第22話
小春がスランプを脱し、カンパニーの雰囲気が一層強くなって少し経った。
新しい年がきて、徐々に近づくその晴れ舞台に気が急く。けれど、それも全て愛しいものだった。
「それじゃ八千代さん、また明日」
「お疲れ様でーす」
「お先に失礼します!」
「ええ、また明日」
愛する役者たちに手を振る。これからも、引退した後もこれはずっと続いていくと思っていた。
舞台の本番が近づく。と同時に、八千代の引退ももうすぐだった。
春に始まる舞台が終わるのは、夏の手前。ちょうど小春の誕生日のあたりである。偶然の産物だったが、彼女の記念になるようなことになったよかったとも思う。
稽古場には黒木と知世が何やら話していた。おそらく、曲の最終調整をしているのだろう。
あのあと、知世は凄まじい集中力で一気に曲を書きあげた。度々顔を出しては、自宅兼仕事場に戻り曲を仕上げた。ここ最近は役者、特に初共演の小春と調整をしている。稽古場にもようやく、音が溢れるようになったのだ。
愛おしいと思う。こうして色々な人が同じ方向に向かっていることを。舞台で拍手をもらうことよりも、ずっとずっと守っていきたい景色だった。
「八千代さん、帰りましょうか」
角田が八千代を呼んだ。その声に八千代は頷く。
稽古場を出ると、外は切れるように寒く、体に入ってくる空気が中から体を冷やしていく。めまいがしそうなくらいだ。
「あ、あれ?」
「どうしたの?角田くん」
角田がカバンをゴソゴソと探っていた。しかし、何も獲得しないまま手をカバンから離した。
「落としちゃったかな...すみません、ちょっと中で探してきます。あ、八千代さんは車で待っててくれますか?」
「ええ。見つかるといいわね」
角田の背中を見届け、八千代は駐車場へ向かおうとした。
その時、声が響いた。
「あの、橘八千代さん」
声のした方を振り返る。しかし、あたりはもう随分と暗く、人の姿がなかなか目に入らない。
夜の暗さに怯えながらも、なんとか人の姿を捉えることができた。
その姿に、八千代は覚えがあった。
「あら?あなた...」
コートの上からでもわかる細身の体に長い手足、真っ黒なきらめく髪を垂らした大人びた少女。オーディションの最終選考まで残った、渋谷亜蓮だった。
「少し、お話がしたくて」
さながら黒猫のような彼女は、小さく、そう呟いた。
寒空の中立ち話をするのはお互いの身のために避け、八千代は亜蓮を車の中へ招いた。
正直、彼女に会うことができるとは思わなかった。この舞台を最後にするため、今後共演することは絶対にないはずだったし、それまでの間に彼女と会う機会なんてほとんどないと思っていた。
なんのためにここまで来たのか。それが一番の疑問だった。
車に乗り込むと、亜蓮は小さく言った。
「すみません、出待ちみたいなことして」
俯いて目線は合わせないが、意外とそういうことはちゃんとしているようだった。
「いえ、それはいいのよ。いや、よくはないのだけれど...何か目的があったのでしょう?」
八千代が聞き返すと、亜蓮は口をつぐんだ。そしてようやく口を開くと、
「理由を、聞かせてください」
と言った。弱々しくあるけれど、でも真剣な調子だった。
「理由、ていうと、オーディションのよね」
八千代が聞くと、亜蓮は俯きながら頷く。
「...あの人、さっき建物から出てくるところ見てました。杉野小春さん。桜役の」
そこまで言うと亜蓮は言葉を区切り、一度呼吸を整えた後に続けた。
「あの人が選ばれて、私が落ちた理由を聞きに来ました」
そこでようやく亜蓮は八千代の方を向いた。その目は信じられないほど力強かった。
八千代は静かに答えた。
「あなたは、小春さんが桜なのは反対?」
亜蓮は首を振る。
「いいえ。杉野さんに思うところがあるわけじゃないんです」
「そうなの。じゃあ、どうして?」
「...納得したくないんです」
亜蓮は膝の上で握った拳にぎゅっと力を込めた。
