第29話
袖から見る舞台がこんなにも独特なものだとは思わなかった。知るはずもなかったから、当然ではあるのだが。
開演5分前だ。
深く息をする。緊張と興奮で胸が高鳴る。感情が溢れて叫び出しそうになる。それを必死に押さえつけながら、その時を待っていた。
劇場入りしたとき、口々に言われた。
『楽しんで』
もちろんそのつもりだった。けれど、自分で思うのと他人に言われるのとではまた少し意味が違う。
大丈夫。言い聞かせていた。
きっと人生で一番長い5分間だ。忘れることもないし、忘れるつもりもない。いつか今日を俯瞰で見られるその日が来たら、誰かに笑って話せるように刻みつけたかった。
ふと顔を上げた時、向かいの袖で八千代が待機しているのが見えた。そこには女優・橘八千代の姿があった。もちろん彼女特有の柔らかな雰囲気を携えているものの、どこか近寄りづらい空気感だ。
私もいつかあんな風になれるだろうか。洗練されて、けれどどこまでも優雅に舞台に立つことが自分にもできるだろうか。きっととても時間がかかるだろうし、そこに絶対なんてないけれど、いつか、その時が来たら。
桜がそうなったように、私もあなたのように。
それがあなたとの約束だから。あなたの人生を生きる。絶対に失ってはいけない約束。
今は無理だろう。けれど、舞台で演じてみせる。
その時、八千代と目があった。
彼女は一瞬、笑った。
幕は上がった。
海が一面に広がった舞台に、安楽椅子に身を預ける老女がいる。彼女は観客席に目を向けることもなく、ただじっと海を見つめていた。
波の音と椅子が軋む音だけに意識が向いたその瞬間、老女が聞き逃しそうなほどの声で言った。
『海が...今日も青いわ...』
その瞬間、劇場中の人間が悟った。
ああ、この人はもう永くないのだと。
力がなく今にも消え入りそうな声、椅子に全体重を任せてただひたすらに波間を見つめるその姿は晩年以外のどれでもない。
橘八千代の演技力に誰もが息を呑んだ。
『生きてきたわ...私』
呟きがこだますると、波の音が劇場中を飲み込んだ。
さあ、今だ。
一歩踏み出し、舞台の中央まで走る。この暗転が明けたときが運命のときだ。
『楽しんで』
不思議と、最後に思い出したのはそんな言葉だった。
暗転が明ける。視界が一気に明るくなり、感じていた体温が人混みに変わる。
『ああ、ごめんなさいごめんなさい!ちょっと通してくださーい!』
ざわざわとした中で、自分の声だけが際立って聞こえた。
これが初ゼリフ、なんてこの時は考える余裕はなかった。
『人の数すごいな...わわ!ちょっと押さないでってば!』
芝居が始まってしまえば、もうそれ以外のことを考える余裕なんてない。小春はすでに桜を写していた。
『おい、見ろあれだ!国塚はるひだ!』
『本物!?本物だ、本物の国塚はるひだ!』
『きゃー!素敵だわ、はるひさーん!』
舞台上の階段に佐伯演じる国塚はるひが現れた。
彼女は群衆に向かって笑顔で手を振る。熱狂する人々の中で、桜だけが呆然としていた。
人混みをかき分け、前に出る。舞台上で一番前、センターが立ち位置だった。その瞬間の景色を小春は一生忘れることはないと察した。
目の前に広がる大きな観客席。その一つ一つに観客は座っていた。観客席は暗いからもっと見えないかと思っていたけれど、そんなことはなかった。
ああ、良かった。
一瞬だけ小春に戻った後、すぐに桜へ気持ちを切り替える。
『....本物だ...本物の国塚はるひ...憧れの大女優...!』
気持ちが溢れる。
不安はもう微塵もなかった。
だめだ、集中しなければならないのに。不思議といろんなことを思い出す。夢を見たあの日、打ち砕かれたあの夜。
『いつか私もあの劇場に立つ!その劇場の舞台で一番光る輝きに、私もなるの!』
ありがとう、あの時の自分へ。今なら迷いなくそう言える。
歌が始まる。桜が目の前の現実ではなく、キラキラと輝く夢を歌った歌。誰にも語ることはできないけれど、それでも失うことのできなかった輝き。それを純粋に、何も気にせず伸びやかに、どこまでも届くように。夢を語ることに資格も権利も必要ない、何よりも自由できらめく歌。
墨田から渡された曲の中で一番好きな曲だった。初めて聞いたときは少しだけ涙が出てしまったけれど、今ならその純粋さを受け止められる。
届けたい、私の夢を。
最初は桜の人生に感動した。自分と少しだけ共通しているな、なんて考えていたけれど、今ではその全てに共感できる。
友達や家族の存在も形こそ違えど、小春の周りにはいつだって存在していた。芝居をする場所がないことだって同じだ。やっと掴みかけた夢が破れたあの日も。何一つ違った事なんてない。
『ありがとうございました。おかえりください』
