第28話

 人生史上最高の目覚めだった。これ以上にないくらい布団に戻りたくなかった。

 ついに今日が来た。今日の夕方、舞台の幕が上がる。

 眠っている暇なんか1秒もない。小春は軽快にベッドから起き上がった。

 カーテンを開けるとそこには絵に描いたような青い空が広がっていた。雨だって嫌いではないけれど、なんとなく晴れて良かったなと思う。観客たちの足を考えれば晴れている方がずっといい。

 昨日の夜は眠れなかった。早々とベッドに向かったものの、すぐに眠れるわけでもなく、うんうん唸りながらなんとか眠りに着いた。けれど夢ばかり見て不快眠りに着いたのは一度起きたあとだった。

 最悪の夢だった。小春は舞台袖で出番を待っていた。そしてついにその時が来て、舞台に向かった。眩しいくらいのスポットライトを浴び、目の前に観客席が広がった。しかし、そこに観客の姿は一切ない。がらんとした観客席を前に言葉が出なかった。それでも舞台を続けなければ、という意思はあったため、なんとか言葉を絞り出そうとする。けれど、何百回も何千回も練習してきたセリフが一言も出てこない。ドク、ドクと心臓の音だけがこだまして、息苦しさで目が覚めた。

 最悪の目覚めだったと思う。そう思ったから、一度布団から出て水を飲みにリビングへ行った。

 すでに深夜を回っていたため、当然リビングには誰もいなかった。

 冷蔵庫から水を取り出し、グラスに少しだけ水を入れた。それをぐっと一気に体の中に入れる。焦りで熱くなっていた体から熱が奪われて気持ちよかった。

 明日、というかもう今日だが、人生の夢がひとつ、叶う。不安はある。緊張だってする。でも今更何をしたところできっとこれは拭えないのだと思う。抱えながら舞台に立って、舞台に立つことでしか払拭できないのだろう。

 そう考えれば、今から緊張しているのは体力の無駄だ。そんな風に少しだけ思えてきた。

 グラスをさっと洗って、ペットボトルを冷蔵庫に戻す。

 その時、タッパーに入った様々なおかずが見えた。母の作り置きだった。母は週末にまとめておかずを作るとタッパーに入れていつでも食べられるようにと準備をしている。稽古中、帰りの時間が遅くなることもあったため、疲れた体でも温めるだけで食べられるようにという配慮だった。

 いつもだってありがとうと言いながら温めて食べていた。けれど、今日はそれ以上に何か込み上げてくるものがあった。それでも不思議だ、言葉に出せば、ありがとうしか言えないのである。

 小春は冷蔵庫を閉め、自室に向かう。

 母だけではない。父だって小春を支えてくれた。小春が女優になりたいと最初に言ったのは父だった。その時からずっと支えて応援してくれた。オーディションに落ちた日には、何も言わずに遠くの街へ連れて行ってくれた。そこでぼーっとして、日が暮れたら帰って。それだけで十分で、何よりの励ましだった。

 ありがとう、心から。少しだけ時間がかかってしまった。でも明日、最高のものを見せるから楽しみに待っていてほしい。

 自室に戻った小春は引き出しを開けてあるものを探した。ちょうど一枚、それは見つかった。

 深夜の静けさはそれを完成させるにはちょうど良かった。小春はそれを完成させベッドへ戻った。

 再び横になった時、驚くほど安らかに眠りに着いた。


「それじゃ、行ってきます」

 小春は荷物を持って玄関に立った。

「うん、頑張ってね!」

「楽しんでおいで。父さんたちも観に行くから」

「うん」

 両親は玄関まで来て小春を送り出してくれた。

 小春は靴紐を結び、ドアノブに手をかけた。その時、くるりと振り返って言った。

「そうだ。私の部屋、掃除しておいてくれない?ここ最近掃除できてなくてさ、机の上とか特に」

「えぇ、わかったわ!」

「ありがと、それじゃ、楽しんでくるね!」

 その時の足取りは、きっと世界中の誰よりも軽かったと思う。


 小春を送り出した後、小春の母は娘の言う通りに掃除へ向かった。父はといえばそわそわが止まらずに時間ばかりを気にしている。

「よく堪えたわね」

 その様子がおかしくて、思わず言った。

「本当にね。よくあそこで泣かなかったもんだよ」

「あそこで泣かれたら、小春だって嬉しくないわ。どうせなくなら、幕が開いてからにしてね?」

「もちろん。それまではなんとか堪えるよ」

 強気で夫に言いつつも、本当は自分もなかなかに危なかった。少しでも気を緩めれば滝のように涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた。

