第19話

 自分の中から大事なものが剥がれおちていく気分だった。秘密にしていた部分を人に話すことがこんなに厄介なことだったなんて今更気づいた。

 蒼介が隠し続けていた過去を一通り話し終えても時刻は意外と進んでいなかった。当時も今もとても長い時間に感じたのに、結局口にしてしまえば数分の出来事だなんて、世界はあまりにも残酷だ。

 話した相手、杉野小春はしばらく何も言わなかった。言葉が出ないのか、それとも必死に選んでいる最中か、あるいはそのどちらでもなく話を聞き流していたのか。正直蒼介は最後の選択肢が一番救いだった。

 しかしそれは叶わなかったようである。次の瞬間、杉野の顔に現れたのは一筋の涙だった。

「ちょ、なんでそこで泣くんだよ!?」

「篠田さんにも辛い時期があったんだなって...あと話してくれて嬉しくて...なんかダメです...」

 杉野は手で目をこすりその涙を拭う。しかしその水はとどまることを知らずに次々に溢れてきた。その度に杉野はぐしぐしと目元に手を当てた。その仕草を蒼介は止めた。

「こすらない方がいい。ひりひりしてこの後痛い目見るから...ほら、ハンカチかなんかある?それあてときな」

「...ありがとうございます」

 杉野はごそごそとポケットからハンカチを取り出し目元に押し当てた。

「全く、手のかかる子だね君は」

 曇りなく本音が口から出た。

「私だって泣きたくて泣いてるわけじゃないんです。篠田さんのせいです」

「そんなに泣く要素なかったでしょ俺の話...それに、話せって言ったのは君だし」

「それはそうですけど...」

 杉野は押し当てていたハンカチを膝に下ろす。涙は止まったのだろうか。

「私知りませんでした。篠田さんがモデル出身だったこと」

「まあね。君くらい若いと知らない人がほとんどだと思うよ。劇団に入ってからは特段聞かれなければ言わないようにしてるし」

 蒼介はふと空を見上げた。

「でも...今思えばあのマネージャーは有能だったんだと思うよ」

「どうしてですか?」

「結局売れてたわけだしね。モデルとしてそれなりに良い評価を得ていたっていうのは事実だから、あのマネージャーは見る目があったんだよ」

 体が出来上がる中学生の段階でモデルとしての才能を見出し、実際にタレントは高い評価を得た。それは紛れもなく事実で、マネージャーとしてはとても有能な人物ではあったのだろう。

「ただ少し...俺とは合わなかっただけでさ」

 もしあのとき対話をしていたら。あのとき稽古場を飛び出さずに、彼ともっと腹の奥まで話をしていたら、理解してもらえただろうか。社長に直談判に行けば、少しだけ未来は変わっていたのだろうか。

「別にあのときの決断を後悔してるわけではないけど...もう少しうまくやれてたのかなとは思う。大人になったからだけどさ」

 最近昔のことばかりを考える。目の前の仕事が充実している分、考えるのは昔のことばかりだ。暗い過去のことはもちろん、上手くいった仕事でも『ああしておけば』『こうしていたら』と考えては時間が流れる。

 今こうして訳の分からない後輩に弱音を吐いたことも、10年後には後悔することになるのだろうか。さほど時間はかからないか。10分後とかには後悔している気がする。

 急に現実に帰った蒼介はクシャクシャと髪を撫でた。

「あの、質問いいですか」

 さっさと終わらせようとしたのに、杉野はまだ会話を続けたがった。

「静香さんと同期っていうのは、どういうことですか?」

「ああそれ...劇団に入って芝居を始めた時期が同じってだけ。業界にいるっていう意味の芸歴は俺の方が長いけど、そこを含めるのは少し違うような気がして。それに、静香の方が年上だから敬語云々の話も出てさ。めんどくさくてじゃあもう同期でいいやってことになった」

