第25話

 帰ろう。今日はもう帰ろう。このまま歩いて帰れない距離じゃない、のろのろ歩けばその内着くだろう。涙はその間に乾かせばいい。

 オーディションに合格したことが嬉しかった。個人的な問題が解決したことはもちろんだけど、それ以上に橘八千代と一緒に舞台に立てることが嬉しくてたまらなかった。

 憧れの存在だった。若い時から舞台女優としてその名を轟かせ、幾つになっても第一線で活躍しているその姿は、女優として一番の憧れだった。そんな人と一緒に舞台に立てる、しかも自分の初舞台に近くにいてくれるなんて、飛び跳ねたくなるくらい嬉しかった。

 けれど今はオーディションに受からなければよかったとすら思う。彼女は優しくて、アドバイスだってしてくれた。それには感謝している。けれど、それでも、舞台から逃げたくてしょうがない。これは彼女のための舞台だ。彼女の最後の舞台、無名の新人、杉野小春の最初の舞台かどうかなんてどうでもいいに決まっている。

 ぼろぼろと涙が溢れる。彼女を責めるつもりも、恨むつもりもない。憎くなんて一切ないのに、それでも自分の栄光が欲しかった。そんな自分も大嫌いだ。どこまでも醜い自分の中の黒い物体が消えないのだ。

 出たくない。もう舞台を降りたかった。自分が出る意味なんてありはしない。

 こんな日が来るとは思わなかった。舞台は小春の人生すべてだった。憧れて、大好きな世界だったのに、やっとつかんだそのチャンスも手放してしまいたい。

 やっぱり自分は女優になれない。やっと結論が出た。事実はきっと、ずっと前から決まっていたのだ。それをこの数ヶ月でようやく証明できた。

 それでもこの舞台は自分が選ばれたのだ。八千代が篠田に言ったように、舞台を降りることは許されない。その舞台が終わるまで、勝手に降りることはできないのだから。

 SHOW MUST GO ON。杉野小春は桜を生き抜く。そしてその女優人生を終えるのだ。

 突然、コートのポケットの携帯が震えた。

 歩みを止め、携帯を取り出すとそこには八千代の名前があった。

 震える手で、応答した。

「もしもし」

『小春さん!?ねえ、今から会えないかしら』

 その声は聞いたことがないくらい焦っていた。少し息も切れていて、いつも穏やかな彼女からは想像できないような声だった。ああ、自分はこんなにも彼女のことを知らないのだと、思い知らされた。

「無理だと思います。私、今どこを歩いてるのかもよくわからないので」

 あたりを見回してみた。車通りも少なく、人の気配はほとんどない。川が流れているのを見かけたので、どこかの川沿いということしかわからなかった。

『わからないって...小春さん、あなた稽古場から帰ってる途中なんでしょう?』

「いやぁ、ちょっと気分良くて、歩いて帰ってみようかな、なんて。川沿いで気持ちいいんですよ。あ、もしかして桜並木かなぁ、あれ。でも、風はかなり冷たいですね」

『女の子が一人で夜道を歩いちゃだめよ...ねえ、どこにいるの?私、今からそこに行くから。携帯で調べてみてちょうだい?』

「行くって...なんでですか。大丈夫ですよ、本当に危なくなったらタクシーで帰りますから」

 自分の口調が強くなっているのに気がついた。

 それに八千代は構うことなく続ける。

『そういうことを言ってるんじゃなくて...あのね、篠田くんたちから連絡があったの。私が引退することを聞いたって』

 再び歩こうとしていた足が止まった。

 ふつふつと腹の方から何かが込み上げてくる。

「聞きましたよ。この舞台が最後なんだって...この舞台で、引退するんだって」

これは紛れもなく、橘八千代の舞台なんだって。

「大丈夫ですよ。私、ちゃんと演じてみせますから。橘八千代の最後の舞台を台無しにしたりなんて、しないですよ」

 努めて笑った。相手に見えるはずもないのに、最高の笑顔で。

「それじゃあ、明日からまたお願いします。大丈夫です、ちゃんと帰りますから」

『待って小春さん。伝えたいことがあるのよ』

 静かに八千代は言った。

 小春は川沿いの道を歩き始めた。すぐそこの小さな橋を渡れば、あとは大通りを進むだけだ。誰であっても心配するような道ではなくなる。

「...なんですか、明日の予定とかですか」

『いいえ、そうじゃないわ。もっと大事なことよ』

「大丈夫ですよ、そんな大事な事、私が背負う事じゃないので」

『小春さん、お願い聞いてちょうだい』

「だって、私には引退のこと教えてくれなかったじゃないですか。私以外のみんなは全員、スタッフさんもマネージャーさんだって知ってたのに、私だけ知らなかったんですから!!」

