第20話

 舞台が始まる。小春は桜へと気持ちを切り替えた。

 休憩の終わり間際に黒木に持ちかけた。もう一度桜と守の場面をやらせてほしいと。黒木は何も聞かずに頷いてくれた。

 八千代と佐伯が心配そうな顔をしながらも送り出してくれた。けれど、小春にその感情は一切なかった。

 やれる。確実に。今ならきっと桜に寄り添える。


 彼女が羨ましかった。初めての舞台がこんなに大きな舞台で、憧れの橘八千代と対をなす役をもらえて、そして何よりも実力だけで選ばれた。だからこそ、自分の力を誇示したかった。

 磨いてきた芝居で見せつけた。けれど結局、彼女の人生という舞台に転機を与えただけで、自分の思い通りには全くならなかった。

 多分こういう人が『本物』なんだ。八千代も静香も彼女の導く方へ進んでいる。そのくせ人の弱いところを簡単に突いてくる。憎くて、羨ましくて仕方ない。

 できそうにない。彼女を導く存在になることは、きっとできない。守のようには、きっとなれない。


 桜が駆けていく。世間との評価に違和感を感じて、どこにも居場所がなかったから、駆け出すしかなかった。そこがどこかなんて関係なくて、ただその場所を逃げるしかなかった。

 桜は等身大の桜を失った。けれど彼はそれが大きかったから走り出した。どちらにしても、私には涙が出るくらい辛いことだった。

『...もう...限界よ。舞台には、立てないわ』

 まだ私には舞台に立てない気持ちはわからない。けれど、あの時のあなたの気持ちはきっとそうだった。

『ここは...どこかしら。それに私、変装道具を持たずに出てきてしまったわ。誰かに見つかりでもしたら大騒ぎになってしまう...!』

 華やかな顔立ちの彼なら、きっとそうなることを危惧したはず。それに、彼は立派に芸能人だ。責任感も人一倍あっただろう。

 ああ、こんな感じなんだろうな。居場所がない、どこへ行っても自分がいないっていうのは。苦しいな、走っただけじゃない呼吸のしづらさがある。それに泣きたいのに泣けない。頭が痛くなってくる。

 辛い、辛い。

 でもふと冷静になる自分もいる。弱音を吐く自分が、急にすごくいやになるから。

『早く帰らないと...でも、道がわからないわ』

 目を閉じる。視界が、真っ黒になった。

『「カオウ劇場」の桜?』

 声が聞こえた。

 ああ、そうか。やっとわかった。だから桜は、彼を選んだんだ。

『やっぱりそうだ、本物!』

 彼、守が桜を捉えたとき、その顔は泣きそうになっていた。

 桜にとって救世主だった守。けれど、守にだって桜は同じくらいの存在だったんだ。

 売れない物書き。いつまでたっても芽が出ず、ずっとこのままだったらと考えることだってあっただろう。部屋から見える大劇場を遠くに見ながら、涙を流した日だってあったんじゃないだろうか。そんな彼が桜を見かけたとき、どんな気持ちだったのか。そんなの、決まっている。

 物語が動き始める。そう思わないはずがなかった。


 怖い。完璧じゃない芝居をするのが。弱い自分を見せるのが。

 彼女の手を引いていかなきゃならないのに、本当は彼女が自分の手を引いている。自分が誰かを導けるような人間じゃないということを、突きつけられているようだった。

『この辺に物書きさんがいるって聞いたのだけれど、今日はいらっしゃらないのかしら』

 絶好調の彼女は、本当に桜だ。少女の桜はどこにもいないし、素人とは思えないほどの風格を漂わせてそこに立っている。こんな人間をどうやって導けばいいのだろうか。

『今日は予定があるんだ。ある女優さんと約束があってね。稽古はいいのかい?それとも、また抜け出してきた?』

『いいえ。もうそんなことはしないわ。今日はちゃんとあなたに会いにきたの』

『そりゃあ嬉しいね。上がってきなよ、いいものを見せてあげる』

『何かしら?』

 桜の手を引いた。その手はじんわりと暖かい。同時に、自分の手がとても冷たいことに気づいた。

 緊張している?

『ほら、目の前に見えるだろう』

『あれは...「カオウ劇場」!』

『そう。ここから劇場が見えるたびに勇気をもらってる』

 劇場は憧れ。そして彼女もその一つ。彼女に憧れて、筆をとった。

『どんなお話を書いてるの?』

『今は男女のロマンスを書いてる。ある売れない作家の男が一人の女性に恋をするんだ。でも、彼女は国を代表する女優で手が届きそうにない。それで作家は彼女が立つ舞台の脚本を書くことで彼女と会おうと決意して...っていう感じ』

『...それで、結末はどうなるの?』

『まだわからない』

 あと一つ、セリフを言えばこの場面を終えることができる。ここまで役に寄り添えなかったのは初めてだ。休憩中のアレを引きずっている。気持ちを切り替えなければ。

 そう思いながら口を開いたとき、声が聞こえた。

『私は、きっとハッピーエンドだと思うわ』

「え?」

 アドリブ。杉野小春はトチる以外で初めてセリフを変えてきた。

 桜と守がお互いの恋心を確認するこの大事な場面で、一体どういうつもりだ?

『人生の結末は決められないわ。でも、せっかく結末を決められるのなら、幸せな方がいいと思わない?』

 彼女は劇場を見据えながら言った。

『過去や今が人に見せられないものだったとしても、必ずあると思うの。ハッピーエンドへつながるきっかけが。迷っても、嘆いても、きっとある。だからあなたには、そういう作品を書いて欲しい。誰かの道しるべになるような、素敵な作品をね』

 これはセリフなのだろうか。それとも、彼女の本心なのだろうか。

 わからなくて、心に沁みた。

 人に見せられない。それが辛くて、苦しくて。けれど、あの時八千代が現れてくれたように変わるきっかけがあるかもしれない。

 そして、彼女が扉を開けてくれたように。

『どうかしら』

 杉野が少し困惑しながらセリフを見失った自分に問うた。ここでオチを作れということらしい。

 ここで言うべきセリフ。守なら、なんと言うか。

 いや、篠田蒼介なら。


「悪くないよ」

 

『「カオウ劇場」、待望の新作は至上のロマンス!』

『作家と女優の身分違いの恋、その結末やいかに!』

 彼らの3年は長かったのか。それともあっという間だったのだろうか。私は、一瞬だったんだと思う。きっと彼と過ごす日々は、ずっとあっという間に時間が流れたはずだから。

 彼が舞台に上がる。その顔は晴れやかで、思わず笑みがこぼれた。

『やっと来れたよ』

『随分かかったのね』

 本当に。随分と長くかかってしまった。もう少しはやく私が踏み込めばよかっただろうか。

『そうかい?君を書くには3年でも短いくらいだ』

 こんな厄介な役者、なかなかいない。その分、優秀な役者ではあるけれど。

『じゃあ、どれくらいあれば十分?』

『そうだなぁ、一生あれば書き上げられるかな』

 舞台で会えて良かった。心からそう思えるくらいに。


『これから死ぬまでのほんの少しの間、一緒にいてくれるかい?必ずいい作品にするよ』

 

『ええ、もちろんよ』

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