 この日がきて本当によかった。途中、小春にとっても自分たちにとって辛い時期があった。彼女に悲しい選択をさせてしまったことだってある。今でも申し訳なく思う。けれど、それが今日、きっと報われるのだ。今日という日を杉野家は一生忘れないだろう。

 そんなことを考えながら掃除機を片手に小春の部屋の前に立つ。随分前に作った桜をあしらったネームプレートはもうすっかり古びていた。

 それを愛おしく思いながらゆっくりと扉を開ける。

 舞台や映画のDVDが並んだ棚や舞台のパンフレットがずらりと並んでいる光景はもうずっと前から変わらない。大人になるに連れて変わった部分もあるけれど、唯一と言っていいほど、変わらないその光景がひどく胸を打つ。

 掃除機の電源を入れ、部屋中をくまなく綺麗にする。送りだすという使命を終えた両親にできるのは、これくらいだろうから。

 一通り掃除機をかけたあと、小春の言葉を思い出した。

 そう言えば、机の上も掃除しておいてほしいと言っていた。

 掃除機の電源を切り、机の上に目を向ける。しかし、そこは大して汚くなっていたわけではなかった。本が二、三冊散らかっているだけだった。

 どういうことだろうかと思いながら、その本たちを棚の上に戻す。その時、本の隙間からパサリ、と何かが落ちた。

 地面に落ちたそれを拾い上げる。それがなんなのかを理解した途端、夫を呼んだ。

「ど、どうした!?」

「ねえ、これ...」

 夫にそれを手渡す。それを見た瞬間、その目はみるみるうちに潤んだ。

 娘の机に置かれていたのは、一通の手紙だった。

 桜があしらわれたその封筒の宛先には、『お父さんとお母さん』と娘の筆跡で書かれていた。恐る恐るそれを開けると、一枚の便箋いっぱいに文字が綴られていた。

 二人で覗き込むようにして、それを読んだ。


『お父さんお母さんへ。

あれほど夢見ていた舞台に、ついに今日立ちます。正直、当日になった今でも実感はないけど、数時間後には立つんだから不思議です。

多分、舞台が始まったら毎日忙しくて伝えられそうもないので、こうして手紙で届けたいと思います。

女優になりたいという夢を応援してくれてありがとう。二人が世界で一番応援してくれたから、夢を見続けることができました。辛い日もあったけど、それを乗り越えてこられたのは間違いなく二人のおかげです。

大学を卒業するまでに結果を出せなければ、夢をおしまいにする。そう告げられたとき、正直ホッとしました。あの時は本当に辛かったから、ゴールが見えて安心してたの。その分、本気で走ることもできたから。だから、あの時の決断を後悔なんてしないでほしい。結果としてあれはむしろよかったことだったから。

今日の舞台に立てば、晴れて私は女優になります。その後はどうなるかわからないけど、当分は女優としてもがいていこうと思います。やっていけるかな?わからないけど、今は少しでも長く舞台に立てるように頑張りたいです。

最後に。きっとこの舞台はいろんな人たちにとって特別な舞台になると思う。お父さんお母さんにとっても特別なものになるといいな。頑張るね!

だからもし、素敵な舞台だと思ったら、最高の拍手を送ってくれると嬉しいです。』


 追っていた文字が霞んで見えなくなるほど泣いた。夫婦揃って、年甲斐もなく。けれどそんなことどうだっていいのだ。

 ありがとうを言うのはこっちの方だ。ありがとう。夢を追い続けてくれて、諦めないでくれて。こんなにも大きな夢を見させてくれて、心からありがとう。

「ダメだ、ここで泣いたら。泣くのは、全部観終わってからだ」

 夫の言葉に頷く。指先で涙を拭いながら、何度も頷いた。

 便箋を封筒に戻し、大切に胸に抱えて部屋を出る。

「よし、願掛けに行こう。芸能の神さまを祀る神社だ!そこに行って、お願いしてこよう!」

「ええそうね!このままじっとしてなんかいられないわ!」

 夫婦は急いで支度をし、そそくさと家を出た。カバンの中には二人分のチケットと、一通の手紙をお守りがわりにして入れておいた。

 大丈夫。小春は心からその舞台を楽しんでくれればそれでいい。心配なんてしないでほしい。どんな舞台だったとしても、誰よりも大きな拍手で応えてみせるから。


 劇場に人が集まってきたのが肌でわかった。空気が段々と人の温度に染まってきているのだろう。

 ああ、始まる。もうすぐ、あと少し。なんだろう、不思議な感覚だ。緊張だってしてるけど、それ以上に逸るこの気持ちが抑えられそうにない。

 楽しもう。一生で一回きりの初舞台を。やれるかな、やってみせるよ。芝居以上に楽しいことなんて、この世にないんだから。

 その瞬間が来る。夢を叶える準備は、もうできた。

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