第32話

 初めて台本をもらった日のように毎日のページが捲られた。

 追っていくのが楽しくて、でも結末に近づいていくのが少し寂しくて。

 でも、やっぱり結末を知った後も大好きで。

 ありがとう。小さく呟いていた。


 舞台に立っていた。

 周りを見渡してみると、とても大きな劇場だった。広い舞台上に、八千代だけが立っていた。

 舞台が始まるずっと前、確か企画が動き始めたときだっただろうか。似たような夢を見たことを思い出した。

 小さな劇場で15歳の自分が立っていた。そんな夢だった。

 八千代は両手を前に掲げる。その手は、皺くちゃだった。

 そうか、今回は今の自分なのか。少しだけがっかりしたけれど、不思議とあの時のような嫌悪感はなかった。

 今でも若さには確かに憧れる。体は動くし、体力だって桁違いだ。やれる役柄だって今ほど制限はない。戻れるものなら、戻ってみたくも思う。

 けれど。

 それももう必要ないかもしれない。

 舞台は真っ暗だ。まだ上演前、いや、もしかしたら全て終わった後かもしれない。わからないけれど、なんとなく察しはついていた。

 今の私ができること。今の私がやりたいこと。

 今の私に、届けられること。

 かっと視界が白くなり、八千代は目を開けた。カーテンから太陽が透けてとても眩しい。

 舞台最終日。千秋楽は晴天だった。


「あ、おはようございまーす!」

「おはようございます。最終日、頑張りましょうね」

「楽しみましょうね!」

 劇場につくと仲間たちが迎えてくれた。

 わざわざ最後の舞台、なんていう人はいなかった。そういうのは粋ではないと思ったのだろう。

 それぞれの道を歩み、それぞれの方向を向きながら、それでも同じ目標を見据えて進んでくれた。人間生きてきて色々あるだろうけど、ここまで素敵なものに出会えるのもなかなか珍しい。

 深く息を吸い、答える。

「ええ、もちろん全力で楽しむわ」


 舞台上演に向けてはいつも通りだった。特別な日だからとはいえ、いつもと違うことをすると何が起こるかはわからない。だからこそいつも通りに徹したのである。

 袖に着く。向かいの袖にいる小春の姿が目に入った。

 彼女は集中していた。初日はそこに緊張やら何やらでせわしなさがあったが、もう何回も舞台を踏んでいる、まっすぐに深く集中できているようだった。

 よく成長したと思う。初心者から、ここまで大きな役者に短い期間で、こんなにもだ。

 こうして舞台の上演を待つのはこれが最後だ。最後にこうして後継の成長を見られてよかった。

 彼女だけではない。佐伯も篠田も墨田も、黒木でさえ、全員がこの舞台で大きく羽ばたいた。色々なことをそれぞれが抱えて、それでも折れることなく進んできた。

 そして、八千代自身も。

 今のこの気持ちを全て届ける。そのために、この舞台に立つ。それが私の生き様で、人生だから。

 舞台は私の人生。

 前を見据える。広がる舞台は、不思議と初めて立った舞台と重なって見えた。

 舞台の幕は、上がった。


 芝居への熱はとっくになくなった。いや、正確にいえば、芝居を享受することに対しての熱が、である。

 佐伯や篠田が言う。

 もう一度、役者をやってくれ、と。

 その度にお前たちがいい芝居を見せれば戻るかもしれない、なんてことを言ってきた。そういえば、未来のある若い世代が一層熱心に動くことを知っていたからだ。

 自分でも演劇という世界での自分の立ち位置というものをわかっている。それなりに重要な位置にいて、簡単に揺らぐことのないものだと客観的に思う。だからこそ、そうやって若い世代に対して色々言ってきた。

 彼らの成長が嬉しかった。純粋にそう思った。

 そう思うたびに、舞台から遠ざかった。

 もう自分はここに立つべきではない。ここに立つべきなのは、彼らのような人たちだ。

 もう舞台に立つつもりなんてない。そう思っていた。

 けれど、この舞台を通して少しだけ感じた。

 ここにいる役者たちは、なんていい表情をするのだと。

 佐伯や篠田、面倒を見てきた役者たちだ。色々な表情も芝居も知っている。けれど、そのどれよりもいい表情で、いい芝居で舞台に立っている。もちろん、演出は自分だ。脚本だって自分で書いて、誰よりもこの物語を知っているはずだ。けれど、なぜかいつも初めて観るように役者たちを見ていた。