 静かな道に声が響き渡った。

 もう電話を切りたい。ボタン一つ押せば、すぐに会話は終わらせられる。

「...そんな私に、大事なことを話す必要なんてないですよ」

 携帯を耳から離し、赤い方の受話器をタップした。ぷつっと切れる音がしたのを確認して、小春は目の前の橋を渡ろうとした。

 その時だった。

「小春さん!!」

 声が聞こえた。電話越しではなく、紛れもなく肉声が。

 なんども聞いた声だった。あの舞台からどこまでも届く、まっすぐな声。何度もなんども聞いて、憧れたその声。

 小春は顔をあげ、橋の向こう側にうっすら見えるその人影に目を凝らした。けれど、確認する必要なんてどこにもなかった。

「八千代さん...」

 八千代は携帯をポケットにしまい、徐々に小春に近づいてくる。けれど、それを小春は静止した。

「どうして教えてくれなかったんですか」

 八千代は橋の真ん中の少し手前で止まった。その顔は、不思議と迷いがなかった。

「あなたのためよ」

「ああそうですか。おかげ様で、私は一人孤独を抱えてましたよ。なんで私だけ教えてもらわなかったんだろうって。私だけ、信頼関係を築けてなかったんだって!」

 涙がこぼれ落ちた。悔しくて、寂しくて、悲しくて。

 虚しく響き渡る自分の声が気持ち悪くて我に帰る。もはや、泣いているのか笑っているのかもからなかった。

「ねえ八千代さん、教えてください。どうして、私に言ってくれなかったんですか?私は...八千代さんのこと本気で信じて、頼ってたのに...そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」

 言っている途中で涙が次から次へと溢れてきた。それに八千代はひどく悲しそうな顔をした。

「私、そんなに信頼できなかった?それとも、私が無名の新人だから、言う価値なんてなかった?」

「そんなこと断じてないわ」

「じゃあどうして!」

「あなたには、この舞台を心から楽しんで欲しかったからよ」

 八千代の答えに小春は理解が追いつかなかった。あまりの衝撃に言葉をなくしてしまった。

 うろたえる小春に八千代は静かに頷いて続ける。

「言葉の通りよ。一生で一回しかない初舞台を、心の底から楽しんでほしかった。だから言わなかったの」

「...どういうことですか?」

 震える唇で言った。

「もし、私が事前に引退のことを話していたら、あなたはこの舞台に『私の最後の舞台』として立つと思ったのよ。あなたはとても優しくて自己評価が低いから。でも、せっかくの初舞台をそんな形で立って欲しくない。だって、一生で一回しかない、それも初舞台初主演で日本一の劇場でやれるのよ?どうしてそんな子から楽しみを奪うことができるのよ」

 八千代は一歩小春に近づいた。先程までの嫌悪は、みじんもなかった。

「あのね小春さん。私は、あなたを初めて見たときからずっとあなたのことを信じていたの。ああ、この子が女優になるんだ、って」

「初めて...?」

 八千代は笑みを浮かべながら頷いた。そのまま真っ黒な夜空を仰ぐ。

「オーディションのとき、あなたはセリフを変えたでしょう?それは、役のことを考えていたから。役に寄り添って、その役を生き抜く覚悟があったからなんだって。あのとき、あの場所でそれをしていたのは、あなた一人だけだった。だから私は、あなたを桜に選んだの。自分が生きた道を歩いてくれる人に」

 八千代は微笑みを浮かべていた。今まで見たどれよりも穏やかだった。けれど、小春にはそれがとても悲しいものに見えた。

「亜蓮さんも後藤さんも、二人とも形は違えどいつかは舞台に立つでしょうね。でもね、この舞台に立つのはあなたしかいないの。橘八千代の意志を継いで、その人生を生きていくのはあなただけ。この先、女優としてずっと舞台に立ち続けるのは、あなたなのよ」

 彼女を照らしているのは橋のたもとにある街灯から漏れる光だけだった。けれど、それがとても眩しい。スポットライトのように彼女に降り注ぎ、その表情を一瞬も漏らさないように照らしていた。

「女優の人生は辛くて悲しくて、大変なこともあるでしょう。でもその中であなたはきっと舞台を降りることはない。そう思えたのよ、あのとき」

 すると八千代は両手を差し伸べた。

「ねえ小春さん」

 小春は震える足で前進する。こんなにも一歩の価値が重い日は今までであったのだろうか。

 目の前まで小春が来ると、八千代はにっこりと笑った。

「きっとこれから辛いことも沢山あると思うの。だって、私がそうだったから。楽しいことばかりじゃなくて、本当に辛い日々だってあったわ。でも、それでも、女優を続けてほしい。あなたには、それができるはずだから」

 一つ、涙が頬をつたった。

「私の人生を、生きてくれる?」

 ぼろぼろと、次から次へと涙が溢れて止まらない。声が漏れてそれを抑えて止めるのもできなかった。

 それでも必死に涙を止めた。実際には止めることはできなかったけれど、気持ちの面では止めたのだ。

 顔をあげ、八千代をまっすぐに見つめる。その手をとり、舞台から声を届けるように言った。

「この人生を降りるその時まで、必ず」

 八千代は嬉しそうに笑った。

 川沿いの並木はまだその花をつけない。けれど、街灯の光を浴びた枝の先に、小さく蕾が芽吹いていた。

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