第18話

 7歳の篠田蒼介が憧れたのは画面の中の人物だった。

 親が見ていたドラマをたまたま一緒になって見たあの日、蒼介の心に火が灯った。

 ミステリードラマの犯人役のその人は、悪人だとわかっていながらも視聴者の同情を誘った。

 なんてかっこいいんだろう。

 最初に抱いたのはそんな感情だった。こんなに心惹かれるものは生まれて初めてだ。なろう、自分も。この人のように役職以外の部分を描きだせるような役者に。

 蒼介がなりたかったのは、そんな役者だった。

 夢を抱きながら日々を過ごした蒼介は、中学に入学した頃、街で声を掛けられた。大手芸能事務所からのスカウトだった。

 小学校の頃はサッカークラブが忙しくて芸能活動をすることはできなかった。しかし、今ならば心置きなくできる。蒼介は二つ返事でその誘いを受けた。

「芸能界には元々興味あったの?」

 声を掛けてきた人物はそう聞いた。

「はい!俺、俳優になるのが夢なんです!」

「...そっかそっか。じゃあこれから、その夢のお手伝いをさせてもらうから、よろしくね」

 その時はなんの疑いもなく彼の手を握った。

「蒼介くんは綺麗な顔してるから、まずモデルをやってみようか」

「モデル、ですか。でも俺...」

「うんうん、言いたいことはわかるんだけど、まあいきなりお芝居っていうのも難しいところがあってさ。その前に少し君のことを知ってもらおうっていう感じなんだよ」

 芸能界のことはよく知らない。けれどなんとなくあるものなんだろうとこの時は思った。だから、選択をした。

「わかりました」

 いつか芝居に臨むため、そう思っての決断だった。

 モデルの仕事は順調に進んだ。蒼介自身、新しい経験に悪い気はしなかった。それにいつかは自分のやりたいことができる、そのための下積みなんだということを理解していた。

 しかし、そう言い聞かせられたのも4年が限界だった。

「あの、俺も高校生になったしそろそろお芝居の仕事がやりたいんですけど...」

 あの時声を掛けてきた人は蒼介のマネージャーになっていた。仕事のできる人ではあったけど、蒼介の夢は今まで一度も叶えてくれなかった。

「でも、今の仕事順調じゃないか。もう少し後でもいいんじゃない?」

 いつもこの答えが返ってくる。

「でも、俺芝居がやりたくてこの業界に来たんです。お願いします。必ず結果を出しますから!」

 焦りを覚えていた。モデルとして自分の名前が世間に広がるたび、どんどん道が狭まっているような感覚に襲われていた。

「...わかった。そこまでいうなら、かけあってみるよ」

「...!ありがとうございます!俺、頑張ります!」

 この時はただただ嬉しかった。夢のためにまた一歩踏み出した実感がしていた。

 それから少しして舞台のオーディションがあった。精一杯芝居をした。そのおかげで主役を勝ち取ることができた。

「おめでとう蒼介くん!舞台、頑張ってね!」

 マネージャーの笑顔に蒼介も嬉しくなった。ああ、この人はやっぱり自分の夢を応援してくれていたんだ。疑った自分が愚かだった。そう思った。

 これから始まる。役者・篠田蒼介の物語がわっと始まるんだ。そう実感していた。

 はじめての稽古は大変だった。一人で演技の勉強はしてきたが、誰かと芝居をするという経験はほぼゼロに等しかったからだ。けれど、楽しかった。多分、人生の中で一番駆け抜けた日々だったと思う。

 大変な日々。けれど充実している。体の疲労を愛おしく思った日々だった。

 しかしそれはある日打ち砕かれた。

 いつものように稽古に励んでいたある日、同年代の共演者が廊下で話しているのを見かけた。蒼介は彼らと仲が良かったから、少し脅かしてやろうと思ってひっそりと背後から近づいた。