 そして杉野小春の存在だ。彼女の技術が高いことはもうずっと前から知っている。けれど、そんなことがどうでもよくなるほどに彼女は表現を見せてくれる。舞台上で彼女が歩く姿はまさしく、役の人生を生きている姿だった。稽古場にいるときはさほどでもなかったのに、実際の舞台に立つ彼女の姿に誰もが驚愕した。

 彼女のような人はごくたまにいるのだ。何十年かの間に突然現れる。彗星、というのが表現としては適切だろう。けれど、彼女はそんな輝きではない。圧倒するような輝きではなく、いつの間にかそこに現れて包み込み、通り過ぎた後に涙が出るような。

 春風のような、そんな人だ。

 誰かとよく似ている。そんな、春風だ。

 舞台の音が聞こえる。もうすぐ、最後の春風が吹く頃だ。黒木は舞台袖へ向かった。


 何度も想像してみた瞬間だった。

 最後の舞台、最終場面の前はどんな気持ちなんだろうか。

 悲しいのか、寂しいのか、それとも歓喜に満ち溢れているのか。色々想像してみたけれど、結局答えは出なかった。

 そして今、ようやくその答えが出た。

 言葉にするにはもったいないくらい、いろんな感情が自分の中に溢れていた。記憶も思い出も、いろんな人の顔が浮かんでは散らばって、一つの感情では言い表す事なんて到底できなかった。

 届ける。これまでの思い全部、余す事なく。

 舞台上へ踏み出した。


『私に私を教えてくれた人、誰よりも大切だったあなた。あなたと紡いだ物語はこの世界のどんな物語よりも温かかったわ』

 和彦。何よりも大切だった人。

『たとえ喝采を浴びることはなくても、どれだけ陳腐と言われても、私にとってはどんな名作よりも美しく朽ちることのない傑作なのよ...二人で紡いでいく物語がこの世界の何よりも素敵な物語よ』

 いつになっても、たとえこの世から二人が消えてしまってもそれはずっと変わらない。私が覚えている限り、永遠に朽ちることはない。

『だから、もっと長く続いて欲しかった。一生をかけて私を書いてくれるって言ったのに、どうして先にいなくなってしまったの?』

 悲しい。今だって悲しいのだから、その時までずっと悲しいのだ。

『あなたがいない私は、誰が書いてくれるの?もっと一緒に居たかったわ』

 来世もまた、なんてあまりにも陳腐で。けれど、それ以上に似合う言葉なんて存在しないのも事実だ。

『あなたもいない、舞台に立てない私は、一体誰なのかしらね。こんなこと、考えるとは思わなかったわ。だって、こういうのって思春期に考えることでしょう?自分が誰なのか、自分らしさって一体なんなのかなんて、経験がどうにかしてくれるのに、私にはその経験がなかったのね』

 実際、普通の人生ではなかったとは思う。もう少し、器用で穏やかな人生もなかったわけではないのだろう。

『舞台に立つことと彼の隣にいることだけが私だった。その両方を失った私は、私じゃない』

 私もそうなるだろうか。明日から、そうなってしまうのだろうか。

『こんなことになるのなら、女優を選ばない方が良かったのかしら。もしあの時、オーディションに落ちたことをそのまま受け止めて、そうね...どこかで新しい人生を始めるっていうのもあったのかもしれないわ。そしたら、また未来も変わっていたんでしょうね』

