第27話

「そんじゃあ明日から本番。よろしくお願いします」

 黒木の呼びかけに、全員が声をあげた。

 時はあっという間に進んだ。梅は綻び、桜がその蕾を膨らませ、風は春の訪れを感じさせるほどに暖かくなった。

 ついに明日、舞台が開幕する。小春にとって最初の、そして八千代にとって最後の舞台の幕が開く。

 とはいえ、小春にとっては怒涛の三日間だった。昨日は大学の卒業式、今日は前日リハーサル、そして明日が本番だ。長い稽古があっても、こうして息つく間もなく本番が訪れる。

 正直まだ緊張できるほど実感がない。明日も今までと同じように稽古をするのではないかとそんな気がしてならなかった。

「お、いたいた。小春ちゃん、ちょっとちょっと」

 楽屋でぼーっとしていた小春を佐伯が扉から顔を出して手招いた。

「なんですか?」

「いいからいいから、ちょっとこっちおいで」

「...なんか言い方が怪しい人みたいですよ」

「いいからいいから!」

 半ば強引に楽屋から引っ張り出され、背中を押されながら廊下を歩かされ、部屋にたどり着いた。

「杉野さん入りまーす!」

 佐伯がスタッフ然として言うと、扉が開けられた。

 するとパン、と破裂音がした。思わず衝撃に目を瞑ると、顔に何かが降りかかってきた。それは金や銀のテープだった。

「小春ちゃん、卒業おめでとー!!」

 部屋には墨田や篠田、スタッフが部屋いっぱいに集まっていた。そこには珍しく八千代と黒木の姿も見られる。破裂音の正体はクラッカーだったようだ。

 しばらく呆然としていると、篠田が言った。

「ちょっと、なんかコメントないの?」

「え...あ、ああはい!ありがとうございます!いやほんと、予想してなかったっていうか、ありがとうございます!」

 まさかこんな風に祝ってもらえるなんて思うはずがない。しかもこんなにも大勢の人たちにだ。その中にはとてつもない大物だっているなんて、予想できる方がすごい。

「ほんとはケーキとかもあればよかったんだけど、流石に明日が本番だからね」

 佐伯が言った。それに墨田が付け足す。

「千秋楽が終わったら、またその時に食べようね!だから、ちゃんと成功させてくれよー蒼介!」

「なんで俺...」

 篠田が心底うんざりした顔で言った。その横で八千代が微笑んでいた。

「小春さん、本当に頑張ったと思うわ」

「ほんとほんと。ほら、黒木さんもなんか言ってよ。このとんでもないスケジュールの中で論文完成させた小春ちゃんになんか言うことないの?」

「静香お前な。でもまあ、よくやったよ。これは芝居のことじゃねえ、人として、よくやった」

 黒木がいつものように渋い声で地を揺らすように喋る。演出されている時を思い出して、少しだけ緊張した。

「本来の意味で何かを両立するってことは難しいことだ。芝居はお前さんたちにとってはライフワークで人生そのものだろう。けど、それ以外の人としての成長だって大切なことだ。それをあんたはちゃんとやってのけたんだ。このスケジュールの中でな。誇っていいことだ」

 普段は褒めない黒木に褒められたという事実をすんなりと受け入れることができず、小春はしばし硬直した。じわじわとその実感を得られると、今度は歓喜の叫びをあげそうになった。