「納得?」
八千代が聞き返すと、亜蓮は冷静さを取り返したように声を落ち着けた。
「杉野さんは、セリフを変えてましたよね」
「ええ、そうね」
「...それが理由ですか」
え、と八千代は声を漏らす。
「セリフを変えたから、杉野さんは受かったんですか」
「そうねぇ、そういえばそうなのだけれど...」
それだけ言うと少し違う気もする。あくまでセリフを変えるというのは手段に過ぎなかっただけである。
「だからと言って、あなたがあの時同じことをしていても合格にはしなかったわ」
「じゃあ、歌の経験がなかったからですか。私に歌の経験があれば、受かっていましたか」
「そんなことはないわね。経験は大した問題じゃなかったから...」
「じゃあなんですか!」
急に声を張り上げた亜蓮に八千代はビクッとした。しかし、亜蓮もすぐに自分がしたことに気づいた。
「すみません...」
「いえ、いいのよ。私こそごめんなさいね、答えてあげなくて。ねえ、亜蓮さん。あなた、どうしてあのオーディションを受けたの?」
亜蓮が八千代の方を向く。その瞳はひどく揺れ動いていた。
この子を初めて見たときもこんな表情をしていた。圧倒的な存在感と恵まれた容姿、けれどどこかでとても脆そうなこの眼。それが魅力的だったけれど、少し不安だった。
この子の内側には一体何が巡っているのだろう。八千代はそれが知りたくてたまらなかった。
亜蓮は八千代から目をそらし、再び俯きながら答えた。
「...親の勧めで受けました」
「そうだったの」
ということは、亜蓮本人には芸能を志す意思はなかったということなのだろうか。
「じゃあ、亜蓮さんは芸能に興味はなかった?」
「いいえ。むしろいつかは、と思ってて...でも」
「でも?」
「自分の力で、なりたかったんです」
亜蓮は悔しそうにそう呟いた。しかし、それも一瞬ですぐに静かな瞳になる。
「変なことを話してもいいですか」
八千代は少し驚いたが、すぐに笑顔で答える。
「ええ、もちろんよ」
八千代の笑みに亜蓮は少し呼吸を整えてから話した。
「私の親は、私を芸能の道に入れるために育てました。小さい頃からダンスを始めて。本当は海外に行ってアーティストにさせたかったらしいんですけど、私はそれが嫌で。だって、なりたかったのは女優だったから」
亜蓮は小さな口で言葉を並べた。その言葉には、今まで以上の熱がこもっていた。
「数年前に言ったんです。私がなりたいのは、女優なんだって。そしたら、どうしたと思います?私を事務所に直々に売り込みに行ったんです、本人の許可もなしに!」
亜蓮の熱が爆発した。狭い車内ではその熱を肌でビリビリと感じる。
「私、私は!自分の力でなりたかったんです!親のサポートなんかなくても、自分だけでやってやるんだって、できるんだって思いたかったから!...それなのに、あの人たちは...!」
その直後亜蓮の目から何かが溢れた。暗い車内ではそれを確認するすべはどこにもない。けれど、それでいいのだと思った。
亜蓮はすぐに袖で目をこすり冷静さを取り戻し、話を続ける。
「だからこのオーディションで証明したかったんです。親に勧められたけど、黒木監督や橘さんみたいな役者さんと一緒にお芝居ができたら、どれだけいいかなって思ったから。...でも、結局受からなかった。あんなに努力したのに、それでも届かなかったなんて、納得したくなくて。だから...」
「直接会いに来た、ってことね」
亜蓮は小さくうなずいた。
亜蓮は終わりかけた会話をもう一度続けた。
「...杉野さん、いい名前ですよね」
「え?ええ、そうね。杉野小春さん」
突然の投げかけに八千代は困惑しながら肯定した。確かに、彼女の名前はとても良いと思うが、それがどうしたのだろうか。
「小春ってすごい可愛い名前だし、今回の桜にもぴったりで...」
「そうね、でも、亜蓮さんの名前だって素敵だと思うわよ?」