 女優をやっていなかったらできたこと。きっと無限にあるだろう。

 けれど。

『でも、そしたら守さんには会えなかったのね。それは大変だわ。国塚さんにも会えなくて...それも惜しいわ』

 和彦も、黒木にも会わなかった人生。

『それに他の役者さん、監督さん、スタッフのみんな...女優じゃなければ出会えなかった』

 佐伯や篠田、そして小春。マネージャーやスタッフ。そんな人生、考える事なんて出来ない。

『観客の笑顔も見ることができなかったのね』

 観客席の方を見る。最終日だけは、そうすると決めていた。

 目の前に広がる観客席の一つ一つにいてくれる人たち。何よりの支えで、女優をやる意味だった。

『彼らに私の舞台はどう映ったのかしら。素晴らしいと思ってもらえたかしら、それとも、惨めすぎて笑っていたのかもしれないわね...もし...素敵なものに見えていたのなら、女優を選んで良かったといえるかもしれないわね』

 桜は戸惑っていたけれど、八千代の中にその答えはずっと前から出ていた。

『自分を見失ってでも彼らに夢や希望を与えられたのなら、人生を女優に捧げる価値は大いにあったのかもしれないわ。だって、彼らが私を見つけてくれるんだもの。私が私を問うたびに、「あなたは女優です」って教えてくれる。あの人が私を見つけてくれたように、彼らも私を見てくれていたのよ』

 答えはもう、ずっと前からわかっていた。きっと、桜だってそうだったはずだ。

『そうよ、そうよね。彼らに会えたことは、私の人生で最も意味があることだったのよ。あんなに大勢の人に何かを伝えることができるのは、女優しかなかったの』

 あなたが選んできた道は、何一つ間違ってなんかいない。

『やっぱり、選んで良かったのよ。私は女優で良かった。舞台に立って、表現して、伝える。こんなに素敵なことはこの世界に二つとしてないのよ』

 女優でよかった。涙がこぼれても、それだけは言える。

『舞台に立つことが私の人生。私の人生は、舞台そのものだったの』

 心から思う。今までの人生、苦しいことも悲しいこともあった。けれどその全て、無意味なんかじゃなかった。

『産まれて生きて死ぬまで、私は舞台に立ち続けていたのよ。たとえ実際に舞台に立つことはできなくても、私は私という舞台を生き続ける。人生という舞台は、死ぬまで終わることはないのよ。あらすじもセリフも決まっていない舞台よ、結末なんてあるわけないわ。だから生き抜くしかないのよ。たとえ心が挫けても、傷をつけられても、舞台は死ぬその瞬間まで終わりはしない。喜劇か悲劇かなんて、死ぬまでわかりもしない。そんな舞台を、私たちは生きているのよ』

 私だけじゃない。ここにいる全員、いや、生きている全員がその舞台を生き抜いている。時に苦しくても、結末へ向けて全員が歩いているのだ。

『だから、私も生き抜くわ。こんな枯れ果てた体でも、死ぬまでは何もわかりはしないのよ!これからいくらでも喜劇にだってできるわ。私の人生を悲劇なんかにしない...私はやっぱり、ハッピーエンドが好きなのよ』

 ええ。だから、この舞台を悲しいものになんてしない。誰かに夢を与えられるような、そして誰かを救えるような、そういうものにしたいから。

『振り返ったとき、自分が残してきた足跡がひどく醜く見えてもそれを覆すような結末が待っているかもしれない...だから私は舞台を降りたりしないわ。舞台を完成させたところで拍手や歓声をもらえるかなんてわからないわ。でも途中で終わる舞台に与えられた舞台なんてこの世界中を探しても、一つとしてないわ』

 八千代は強く、強く言った。

『私はこの舞台に立ち続ける。だって、女優は私の人生よ』

 もし、生まれ変わっても、きっともう一度この人生を選ぶだろう。

『生きてきたわ、私。でも、まだ終わらせたりはしない』

 終わるわけじゃない。この舞台が終わっても、人生という舞台は続いていくのだから。

『ああ、海が見える。どこまでも広がって空との境界が滲んでいて、あんなにも綺麗だわ。そうだ、せっかくだから夕日を見たいわ。ええっと時間は...あら、もうこんな時間!早く行かなきゃ、日没に間に合わなくなっちゃう!』

 太陽が沈んでいく。光を失い夜がもうすぐ来るのだろう。

 けれど、夕暮れの美しさを失ってもそこには星空が広がる。

 きっとどうなっても、人生は美しいのだ。

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