第30話

 一幕が終了し、15分の休憩に入った。

 佐伯は楽屋に戻り、肩の力を抜く。一応、国塚の出番はここまでだ。二幕は比較的余裕を持って観ることができる。

 コーヒーを飲みながら一服していると、廊下を黒木が通った。

 佐伯はその姿を追いかけ、後ろから声をかけた。

「おう」

 一言だけそう言ったので、佐伯は思いっきり嫌な顔をしてやった。

「なんだよ」

「はー、黒木さんそういうとこですよ。だから人が寄ってこないんですー」

「いきなりなんだよ。分かりきったこと言うために引き止めたのか?」

「違いますって。なんか言うことないですか」

 黒木は呆れたように頭を抱えた。それに佐伯は胸を張って答える。

「一幕、良かったでしょう」

「褒めて欲しいんだったら諦めな。俺は誰も褒めやしない」

「なんでよ、あんなにいいお芝居したのに」

「自分で言ってるうちはまだまだだ」

「わかってますよ、そのくらい」

 自分の望む芝居を精一杯したつもりだが、それでもここで止まる気はない。そんなこと百も承知である。

「黒木さん」

 佐伯は声を落ち着かせて黒木に向き直った。黒木は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの仏頂面にも似た顔に戻る。

 その真ん中、ちょうどその黒々とした目に向けて言った。

「褒めてくれなくていいです。でももし、この舞台が全部終わったとき、黒木さんの中でこれはいいなって思えたら、その時はもう一度舞台に立ってもらえませんか」

 佐伯の言葉に黒木は一ミリも表情を変えなかった。言葉が響かなかったのか、それとも舞台に立つことはもう二度とないと自分の中で決めているからなのかはわからない。けれど、一瞬たりとも佐伯の視線から逃げることはなかった。

 黒木はその仏頂面を崩し、大きくため息をついた。

「ちょ、なんですかそのため息!私、本気で言ってるんですからね!?」

「わかったわかった。じゃあな、もう二幕が始まる」

「ちょっと!話逸らさないでください!待ちなさいよ!」

 佐伯の叫びも虚しく、黒木は振り返ることもなくひらひらと手を振って何処かへ消えた。うまく逃げられた。

 今度は佐伯がため息をついた。

 楽屋に戻ると、ちょうど舞台が再開する少し前だった。佐伯は飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、静かにその瞬間を待った。

 

 何年か前、そう、確か高校生の時だった。

 私はクラスメイトに恋をした。何気なかった仕草にどうしようもなく惹かれて、気づけば目で追うようになっていた。教室の窓からぼんやりとその人を見つめて授業の内容が頭に入らなかったことなんて何度もあった。

 何度か一緒に話す機会があった。その度にとても緊張して、恥ずかしくて、でもとても楽しかった。

 もしこの人と一緒にいられたら、なんて恥ずかしい妄想を繰り広げた日々もあった。

 でも結局、その人とは何もなかった。なかった、というかできなかった。

 当時、私はオーディションを人生で一番受けていた時期だった。理由はただ一つ、焦り。花盛りとも言える年頃に表に出なければという意思が心を逸らせていた。

 だから恋愛はできなかった。何というか、きっと全くそんなことはないのだろうけれど、恋愛をしていたら夢は叶えられないような気がして。幸せになった自分が別の夢を叶えるなんて、傲慢だと思ったから。

 それに何より、自分の夢をその人に言うことができなかった。思春期とは恐ろしいもので、少しでも自分が受け入れられなかったらなんて考えてばかりで、自分の中で一番美しいものを他人に言うことが度々できなくなる。それがあの時の私だった。

『私の夢は女優』

 彼に言うことができなかった。もし笑われたら、嫌われたら。もし、彼が女優なんて好きじゃないと言ったら。演劇になんてどうでもいいと思っていたら。そう思うと、怖くて言えなかった。

 自分が嫌われることも、自分の好きなものを嫌われることも怖かった。だからあの時、私は彼に何も言うことができなかったし選ぶこともなかった。

 けれど今、私の目の前にいるのはそのどちらでもない。

『早く帰らないと...でも、道がわからないわ』

 迷っていても手を取ってくれる誰かがいてくれる。一緒に迷って、そして導いてくれる、そんな仲間たちがもうこんなにもいるのだ。

『「カオウ劇場」の桜?』

 ここにいる人はみんな、そういう人たちだから。

 あのとき抱いた淡い恋心が悪いものだったわけじゃない。けれど、今はそれよりももっと光るものを見つけてしまった。

 きっと私は恋をしている。役者という人間に。同じ方向を向いて歩いてくれる人たちに。篠田だけじゃない、八千代も佐伯も、黒木もみんな、みんな大好きなのだ。

『ほら、目の前に見えるだろう?』

『あれは...「カオウ劇場」!』

 桜が望んだのは隣に立ってくれる人なんだと思う。女優として、人間としてもあっただろうけれど、多分本質はそこなのだろう。隣に立って、同じ方を見て歩いていける人をずっと、ずっと探していたのだと思う。それが誰であっても、弱さがあっても。

 大丈夫。もう見つけたから。とっくに見つけていたから。

『...それで、結末はどうなるの?』

『まだわからない』

 あのあとここのセリフは変えられた。黒木が小春のアドリブに納得し、そのまま変更したのだ。

『過去や今が人に見せられないものだったとしても、必ずあると思うの。ハッピーエンドへつながるきっかけが。迷っても、嘆いても、きっとある。だからあなたには、そういう作品を書いて欲しい。誰かの道しるべになるような、素敵な作品をね。どうかしら?』

『...悪くないよ』

 彼の評価もまた一つこの作品で変わるような気がする。もちろん、良い方向にだ。

 曲を渡されるとき、墨田に言われた。

『この曲は桜と守を紡ぐ歌なんだよ』

 最初は桜と守の人生を紡いで、結ばれて一つになるということなのだと思っていた。けれど、それではまだ少し足りない。

 桜と守を紡ぐ。桜の弱さと守の弱さを一緒にしてしまう。弱いものと弱いものを合わせたとき、不思議と糸は少しだけ強くなる。この歌はそんな歌なのだ。二人でいることで少しだけ強くなれる、だから意味があるのだと。

 自分の弱さを知っている。そして、彼の弱さも。だからこの歌は愛しくて守りたいのだ。

 歌が終わる。もう小春の出番も少しだけだ。

 終わってしまう。けれど桜には最高の幸せが訪れる。

『やっと来れたよ』

『随分かかったのね』

 セリフの一つ一つ、何一つ落とさない。

『そうかい?君を書くには3年でも短いくらいだ』

『じゃあ、どれくらいあれば十分?』

 あと少し。もうセリフは一つしかない。

『そうだな...一生あれば書き上げられるかな』

 篠田が小春の手をとった。その手が随分と温かく感じた。

『これから死ぬまでのほんの少しの間、一緒にいてくれるかい?必ずいい作品にするよ』

 笑顔だ。笑顔で舞台を去ろう。

『えぇ....もちろんよ』

 杉野小春、初舞台のセリフが静かに放たれた。

 拍手が、聞こえた。

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