「ふふ、タケちゃんも褒めるときは褒めるのよ?」

「私にはいつも厳しい」

「俺も。なんでこうして小春にはみんな優しいんですかね?良くないと思いますよ、成長しない!」

「蒼介、お前はもう少し素直になれ」

「そうだよ、お父さんの言う通り。芝居への純粋さはあるのに、どうしてこうもひねくれてるのかね」

 ギャーギャーと部屋中に声が溢れる。みんなで笑っているこの瞬間がたまらなく愛しかった。

 じんわりとまぶたが熱くなった。けれど必死にそれを押しとどめる。だめだ、こんなところで泣いてはいけない。涙はその時までとっておかなくては。

 千秋楽、大喝采を浴びるまでは泣いてる暇なんかない。


 ぞろぞろと劇場から人が減ってきた頃、八千代は一人、舞台へ向かった。

 広いホールの中を突き進み、最前列中央の観客席に座る。そこから見る舞台はとても大きく見えた。

 明日、この舞台に立つ。今までも何度か立ってきたはずなのに、少しだけいつもより違う感情が八千代の中で渦巻いていた。

 楽しみだと思う。けれど同時にひどく緊張する。そして寂しさもある。いろんな感情が合わさりお互いが膨張して破裂寸前だ。

 するとそこにガチャっと扉が開く音がした。

 八千代は音のした方を振り返ると、そこには見慣れた姿があった。

「あれ、八千代さん?」

「小春さん...」

 彼女は階段を降り、すぐに八千代のいる場所へやってきた。

「八千代さん、どうしてここに?」

「舞台をちょっと見てみたくてね。小春さんこそ、もう帰ったのかと思ったわ」

「いやー、なんか明日本番っていう実感なくて落ち着かなくて。隣いいですか?」

 八千代はもちろん、と言って手で示す。小春は笑顔で応じ席に着いた。

 彼女はそのまま静かに舞台を見つめた。

「見ておきたかったんです。今の自分の目で」

「今の自分?」

「そうです。観客席側にいる自分に見られる舞台は、これが最後ですから」

 杉野小春が観客としてこの舞台を見るのは最後だ。明日になれば、いつだって女優として舞台を見ることになる。なんでもない、純粋な観客として舞台を見る杉野小春は、今日で最後なのだ。

「どう?この舞台は」

「そうですね...なんか変な感じです。ああ、私明日、ここに立つんだなって。頭ではわかっているけど...夢なんじゃないかって思います」

「ふふ、私もそうだったわ」

「八千代さんも?」

 八千代は舞台を見つめ、自分の中の時を巻き戻す。ゆっくり目を閉じ、まぶたの裏にあの頃の舞台を思い描く。

 観客ひとりひとりの顔を把握できるほどに小さかったあの劇場。それでも、60年経った今も片時も忘れることはないあの舞台。

「前日はずっとふわふわしてたわ。舞台を見ては、本当に私がここに?ってずっと思ってた。これまでの稽古も何もかも全部、夢なんじゃないかって。でも、本当に立ってしまうのだから不思議よね」

 緊張する暇もないほど現実感がなくて、でも頬をつねってみればしっかり痛くて。

「私が最初に立った舞台はこんなに大きくなかったけれど、気持ちは一緒だわ。多分、みんなそうなのよ」

「そう思えば少しは楽ですね」

 おそらく小春は実感がないとはいえ緊張しているのだろう。無意識のうちにだが、着々と進む時間に少しずつ緊張している。

「ねえ八千代さん」

 小春が舞台を見つめたまま聞いた。

「なんで引退しちゃうんですか」

 その声にはいつものような元気はない。けれど、決して生気がないわけではなかった。

 八千代もまた舞台に目を向けたまま答えた。

「体力がね、もう限界かなって。今回の舞台も私の出番は極端に少ないでしょう?もうあれが限界なのよ」

 小春は何も言わなかった。言えなかったのか、それとも言う必要もなかったのだろうか、八千代にはわからなかった。

 しばらくして小春はようやく口を開いた。

「明日、楽しみですね」

「ええ。とっても楽しみ。今までで一番かもしれないわ」

「私も、この人生の中で一番楽しみです」

 八千代は微笑み、小春の横顔を見つめた。

 ああ、もしかしてあの時の自分はこんな顔をしていたのだろうか。

 希望に満ち溢れ、けれどどこかで抱える不安もあって。けれどやはり、舞台に立つその瞬間が待ち遠しくてたまらない、子供のように夢を見る瞳。

 こんな人に夢を見せられたのならば、女優をやってきてよかったと思える。

「小春さん」

 呼びかけられた小春は八千代の方を見た。

「いい舞台にしましょうね」

「...はい、もちろんです!」

 今日ここにきて良かった。本当はもっとネガティブな気持ちでこの舞台と向き合うと思っていた。けれど彼女がいてくれたおかげで、あの時の自分を思い出すことができた。

 最初の舞台も最後の舞台も変わらない。不安で、でもそれ以上に楽しみでしょうがなくて。ずっと、ずっと変わらない。

 ありがとう。最高の笑顔でそう言えるように舞台を生きる。

 八千代は見つめる先の大きな空間に誓った。

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