八千代が言うと、亜蓮は黙ってしまった。何か地雷になるようなことを言ってしまっただろうか。
しばしの沈黙の後、亜蓮が呟いた。
「私、この名前嫌いなんですよね」
八千代は踏んだ地雷を静かに確認し、謝罪の準備をした。
「あの、ごめんなさいね、でも本当に素敵だと思うわよ?」
「いえ、大丈夫です、すいません気を使わせてしまって...」
沈黙が再び流れる。せっかくできた会話の流れを完全に切ってしまった。
八千代は必死に会話のタネを手繰り寄せた。
「どうして亜蓮という名前なの?」
「外国人みたいな名前にすれば、海外でも活動できるからって親がつけたんです。でも結局、私はアーティストにはならないし...なんのためにこんなハイカラな名前つけたんでしょうね」
アレンならば確かに海外でも通じる名前だ。若い世代にこういう名前が多いのはそういう理由もあるのだろう。
「橘さん、教えてくれませんか」
亜蓮が八千代の方をしっかりと見て聞いた。
「私が落ちて、杉野さんが選ばれた理由」
彼女の目はまっすぐ八千代を捉えていた。そこに弱さはなく、初めて芝居を見たときと同じく、彼女独特の強さを持っていた。それでも、彼女の内側には様々なものが流れている。それを渋谷亜蓮は必死に隠しているのだ。強いという芝居を常にしていたことで、あの演技力が身についていた。
「そうね、杉野さんを選んだ理由は...」
彼女を選ばなかったのは、それが滲みでてしまったからだった。だからこそ、今回は小春を選んだのである。あの場所で小春だけが、それを成していたから。
理由を聞いた亜蓮は、静かに目を閉じた。
「そっか...悔しいけど、納得しますね」
「ご希望には答えられたかしら」
「はい。すみません、稽古終わりで疲れてるところ、しかもいきなり来ちゃって」
「良いのよ。私もおしゃべり相手ができてよかったわ」
すると突然、亜蓮の携帯が鳴った。
「すみません、でても良いですか?」
「ええ」
亜蓮がコートのポケットから携帯を取り出し電話に出た。亜蓮は少し嫌そうな顔をしながらも終始謝罪を繰り返していた。
電話が終わると、亜蓮は言った。
「それじゃあ、私はそろそろ」
「ええ。でも、夜道は危ないわよ?よかったら駅まで送って...」
「いえ、マネージャーさんが近くまで来てるそうなので」
八千代は驚いた。その様子に亜蓮が疑問に答えた。
「あのオーディションの後、声をかけられて。今はそこで面倒見てもらってます」
「ああそうだったの!じゃあ、今後はお芝居を頑張るのね?」
「はい。一歩一歩頑張ります。なので...」
亜蓮は今日一番の真剣な目で言った。
「ご一緒する機会があれば、その時はよろしくお願いします」
八千代はすぐには答えられなかった。が、平静を保ちながら、
「その時は、また」
と小さく答えた。
それからすぐに角田が車に戻って来た。
「いやすいません、なかなか見つからなくて。今、出しますね」
「何をそんなに探していたの?」
「これです」
角田はかばんから一枚の紙を出した。
そこには色あざやかなクレヨンで丸や四角で顔が描かれていた。その横には拙い字で『おとうさん』と書かれていた。
「あら!もしかしてお子さんの?」
「はい。この前もらったんです。何かの表紙に落っことしてたみたいで...」
「それは大変だったわね。取りに戻って正解だわ」
「でも、八千代さんをこんなに待たせてしまったのはダメですよ」
「いいえ、そうでもなかったわよ?」
「え?」
八千代は窓の外に目を凝らした。外には町の灯りがきらきらと輝いていた。それがすごく眩しくて、とても嬉しかった。
「少しお話をしていたら、あっという間だったわ」
「誰とですか?」
角田の問いかけに、八千代はいたずらっぽく答えた。
「秘密」
車はすでに動き出していた。目的地に着くまでは、止まることはない。
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