第24話

「どういうことって...小春ちゃん知らないの?」

 墨田が不思議そうに聞いた。小春はそれこそが疑問で頷いた。

「みんな聞いてると思ってたけど」

「知らないです...なんですか最後って...!どういう意味ですか!」

 思わず熱が入り、声を荒げた。しかし、稽古場では他の人たちがまだ稽古をしていることに気づいて慌てて口に手を当てる。

 黒木がこちらをちらと見た。小春は頭を下げると、そのまま舞台の方に向き直った。

「どういうことか教えてください...」

 今度は静かに聞いた。顔はあげられなかった。

 数秒の沈黙があった。それは彼らの動揺だったのだろう。佐伯の不安げな声が耳に入ってくる。

「八千代さんはこの舞台を最後に役者を辞めるのよ。だから、これが最後の舞台ってこと」

 耳を塞ぎたかった。けれど拳にはぎゅっと力が入って、そこまで腕を上げられそうにない。ずきずきと耳に声が入ってくるのを止めることはできなかった。

「この舞台は八千代さんのための舞台なの。だから、キャストも監督もスタッフも全員が八千代さんと縁のある人たち、脚本だって、八千代さんの生涯そのものになってる」

 墨田がいつもの軽快な口調ではなくなっていた。それがとても悲しくてしょうがなかった。

「共演者は全員声がかかった時にそれを聞かされてた。だからこそ、ここまでの長期間で丁寧に作り上げてる」

 少し前までのように篠田のことがひどく嫌いになりそうだった。

 何もかもが受け入れ難かった。八千代が引退することも、この舞台のことも、自分だけ知らされていなかったということも、全部が泣きたくなるほど辛かった。悲しくて頭がぐらつく。顔が重くてしょうがない。

「ねえ、小春ちゃん大丈夫?」

 佐伯の声が聞こえる。けれど、反応ができない。必死にぱくぱくと唇を動かしてみると、ようやく掠れた声が這い出た。

「だい、じょうぶです...」

 

 その日の稽古はなんとかやりきった。やりきった、といえる出来ではなかったとは思うけれど、舞台を止めることはなかったという意味ではやりきったのである。

 あの後、佐伯たちは声をかけては来なかった。おそらく、なんと声をかければ良いかわからなかったのだろう。当然だ、小春自身も、自分になんと言えばいいのかわからないのだから。

 凍える道を一人で歩く。そういえば、帰り道が一人なのは随分と久しぶりな気がした。ここ最近は誰かしらと一緒に帰ることが多かったことにようやく気がついた。

 小春は勘違いをしていた。てっきり、自分はとっくにあの輪の中にいるのだと思っていた。八千代がいて、佐伯と篠田が回して、墨田が盛り上げて黒木が静かに見守っているあの輪の中に、自分も少しは馴染めていたのだと思っていた。

 けれどそれは違った。あれほど信頼していた八千代は、自分にだけ引退の事実を教えてくれていなかった。誰よりも信じて、頼って、憧れていた。けれど、それは失ってしまう。今日と、それから舞台が終わった後にはどちらも失われるのだ。

 涙がこぼれ落ちた。堪えていたはずなのに、寒さに負けて、じわじわと溢れては頬を濡らしていく。止まって、止まってと思ってみても、逆効果だった。

 駅が近くに見える。けれど、それまでに泣き止みそうにない。むしろどんどん悪化していくばかりで、このまま電車に乗る事なんてできなかった。何よりも、人と一緒にいたくなかった。

 小春は駅前の道を曲がり、どこへともなく進み始めた。


 この舞台が楽しみだった。理由はわからないけれど、とにかくようやく自分の実力が認められてやっとその舞台に上がれることが嬉しかった。

 しかも、周りには尊敬する役者たちがいてくれる。安心感と適度な緊張感で毎日が静かに輝いていた。ああ、続けてよかったなと、心から思った。こんな恵まれた舞台、今後どれだけ出られるのだろうか。きっと少ないだろう。そう思った。

 けれどその答えは簡単に出てしまった。突然のつぶやきによって、簡単に答えが出た。

 答えは一回きり。この舞台が、最初で最後だった。

 この舞台はたった一人のために用意された舞台だった。他の誰でもなく、彼女ただ一人のためだけに用意された、最高の舞台だったのだ。それは決して、無名の新人のためなんかではない。橘八千代の引退公演のために設けられた者だった。

 別に自分が彼女より目立つなんて今までもこれからも思うことはない。けれど、それでも、ほんの少しだけ、自分にあたるスポットライトが恋しかった。それを浴びるためにここまで来たのだ。少しくらいわがままを言っても、バチは当たらないだろう。

 けれどそれは、立つ舞台が『普通の舞台』であればの話であった。

 橘八千代の引退。国民的大女優の最後の舞台。その意味合いがじわじわと心を蝕んでいく。むしろ、なぜ今まで気づかなかったのだろうか。普通の舞台よりもずっと長い稽古期間、ここまでのキャストを揃えておきながらそれが実現できたのは、特別な理由があるからに決まっているのに、それに気づかずずっと自分の舞台を通してきた。

 脚本だって不自然なくらい自然に彼女の半生と一致している。初舞台を踏んだ時期も、結婚した相手も、多少の変更があっても彼女の人生そのものじゃないか。

 『STAGES』は、橘八千代のための舞台だったのだ。

 小春は空を見上げた。少しでも涙が流れないように、本能的にそうしていたのだろう。

 冬の夜空は星がよく見えた。星に詳しくない小春でもよく知っている、オリオン座が見えた。確か、一等星と二等星だけで構成された砂時計だったと思う。

 ああ、あの二等星は自分だ。少しだけ輝けても、最高の輝きを放つあの星には届かない。

 涙が一つ、アスファルトの夜空に落ちた。

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