで予定を確認していると、午後の始業を告げるベルがなった。
「社長、午後の予定の確認をしたいのですがよろしいでしょうか。」
と大きな音をたてないようにドアをノックした。
「入れ。」
社長から入室許可が出たので「失礼します」と言いながら部屋に入った。
「社長、本日午後の予定確認と午前中に入った予定のご連絡です。」
と言いながらタブレットを見ながら、午後から会食の予定まで告げて、午前中に入った予定も報告した。
「約束時間の10分前に内線させて頂きますが、いかがいたしましょうか。」
それまで書類を見ていた社長が驚いた顔をしながら顔を上げた。
「そんなことしてくれるのは初めてだ。時間管理しなくて良いから助かる。よろしく。
とだけ言うとまた書類に目線を戻した。
聞くべきか迷ったが、聞いておかなければ明日からどうすれば良いのか迷うし、迷いながらお昼を食べるのは嫌だったので
「社長、お忙しいところ申し訳ありません。お昼は前室でとった方がよろしいでしょうか。本日は食堂に行ってしまいましたが、不都合でしたら明日からは前室で食事します。」
と言うと、また驚いた顔をして社長が顔をあげた。
「昼休憩は休憩時間だから、好きなところで過ごせば良い。俺は休憩時間まで拘束するつもりはない。もういいから下がれ。」
と言うと、再び書類に視線を戻した。
私はさっき買ってきたコーヒーショップの袋を社長の机の上に置くと
「それでは失礼します。前室におりますので、ご用がありましたら、お呼び付け下さい。それから、食事をとらないと血糖値が下がり仕事の効率も下がります。眠くならない程度に軽めのサンドイッチを買ってきましたので、お召し上がりください。」
と言うと頭を下げてから、ドアに向かった。
「おい待て。」
前室に向かっていると背中に声をかけられた。
「なんでしょうか。」
振り返って社長を見ると、3度目の驚いた顔でこちらを見ている。
呼び留めたものの、何も言わない社長に再び
「何かご用でしょうか。」と再び声をかけた。
ふと我に返った社長は「すまん、何でもない。下がれ。」
と言って書類に目を落とした。
変な社長というのは噂通りだなと思いながら、午後の業務に取りかかった。
相変わらず電話は多く、まだ繋いで良い電話かそうでない電話かの判断するのに人や業者を覚えていないので、いちいち確認しなければならなかった。
そんなことを繰り替えしえているとあっという間に時間は過ぎていった。
今まで勤めてきた会社の中でも群を抜いて忙しい。
お昼を食べずに社長が仕事をする理由が分かった気がする。
若くして社長になって、さぞかし大変なんだろうに淡々と仕事をこなしていて凄いなぁと感心しながら、時計に目をやると来客時間の10分前だった。
慌てて内線で社長室に繋いだ。
「社長、株式会社山川の専務との会議10分前です。ご来社頂きましたら、社長室にお通し致します。」
「分かった。」とだけ言うと、がちゃんと内線を切られた。
ここで無駄なやり取りをするほど時間がないのは分かっているが、あまりにも適当な対応に少しイラついた。
イライラしながら送られてきた資料を整理していると、来客を告げる内線が鳴った。
慌てて立ち上がり扉を開けて待っていると、颯爽とこちらに男性が向かってくる。
大きい会社の専務ということだから、おじさまが来るとばかり思っていたが、現れたのはパリッとスーツを着こなし爽やかな雰囲気の男性だった。
「こんにちは。約束させて頂いております株式会社山川の藤井と申します。」
これまた爽やかな笑顔で挨拶をしている。
見惚れてはいけないと必死に自分を現実に引き戻し
「藤井様、お待ちしておりました。こちらへお願い致します。」
と言って社長室のドアをノックして扉を開けた。
「久しぶり。今日は時間ありがとう。」
さっきまでの丁寧な感じから、いきなり友達口調で社長に話しかけるので驚いて藤井専務を見てしまった。
「こっちの用事だったので呼び付けてすまん。時間もないし本題に入ろう。」
これまた、社長も砕けた口調なのに驚いて今度は社長を見る。
「相変わらず、せっかちだな。」
と言いながら、会議デスクに向かう藤井専務がおもむろに振り向き
「そういえば、新しい秘書さんだね。健太、今度こそすぐ辞められないようにしないとな。それにしても見た目は地味だけど、素材はかなりいい子だね。」
と言いながら、また足を進めデスクに向かって行く。
私は何のことかわからずその場にあっけにとられて立っていた。
怒ったような顔をした社長が
「いつまで立ってる。下がれ。アイスでブラックコーヒー2つ」
と言った声で現実に戻ってきて、慌てて頭を下げて部屋を出た。
社長と藤井専務が親しげに話しているのにも驚いたし、藤井専務の言葉の意味も理解できなかったし、藤井専務の爽やかなイメージと社長と話している姿のギャップにもびっくりした。
社長のアイスコーヒー2つの言葉を思い出して慌てて給湯室へ向かいコーヒーを準備して、再び社長室のドアをノックして中へと入った。
2人は図面を見ながら話し込んでいて、私には全く気付いていない。
そっと藤井専務にコーヒーとフレッシュと砂糖を出した。
ここで気付いた専務が、顔を上げて
「ありがとう。俺も社長もブラックコーヒーだから。」
と言って砂糖とフレッシュを返してくれた。
優しい口調と柔らかい笑顔に引き込まれそうになっていると
「早く下がれ。」
社長の声で我に返って、慌てて社長のコーヒーを出して部屋から出た。
社長は早く下がれ以外に言えないのかしら、藤井専務みたいに一言優しく言ってくれても良いのにと心の中で盛大に文句を言って、未使用のフレッシュ等を戻すために給湯室へ向かった。