冷淡な声。不採用通知。手が届かなかった世界。落ち続けたあの日々。
夢は終わった。
涙が音も立てず溢れた。
『ほら、やっぱり夢だった...夢だったのよ。神様は意地悪ね?随分長い夢を見たせいで、自分がそこに行けるような気がしていたの。全く、とんだ迷惑だわ...おかげで、夢がなくなった途端、涙が止まらないじゃない...本当に、困っちゃうわ』
それでもなんとか笑った。あの時だってそうだったから。
『でもほら、私舞台に立ったわ!あれほど憧れた「カオウ劇場」の舞台よ、スポットライトだって浴びたの。夢は叶ったじゃない、何も悔やむ事なんかないのよ。あれほど望んでた事じゃない...そうよ、夢は...』
現実を受け入れる事は簡単だった。それが紛れもない事実だったから。
『夢は...終わったのね』
話すように、呟くように歌を紡ぐ。夢に溢れたあのときに無視していた現実を受け入れてしまった。受け止めきれない現実を歌に乗せて、誰に届ける訳でもない心情を観客に向ける。
感情が落ちるのと同時に照明が落ちる。暗転だ。
舞台を駆け抜ける。桜がその人生を駆け抜けたように、息つく間なんてない。
『あのオーディションは才能を見つけるためのものだったの。でも、今回その才能が見つからなかった。だから合格者はゼロ』
国塚が告げる。
国塚の気持ちをずっと考えていた。一度はだめだと思って不合格にした桜を、どうして彼女はもう一度チャンスを与えたのか。
あの日、八千代と話したときそれがわかった。
八千代が小春を選んだように、国塚も桜を選んだのだ。誰よりも熱量があって、舞台を尊敬していた彼女だったからこそ、彼女は桜に夢を見たのだ。
それは国塚が国民的女優だったからできた事なのだろう。色々なものを見て、経験して、その中で見えたものを踏まえて桜に夢を見出した。
『もう一度、舞台に立ってみたくはないかしら?』
あの日誰かが差し伸べてくれた手。それを今、もう一度信じてみる。
『私...私!この街の生まれで現在中学生兼劇場の清掃員をやっています!だけど...女優を目指しています!精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!』
国塚と桜、佐伯と小春の歌が始まる。一つのショーを見せるように、けれど語らうように音を重ねていく。あの日、最初に心が重なったあの日のような音を再現して伝えよう。
国塚と桜のめくるめく日々は、佐伯との稽古そのものだ。黒木に二人でだめだしされて屋上で語ったあの日、一緒に昼食をとったあの日、がむしゃらにやりきった稽古。彼女がいなければきっとこの舞台までたどり着くことができなかっただろう。
本番前日の稽古終わり、二人で語らうシーンはあの日の屋上を思い出した。
今までずっと佐伯は完璧な人間だと思っていた。舞台に立つ姿はもちろん、最近ではテレビへの露出も増えその全てで活躍する姿に憧れていた。とても要領がよい人間なんだとそう思っていた。
けれど実際はずっと弱い人だった。今までの自分の経歴だって決して華やかなものではないのだと教えてくれた。国塚とは一切違うのだと、そう言っていた。けれど彼女は歩みを止めなかった。
きっと国塚にもあったのだ、その弱さや葛藤は。この世界でなんの弱さも持っていない人なんて存在しない。誰もが苦悩し、何かに怯えている。それを持っていない人は、知らないという弱さを持っているのだ。
『一番好きなことをやってる時が一番自由よ。それは誰であっても変わらないわ』
稽古でなんどもこのセリフを聞いてきた。けれど、今までのどのセリフよりもそれは深く聞こえた。
間も無く第一幕が終わる。始まるまでがどれほど長けれども、進み始めればあっという間だ。
『桜の枝だ。劇場の裏の方に咲いてるだろう?あれを少しもらったんだ。どうしてもあんたにこれを渡したくてね』
桜の枝を見ながら思う。桜が桜という名前をもらったことをこれ以上に感謝した日はないだろう。
そして、小春もまた同じだった。小さな春はようやく訪れ、同じ季節に舞台に立っている。
『ここにできたことで、あんたに出会えた。「カオウ劇場」の「劇団サクラ」にぴったりな女優が生まれたんだ。それもとても素敵な女優になってくれた。ありがとう。君があの時、門を叩いてくれて良かった。心からそう思うよ』
泣くほど嬉しかっただろう。けれど、桜はもう立派に女優だった。
そんな姿に私もなれただろうか。
『まだですよ。まだ私は女優じゃない。舞台に立ってようやく、人は役者になるんだから』
演出上の歓声が響き渡る。
その少し後、喝采が劇場中に溢れた。
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