第23話
「そういえば小春ちゃん、大学の方は大丈夫なの?」
稽古の合間に佐伯に問われた。それに小春は胸を張って応える。
「なんとか卒業できそうです」
「あらそう!忙しいのに頑張ったねー!偉い偉い!」
佐伯がワシワシと頭を撫でた。すると、おっと声をあげた。
「あれ、小春ちゃんちょっと髪切った?もう少し長かったよね」
「ああ、桜に合わせてちょっと切ったんです。本番まで少しだけ時間あるので、まだお試しの段階ですけど。メイクさんと一緒に試験運転中なんです」
腰まであった髪は今では背中の真ん中くらいまで短くなっている。
「本番までには髪も黒くしますよ」
「ああ、小春ちゃんは地毛が茶色いもんね。私は逆に髪の長ささえキープすればいいから、今回はちょっと楽だったかな」
こんな話題が上がると、着々と本番に近づいているという実感が湧いてくる。舞台に立つことを想像すると、今から足が震えてくる。けれど、それでもその日が待ち遠しかった。
佐伯とそんな話をしていたところに人影がやってきた。
「お、小春ちゃん!静香もいる。ねえ、八千代さん見なかった?」
墨田は赤い髪を揺らしながら問うた。小春は思考を巡らせてみたが、今日は八千代の姿を見ていなかった。
「八千代さん?そういえば今日は見てないね。ねえ、蒼介、今日八千代さん見た?」
少し離れたところで稽古を見ていた篠田は首を振った。
「今日は八千代さん来ないと思うよ。和彦さんの命日だから」
和彦、という名前に小春は聞き覚えがあった。
橘和彦。それは八千代の夫であり、有名な監督で小春もよく知る人物だった。
「そういえばそうだったね」
墨田が小さく呟いた。
「橘監督か...一緒にやってみたかったけど、それは叶わなかったな」
佐伯が残念そうに言う。そういえば、彼女は橘和彦の演出する舞台には出演していなかった。
「私が勢いに乗ったかなって時に亡くなっちゃったんだよね。もう少し売れるのが早かったら、お目にかかれてたかな」
「そうなんですか...蒼介さんは?」
篠田は稽古から目を離さないまま答える。
「十代の時に一度だけね」
あれほど壮絶な過去を背負っておきながらも名監督と十代の頃に会っていたというのは意外だった。もっと典型的な下積み期間があるものだと思っていた。
そんな心情を察知したのか、佐伯が小春に耳打ちする。
「あいつは結局綺麗な道を歩いてるのよ。他人が見るぶんにはね」
他人が見るぶんには。けれど、本人にとっては血と汗と涙が滲んだ道。世間との隔たりはこうして生まれているのだろう。
ふと小春は自分の道を振り返った。
オーディションを通過し主役に大抜擢。初舞台は橘八千代と黒木威仁のタッグのとてつもなく大きな舞台、周りを囲む役者たちも相当なメンバー。
その事実に、小春は初めて心がざわついた。
静かな部屋に木漏れ日だけが入り込んでいる。とても暖かな光景だけれど、いつにも増してそれが冷たく感じた。
仏壇に手を合わせ、報告する。けれど今日は墓参りにも行くので、朝の挨拶だけを手短に済ませた。
今日という日が毎年怖い。また誰かがいなくなるのではないかと思って怖い。そしてとてつもなく哀しい。いなくなってしまったことを嫌でも再認識してしまうから。
「それじゃ、行ってくるわね。和彦さん」
写真の中の笑顔は、もう動くことはない。
自宅から少し離れた場所にある墓地に八千代は一人で行く。毎年、そこに角田や他のスタッフの姿はない。彼と二人の時間を過ごしたいからだ。
真冬の寒さに震えるけれど、空は雲ひとつない快晴で比較的暖かい。太陽の光というのは、つくづく偉大である。
墓地に人の姿は少ない。これならば、彼と心ゆくまで話ができる。
石に刻まれた橘の文字は、いつ見ても変わらない。いつも違う表情を見せてくれた彼とは全く違った。
