第31話
拍手が聞こえる。首筋に汗が一筋流れるのを感じた。
視界が暗くなる。それが自分のものなのか、それとも舞台の演出なのか理解するのに少しだけ時間がかかった。といっても、多分コンマ何秒の世界だと思う。
急いで舞台袖にはける。浸る暇もないとはこのことだろう。舞台はまだ終わったわけじゃない。
八千代の出番が始まる。第二幕の後半が始まれば、舞台はようやく終わる。
小春は袖から舞台上を見つめる。その先にはうっすらと明かりがつき、八千代が椅子に腰掛けていた。舞台の始まりと同じような画だけれど、それはもう終わりの場面だと誰もが知っている。
ああ、終わってしまうのだ。そう思った途端、急にこみ上げてくる何かがあった。
だめだ。最終日を迎えるまで、それはしまうと心に決めているのだ。
小春は前を見据えた。その先には、ただどっしりと舞台があった。
見届ける。舞台はまだ、終わっちゃいない。
袖から観る役者の姿がこんなにも眩しいことに気づいたのは今日が初めてだった。もちろん、稽古やリハーサルで何度もその姿自体は見てきた。けれど、観客を前にするのとしないのとではやはり別物だ。今まで見てきたスポットライトのどれよりも眩しく、役者が生き生きとしている。
生きている。舞台も役者もこんなにも生きているのだ。
1秒ごとに移り変わっていく景色と空気、そして感情。その全てが生命力に溢れている。
『私はこの舞台に立ち続ける。だって、女優は私の人生よ』
思わず自分が同じ舞台に立っているのを忘れるほどに、八千代は桜を演じきった。いや、もはやそこに演じたかそうでないかという境界は存在しなかったようにも思える。それほどまでに、彼女の人生そのものだった。
桜がその重たい体を持ち上げて、けれど輝きに満ちた瞳で海を目指す。
彼女が駆け出したとき、舞台の幕は下りた。
拍手が聞こえる。それはずっと鳴り止まなかった。もちろん、小春がその手で奏でるものではなく、もっと大多数の音だった。
しばらくそうしていると、背中をポンと叩かれた。振り返ると篠田が舞台を見据えながら言った。
「カーテンコール。行くよ」
何度も聞いてきた言葉だった。その意味だって十分知っていたし、憧れてもきた。けれど、こうして実際に目の前にするとその意味は少しだけ変わった。
こんなにも嬉しいものだなんて知らなかった。
小春はもう一度、舞台へ向かった。
正々堂々、というと少し違う気もするが、杉野小春として観客の前に出るのは嬉し恥ずかしという感じで、劇中より変な緊張をした。
小春は劇場中を見渡す。たくさんの人の顔をこうして一斉に見るのは生まれて初めてだ。たとえ人前で話すことがあっても、ここまでの規模にはならない。
すごいな、私、こんな人数の前で舞台を一本通したんだ。すごい、すごいや。
小春が浸っていると八千代が進行した。
「それじゃあ私と、それから小春さんからも一言貰いましょうか」
「え!?あ、はい!」
事前に聞いていたのは、八千代だけが一言謝辞を述べるということだった。まさか自分までその役割を担うとは思っていなくて小春は動揺した。というより、少しだけ充電が切れかかっていたのだ。
まずい、何も考えていなかった。小春は高速で頭を回転させる。
「じゃあ、小春さん。どうぞ?」
「はい!えっと...」
簡潔に、けれど感謝を伝えなければならない言葉。だめだ、全く浮かばない。こういう時役者たちは一体なんと言っていただろうか。あれほど見てきたはずなのに、今はその全てを全く思い出すことができなかった。
そんな小春に気がついたのか、八千代が小さく言った。
「大丈夫。素直に話せばいいわ」
八千代は優しく微笑んだ。そのいつも通りの顔に、小春も冷静さを取り戻す。
素直に、今自分が伝えたいこと。
小春はゆっくり話し始めた。
「本日はご来場ありがとうございました。楽しんでいただけたでしょうか...私は...楽しかったです、とても。こうして皆さんにこの舞台を届けられたこと、本当に嬉しく思います」
そこまで言った時、言葉に詰まった。
堰き止めていたはずの涙が急にこみ上げてきた。
「あらあら」
八千代の優しい声が聞こえて、彼女の手が背中をさすってくれた。
それだけではない。会場中から声が聞こえる。拍手も十分すぎるくらいに聞こえた。
まずい、このままでは自分に誓った約束が果たせない。
小春は顔を手であおいでなんとかその熱を冷まそうとした。
「...こうして初日を迎えられたこと、嬉しく思います。ありがとうございました...!」
深々と頭を下げる。その頭上からたくさんの拍手が聞こえた。
頭を上げ、そのまま目線を上にあげる。そうでもしていないと溢れそうだったからだ。
「本日はご来場ありがとうございました。これから一つずつ、この舞台を重ねていきます。千秋楽まで駆け抜けるつもりですので、よろしくお願いします。本日はまことにありがとうございました」
小春のグダついたコメントが嘘のように、八千代がお手本のようにスマートなコメントでその場を締めくくる。
小春は顔を観客に向ける。
きっと忘れない。この先、何があっても今日という日を忘れることはないだろう。
「本日はまことに!」
「ありがとうございました!」
初日の幕が下りた。
舞台は、ここから始まる。
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