第33話

 拍手が聞こえる。割れんばかりの拍手とはこの事だろう。いつまでも鳴り止まなず、ずっと響き続ける。

 今までだって貰い続けてきた。どの舞台でもらう拍手だってどれもが、全て、等しくありがたかった。けれど今日のそれは、少し違う。

 これが自分がもらう最後の拍手なのだ。女優としてもらうのは、これが最後だ。

「八千代さん」

 佐伯に呼ばれ、顔を上げる。

「行きましょう、カーテンコールです」

 彼女が見据える先には舞台が見えた。その先には、袖で今か今かと足踏みをする小春の姿が見えた。

 そうだ。行かなくては。

 最後の舞台。最後まで駆け抜ける。

 八千代は踏み出した。


「本日はご来場いただきまして、誠にありがとうございます」

 礼をした頭上から拍手が聞こえる。

「最終公演ですので、キャストから一言ずつもらいたいと思います」

 名も無い役を演じたキャストたち。その一人一人もこの舞台と真剣に向き合ってくれた。

「じゃあ次、篠田くん」

「はい。本日はご来場いただき、ありがとうございました。...えーっと...」

 八千代は篠田の方を見た。彼がこうして言葉に詰まるのは珍しい、というか、今までに見たことがなかった。

「今回、この役を貰った時と今の心境は少しだけ違います。もちろん、守の人生を生きられたことを誇りに思います。でもそれ以上に、何というか、舞台に立てて良かったと、心からそう思いました。こうして皆様の前に立てること、拍手をいただけること、何もかもがありがたいのだと改めて実感することができた、そんな大切な舞台になりました。ありがとうございました!」

 会場中から拍手が捧げられる。彼にとっても、色々考えることがあったのだろう。小春という存在に一番影響されたのは彼ではないだろうか。おそらく、意識的にも無意識的でも彼女から色々刺激を受けていた。

 役者としても人としても成長した。誰もがそう思うはずだ。

「静香さん」

「はい!本日はご来場いただきましてありがとうございました!そうですね、私からは一言、これだけは言わないとってことがあります。私、この舞台に立てて本当に良かったです。いろんな意味がありますけど、でも純粋にこの舞台が楽しくて、お芝居が楽しくて、役者って楽しいって心から思いました。国塚を演じるって言われた時は、本当は少しだけ怖いと思うこともあったんですけど、それでも今は、国塚を演じるのは私以外にいないって思えるほど、国塚が大好きです!ありがとうございました!」

 その目に浮かんだのが涙じゃなくて良かった。彼女が強い人になってくれて良かった。きっとこれからの芝居にもその強さはいいアクセントになるだろう。隣で見ることはできないけれど、楽しみに待つことにしよう。

 早いもので、あと二人だ。自分を除けば、あと一人。

 隣にいる小春に合図する。小春は小さくうなずいて一歩前へ出た。

「本日はご来場いただき、ありがとうございました。っ...」

 後ろから少しだけ見える横顔に涙が現れた。

 驚きはしなかった。多分、ここにいる全員がそう思っていた。

「...初舞台で、うまく行かないこととか、カンパニーのみんなに迷惑かけることも多くて、それでも、こうして千秋楽まで走りきることができて...本当に嬉しいです。ありがとうございます。みんなのこと大好きです...観客の皆さんも大好きです!ありがとうございました!」

 溢れる涙が美しかった。いつまでたっても、初々しい姿は人の胸を打つものだ。

 涙でつっかえながらもこうして最後まで誰かに伝えられる。そんなこと、なかなかできるものじゃない。100点どころか、120点だ。

 小春が下がり、八千代の番になった。

 最後だ。これで本当に最後。

 最後に言うべきこと。言いたいこと。

 ずっと前から何を言おうか考えていた。けれど答えなんて出なかった。今思えば、出す必要もなかったのだと思う。

 だって。

 こんなにも。

 八千代は静かに、語りかけた。

「本日はご来場いただき、ありがとうございました。楽しんでいただけたでしょうか。もし、この舞台を観て少しでも何かを伝えられることができたのなら、役者冥利につきます。桜と同じく、女優をやってきて良かったなと、そう思います。舞台もですけれど、演劇は人生にとって必要不可欠な存在ではありません。それでもこうしてわざわざ足を運んでくださった。とてもありがたいことです。今日、ここに来てくださった方たちの人生に、ほんの少しだけ、人生って素晴らしい、自分も人生という舞台に登っているのだと思っていただけたなら...それ以上に幸せなことはありません。ありがとうございました」

 深く頭を下げた。なるべく長く、自分の気持ちを表せるような深い礼をした。

 拍手が聞こえる。拍手をしたいのはこちらの方だ。いつまでたっても、役者は観客に勝つことなんてできないと、そう思った。

 顔を上げる。

 なんという感情だろう。

 清々しい。それが一番近いだろうか。

「本日は誠に!」

「「「「ありがとうございました!」」」」

 笑顔と涙で溢れた舞台の幕は、下りた。


 橘八千代の引退が報じられたのは、それから一週間後のことだった。

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