給湯室に入ると花がいた。
「葵、勤務初日に藤井専務に会えるなんてラッキーね。藤井専務はうちの会社でもトップを争うほどの人気なのよ。あの容姿とスペックなのに彼女がいないらしくて、受付の女の子とかも狙ってるって噂よ。だけど、全くなびくことなく女っ気がないのよね。」
花はこそこそ話ながらも手をてきぱきと動かしながら、来客用の飲み物を準備している。
花の話を聞きながら藤井専務を思い出してみると、確かに紳士的な対応で容姿も抜群だ。
社内の人は色めき立つのも分かる気がする。
「確かにイケメンね。社長も藤井専務を見習って、少しは紳士的な対応してくれれば、辞める秘書も減っただろうね。」
と花に話しかけた。
「やっぱり葵も藤井専務がイケメンだと思うのね。今フリーらしいから狙ったら?」
「冗談言わないでよ。そもそも相手にされるわけないし。ほら、準備できたなら、早く行かないと。」
短時間の間に話しながらもあっという間に準備を終わらせる花はさすがと思いながら、給湯室を出て行く花を見送った。
私も返すものは返して、いそいそと前室へ戻っていった。
社長と藤井専務の打ち合わせは思いのほか長引いているようで、中々部屋から出てこない。
その間も電話やメールの対応が続いた。
手元の携帯を見ると、次の予定に時間が迫っていた。
会食の時間を考えると、あと30分で出ないと間に合わない。
あと15分待って出てこなかったら、ノックして次の予定を知らせるべきか。
それとも打ち合わせを中断させてそんなことを言ったら、失礼になるかもしれない。
どうしたものかとあれやこれやと考えていると、15分前になろうとしていた。
カチャっと音がして、ドアが開くのが見えた。
出てきて良かったと思いながら、慌てて席を立った。
相変わらず爽やかな笑顔をした藤井専務と社長が部屋から出てきた。
「藤井様、本日はありがとうございました。帰りのご案内を致しますので、こちらへどうぞ。」
「自分で戻れるからここでいいよ。ところで君はなんていう名前なの?」
と藤井専務が突然聞いてきた。
驚いて答えられず固まっていると、
「澤田だ。」
とぶっきらぼうに社長が答えた。
「苗字なんてどうでも良いんだ。名前はなんて言うの?」
と再び私を見て聞いてきた。
「澤田葵です。本日より社長秘書となりました。ご無礼もあるかと思いますが、よろしくお願い致します。」
「葵ちゃんか。いい名前だね。これからちょくちょく来ることになるから、よろしくね。」
「おい武、会社でふざけるな。俺は次の予定があるから、さっさと帰れ。」
社長はそう言うと、藤井専務の肩を押して出口に向かった。
来るなと言われたが、私も慌ててエレベーターホールへ見送りに行った。
藤井専務がエレベータに乗ると、爽やかな笑顔で手を振っている。
手を振り返すわけにはいかないので、深くお辞儀をしてエレベーターの扉が閉まるのを待った。
エレベーターの扉が閉まった途端、
「藤井に見惚れて秘書としてみっともないぞ。仕事中なんだから引き締めろ。色目を使うな。」
と社長が怒ってきた。
「そのように見えたなら、私の対応が間違っておりました。以後気を付けます。ただ、私が色目を使ったところ、藤井専務は私のことを気にすることもないかと思いますし、私もそんなつもりは1㎜もありません。」
「そんなことより次の会食までに時間がありません。下に車を呼んでありますので、直ぐに準備して出発して下さい。」
いきなりの社長の言葉にかちんときたので、一言多いかなと思いながらも言いたいことは言って、次の予定を知らせた。
初日にこんなこと言ってクビと言われてもしょうがないかと、半分開き直っていた。
社長は少し驚いた様子をしたものの、何も言わず社長室に戻って行った。
直ぐに鞄を持って出てきたので、この後会食する方の情報を簡単に説明しながらエレベーターを待った。
社長がエレベーターに乗り扉が閉まるまで、先程と同様深く頭を下げて見送った。
扉が閉まるのを確認すると、一気に体の力が抜けるのを感じた。
長い一日だった。
初日なのに色んなことが起こり過ぎて疲れた。
思い返すのも嫌で早く家に帰ってゆっくりしたかったので、急いで社長室に残っていた空のコーヒーカップを片付けて、明日の予定を確認して帰る準備を始めた。
ふと、こんな直ぐ帰っても良いものかとこっそり秘書室を覗いてみる。
室長以外はみんな帰る準備をしている。
私もみんなと一緒に帰ろうと思い、一人二人と減っていく秘書室に入り、室長に声を掛けた。
「室長、社長が会食に向かわれました。本日の業務についてはタブレットにてご報告致しました。本日は失礼させて頂いてもよろしいでしょうか。」
「澤田さん、ご苦労様。君は優秀な秘書だね。これからよろしくね。社長は決して悪い人ではないから、明日からもよろしくね。それからうちの会社は基本みんな定時で帰るから、よほどのことが無い限り、気にせず帰っていいからね。」
室長はそう言って、ほとんど誰もいないフロアに目を向けた。
「お疲れ様でした。明日からもご迷惑をおかけしないように頑張りますので、よろしくお願い致します。」
そう言って室長に頭を下げると、自分の荷物を取りに席に戻った。
1分1秒でも早く家に帰って、ゆっくりしたかった。
一目散に会社を出て、電車に乗って家へ向かう。
今日あった出来事を思い返すのも嫌なぐらい疲れていた。
社長が幼馴染のけんちゃんかもしれないと思ったことすら忘れていて、家に着いたら急いでシャワーを浴びて、倒れるようにベッドで眠りについた。
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