第21話

 こんなにも不安で、それでも終わってみれば楽しかった舞台は二度目だった。

 思わず込み上げてくる。けれど、それを静かにしまった。

「お疲れさん。じゃあ次...」

 黒木の淡々とした声が拍手とともに聞こえた。まだ稽古中だったことにようやく気付いた。

 舞台を降りた途端、ふっと脱力感が蒼介を襲った。倒れることはなかったが、ふらついたのを横から誰かが支えた。

「大丈夫ですか!?」

 彼女だった。先ほどまであれほど好印象だったのに、今はさほどでもない。というより、やはりまだ苦手かもしれない。それほどまでに舞台中は守に入り込んでいたということなのだろうか。

 蒼介は彼女の手を振りほどきながら体を起こす。

「大丈夫。君が心配するようなことじゃないから」

「そうですか....あの、篠田さん」

 呼ばれて蒼介は杉野の方を見た。その表情は、少々不満げに眉を寄せていた。

「...なに。褒めてもらいたいの?」

「いえ、そういうわけじゃないです。というか、褒めてもらってもおかしくないような芝居、できてました?私」

「あー余計なこと言った!本題に戻そう、何か用?」

「名前です」

「名前?」

 思わず聞き返した。杉野は表情を変えないまま首を縦に振った。

「八千代さんは八千代さん、静香さんは静香さんなのに、なんで私は苗字呼びなんですか?ていうか、苗字ですら呼んでくれないときもあるし!」

 そこで杉野はずいと蒼介に顔を寄せた。蒼介は反射的に仰け反る。

「名前で呼んでくれませんか。せっかく同じカンパニーなのに、他人行儀すぎます。いや、私たちは他人ですけど...でも、それができなくとも、『君』はやめてほしいです」

「君ねぇ...」

「ほら!それです、それ嫌です!」

 癖づいた呼称が口から飛び出る。まるで図ったようで嫌になった。

「何か理由があるんですか?だとしたら、話してください!」

「全く悪い癖だな君のそれは。一回うまくいったからって何度も通用すると思うんじゃないよ」

「話を逸らさないでください!理由を教えて!」

「わかったわかった、わかったから。ちょっと離れてくれない?」

 彼女を手で押しのけると素直に押し戻された。それでもその表情は不満そうなままだった。

 正直このままうまく流そうとも思ったが、先ほどの芝居を思い出し、小さく呟いた。

「別に、君のことを認めてなかったから呼ばなかっただけだよ」

 どこから出てきたかもよく分からない、自分の望んだ最高の形で舞台に立つ新人女優。その実力を認めたくても、認められなかった。

 蒼介はくるりと後ろを向き、杉野に背中を向ける。これ以上は何も言ってやりたくない。口を開けば、何を言うか自分でも分からなかったからだ。

 歩き始める。けれどそれを彼女の声が止めた。

「じゃ、じゃあ、さっきのお芝居はどうでしたか」

問いかけないでほしい。そう思った。答えれば変なことを言いそうな気がする。悪い予感だ。

 けれど、答えないことはできなかった。

「悪くなかったよ、小春」

 ほら、余計なことを言った。


 素敵な日だった。

 もがき苦しんだけれど、また一段階段を上がることができた。

 一歩一歩、進んでいる。憧れた世界は、本当にあと少し。走りきれる体力もまだまだある。

 不安がないわけじゃない。でも、きっとこの人たちと一緒なら大丈夫。小春は心の底からそう思っていた。

 誰かが欠けるなんて考えられない。これからも、ずっとこの人たちと芝居をする世界が続いている。抱えきれなかった夢は、やっと手が届いて、その扉を開くことができた。絶対に終わらせない、終わらないものだと思っていた。

 そんなことを、この時は漠然と、けれど確かなものだと思っていた。

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