誰かが先に来ていたらしい、花は活き活きとして、線香からは細い煙が静かに上がっていた。その光景に八千代は胸が暖かくなった。
八千代も花と線香をあげ、湯飲みには茶を淹れた。傍らにはお茶菓子を置いて、手を合わせた。
「今日はいい天気よ。びっくりするくらい寒いけどね。でも、去年は曇っていたからもっと寒かったわね。それに比べればいいものね」
返答はない。わかっていても、やはり寂しいものである。
「稽古は順調よ。ほら、8月に来た時に行ってた舞台。もうすぐで開演だから、みんな必死で頑張ってるわ。もう少ししたら、劇場に入って稽古も始まるのよ」
木々のざわめきの中に自分の声だけが溶けていく。とても静かで、生きていた時の家の中を思い出す。
「あなたが面倒見てた篠田くんっていたでしょう?彼、また一段階良い役者になって。それに佐伯静香さんっていう女優さんがいるのだけどね?彼女、会わせてあげたかったわ!きっと和彦さんも気に入る役者さんだと思うわ」
光を浴びて墓石がきらきらとひかる。まるで言葉に相槌を打っているようだった。
「そうだわ、小春さんの話をしないとね!私の若い時代を演じる杉野小春さんって子がいるんだけど、その子がとても良い役者さんなの!オーディションのときから素晴らしかったのだけど、実際に舞台に立つとまた違う味を出してくれて。それだけじゃなくて、みんなを良い方向に連れて行ってくれるのよ。篠田くんも静香さんも、彼女に会って成長したと思うわ」
後輩たちの成長にじんわりと熱が灯る。けれど、同時にどうしようもなく哀しみが襲ってきた。
「私、とても充実してるわ。大好きなお芝居をして、支え合える仲間たちがいて。でも、幸せではないの」
冷たい風が八千代の髪を撫でた。
「だって、あなたがいないんだもの。会いたいわ...」
どれだけ満たされても、あなたがいない。今日という日は、それを再確認する日だから、好きではない。丁度四年前の今日、彼がいなくなった。二度と戻ってこない。あの日、あの時間が彼と話した最期の時間だった。その時を思い出しては、後悔するばかりであった。
風が冷たい。もう随分とだ。涙が出そうになるくらいだった。
「そのうちそっちに行くわ。少しだけ、待っていてね」
まっすぐ昇っていた線香の煙がゆらりと大きく揺れた。
「そういえば、なんで八千代さん探してたの?」
佐伯が墨田に聞いた。
「ああ、ちょっとだけ調整したくて。なんか追加で欲しいもんとかあるかなと思って」
「最終調整ってやつね?頑張るねー」
「そりゃもう」
墨田が眼鏡をあげた。どうやら、相当気合が入っているようだ。
けれど、もうそろそろ稽古場での稽古も終わる。もう少ししたら劇場での稽古が始まるのに、そんなに調整をしていて良いのだろうか。
「普段もこんな感じで曲作ってるんですか?」
「いやいや、流石に今回は特別。いつもはもっと早く仕上げるか、そもそも事前に用意してあるから」
墨田は赤い髪をかきあげて小春に答えた。そして、舞台の方を見つめながら言った。
「だって、八千代さんの最後の舞台だもん。気合も入るよ」
その瞬間、時が止まったような気がした。
小春は耳を疑った。
最後の舞台、とはなんだろうか。
「そりゃまあそうよね。私たちだって気合が違うわよ。ねー、蒼介?」
「当たり前だろ。失敗なんてしたら一生後悔する。だから絶対とちるなよ、こは...」
彼らの声が遠くに聞こえる。心臓がばくばくと信じられない音量で音を立てている。
「...どういうことですか」
「え、小春ちゃん?」
答えたのも誰かわからない。そもそも誰に投げかけているのかもわからなかった。
「八千代さんが最後って...どういうことですか」
物語の転換は、突然だった。
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