 杉野は納得したような顔で頷いた。

 こうして質問されるのは珍しいことではない。むしろほぼ全員に聞かれることだった。特にモデル時代を知る人にはよく聞かれることがあった。

「じゃあ次、小劇団っていうのは?」

「続けるんだ...」

「はい。お願いします」

 ここまで潔いと逆に清々しい。お互いふっきれたせいで、このままだとクレジットカードの番号も聞かれれば答えてしまいそうな勢いだ。

 理性を立て直しつつ、蒼介は答えた。

「八千代さんが紹介してくれたんだ。信頼できる劇団だからって」

「そこも八千代さんなんですね。だから篠田さんは八千代さん贔屓が...」

「それもあるけど、それは芝居が前提にあるからであって...役者としての彼女を尊敬してるから、少しだけ...って、俺は別に贔屓なんかしてない。篠田蒼介は博愛だから。それが世間の俺の評価なんだから、イメージを壊さないでくれる?」

 そこまで言うと、急に杉野の表情が変わった。真剣な瞳を湛えたその姿に蒼介は言葉を見失う。

 沈黙の後、ゆっくりと口を開いた杉野は言った。

「怖いんですか」

「怖い?」

 質問の意図も意味も読み取れなくて聞き返した。それに杉野は全く表情を変えずに一層まっすぐに蒼介を見据えた。

「さっきも私が『ミュージカルスターの篠田蒼介』の話をしたら露骨に表情変えて...でもイメージを壊すなって言ったり」

 そういえばさっきそんな話になりかけた気がする。

「壊すなっていうなら、あそこでにっこり笑えばよかったじゃないですか。それができなかったのは、嫌だったんじゃないですか?世間の『篠田蒼介』と現実の篠田蒼介は違うから...出来上がったイメージを、評価を壊すのが怖かったんじゃないですか」

 否定したかった。こんな若手に自分の何がわかるんだと言い放ってやりたかった。

 けれど、彼女によって言語化されたそれは、紛れもなく真実で。

「守ってどんな奴だと思う?」

「守、ですか?ええと...」

 急に話題を変えられ杉野は困惑した様子だった。しかし、真剣に考えて答えを出した。

「世間一般から見れば、普通の人なんでしょうけど、私は桜なのでどうしてももっと美化してしまいますね。桜にとっては、人生を救ってくれた人ですから。王子様、みたいな?」

 蒼介は眼前に広がる青を見つめた。どこまでも広がっていく空が、どうにも落ち着く。

「俺はさ、世間からの評価が『王子様』なんだよ。守と逆で。本当の自分はただの人間なのに、そんなありがたいイメージ作られて...」

 二人きりの屋上は静かだ。誰もこない場所でよかった。でなければ、こんな話、一生しなかっただろう。

「ありがたいとは思う。けど、最近少しだけ...疲れてさ」

 プレッシャーだった。プレッシャーになっていた。期待に応えなければと思えば思うほど、偽物のイメージを作り出していく。わかってはいるけれど、止まることはできなくて。いつかそのほころびが暴かれるんじゃないかと怯える日々だった。

「当たってるよ。怖い。怖いんだよ、イメージを壊すのが。せっかく俺のこと認めてくれて、応援までしてくれる人たちのこと裏切るのが、怖くて仕方ない」

 篠田蒼介になりたい。本当の篠田蒼介に。完璧なんかとは程遠い、弱くて暗くて汚い自分になりたかった。

「篠田さんは私より、ずっと桜だったんですね」

 沈黙を破った杉野の言葉に蒼介は顔を彼女の方に向けた。その眼はどこまでも青い空を見ていた。

「話してくれてありがとうございました。私からは、ひとつだけ」

 杉野は立ち上がり空を背景に発言した。

 その姿を、蒼介は一生忘れないような気がした。

「篠田さんは腹黒いし八千代さん贔屓するし、同期の静香さんにも本音で話せないような人ですよ。イメージを壊したくないって怯えるくらいに弱いんです。王子様なんかじゃないし、きっと私の方が強いですよ」

 冬の低い太陽が彼女に重なった。蒼介は目を細める。

「私、今ならやれる気がします。だから」

 杉野の姿が青に溶け込んでいく。けれどどこまでも眩しい。

 いつか見た役者も、こんな風に輝いていた気がする。

「全力でかかってきてください。受けて立ちます」

 挑発的な笑みを浮かべ、彼女は宣言した。

 冬の風が彼女の髪を揺らした。思わず鳥肌が立つ。


 蒼が眩しい。気づかなかっただけで、こんなにも眩しかった。

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