 そのとき、二人の間に流れる会話を聞いてしまった。

「この前マネージャーさんに聞いたんだけど、今回の主役、土壇場で変わったらしいよ」

「え、まじ?なんで」

「蒼介の事務所の社長が動いたんだって。うちの蒼介を使ってくれって。そんで主役に内定してた子が外されて、蒼介が急遽入ったってわけ」

「まじ?それひどくね?その子どうなったんだよ」

「これはあくまでも噂だけど、これがきっかけで芸能界辞めたらしい」

「おいおいやべぇじゃん。最低だな、蒼介の社長」

「でもよ、蒼介もどうなんだって話しじゃねぇ?このことを知らないならともかく、もし知ってたら...」

「うわ。てかそう考えたら妥当だよな。じゃなきゃ、なんの経験もない蒼介がこんな大きな舞台立てるわけないし。あいつは結局、顔で選ばれたってわけか」

「蒼介の事務所でかいからな、しょうがないよ。せいぜい俺たちは嫌われないように努めようぜ?下手に嫌われたら、今後に影響出るかもしれないし」

「だなー」

 二人は後ろにいた蒼介に一度も気づくことなくその場を去っていった。

 蒼介は彼らと逆方向に思い切り走り出した。そのまま稽古場を飛び出し、まちの中へ逃げ出した。この時の頭の中にはもう舞台のことなんか微塵もなかった。

 悲しかった。辛かった。怖かった。悔しかった。叫びたかった。泣きたかった。逃げ出したかった。実力で選ばれたわけじゃなかった。結局、事務所の思う通りに動かされていただけだった。あいつらが自分に求めていたのは、結局この容姿だけだったのだ。今までもこれからも、ずっとそうだったのだ。初舞台を成功させるため、失敗させないために事務所が動いた。期待値が高かったのは知っていた。けれど、ここまでする必要がどこにあったというのだろうか。一人の役者を潰す必要がどこにあったというのだろう。

 知りもしない街を駆け抜けた。自分が今どこにいるのかもわからないし、行く先もわからない。それでも、あの場所から逃げたかった。一ミリでも遠くに逃げたかった。

 それでも限界は無情にも訪れた。脚が急に動かなくなって転んで無様に地面に突っ伏した。身体の所々に痛みが走って涙が出そうになった。けれど流れるような水分はもう身体に残っていなかった。

 視界がぼやけた。肺が大きく動くのを感じる。その度にどくどくという音が耳元でうるさく鳴った。服の内側で流れる汗が気持ち悪くてたまらない。このまま消えてしまいたいと思った。

「そこのあなた、大丈夫!?」

 遠くから声が聞こえた。声のした方を確認しようとしたけれど、すっかり暗くなった街に佇む人の姿なんて今の蒼介にはできるはずもなく、小さく唸るだけだった。

 つかつかと足音が近づいてくる。なんだか急に眠気に襲われた。

「あらあら...どうしましょう。角田くん、ちょっと来てくれる?あなた、とりあえずお水飲める?」

 優しい声が聞こえた。それがなんとか意識を繋ぎ止めて、視界に色が戻った。

 その人に支えられ何かを口に硬いものがあたり、水が体内に入っていく。すると少しだけ体が楽になった。

 呼吸が落ち着いてきた。視界も徐々に鮮明になっていく。心臓の鼓動は未だに身体中に響き渡っていた。

「どうしました八千代さん...ってあれ?」

「倒れてたのよこの子。大丈夫?あら、あなたもしかして...」

 鮮やかに世界を映し出した視界には、大女優・橘八千代がいた。


 蒼介は軋む体で跳ね上がった。

「た、橘八千代...!?さん!?」

「そうよ思い出したわ!あなた篠田蒼介くんよね!この前テレビで見かけたわ」

 蒼介は慌てて八千代から離れる。さっきとは違うタイプの鼓動が身体中に響いていた。

「もうそんなに動いて大丈夫なの?まあ、血が出てるじゃない」

 蒼介は言われてようやく自分の身体を見つめた。気づけば手のひらも腕も脚も血だらけになっていた。じわじわと痛みを認知し始めた。痛い。

「ねえ、あなたどこからきたの?マネージャーさんは?連絡を...」

「やめてください!」

 八千代の手をがしっと掴んで蒼介は制止した。八千代はとても驚いた顔をした。急に怖くなって、蒼介は腕を離す。

「あ、あの...もう大丈夫なんで...すみません。ありがとうございました」

 蒼介はその場を立ち去ろうとした。体は重いし痛い。それに帰り道もわからない。

「待って。どこか行くにしても、手当てしてからにしましょう?家、すぐそこだから」

 彼女はそう言って、優しく微笑んだ。

 彼女のマネージャーが運転する車に乗って少しだけ走ると八千代の家に着いた。大きな家ではあるけれど、どこか懐かしさを感じさせる家だった。

「入って入って。あ、角田くん、着替え貸してあげてくれる?篠田くんの服、血と汗ですごいことになってるから」

「はい。篠田くん、こっちおいで」

 暖かい灯が満ちる家の中は、外よりもずっと静かだった。けれど、寂しさはどこにも感じない。

 暖かさに触れた瞬間、なぜか涙がこぼれ出した。頬をつたってポタリと地面に落ちていくそれを、止めることはできなかった。

「篠田くん!?」

 角田と呼ばれた男が体を支えてくれた。気づけば蒼介はまた地面に倒れこみそうになっていた。

「もう大丈夫だよ、篠田くん。大丈夫、大丈夫だよ」

 彼は笑っていた。気づけばずっと見ていなかったような柔らかい笑顔だった。彼は蒼介を支えてなんとか立たせて、着替えを用意してくれた。少し大きなTシャツと半ズボンは、肘やら膝やらまでした怪我を手当てがしやすいようにという配慮だった。

 着替えを終えると角田が八千代のところに案内してくれた。八千代は救急箱を用意してソファで待っていてくれた。

「ここ座って?先ずは、その膝ね」

 膝には大きな血だまりができていた。派手に擦りむいたらしい、ずきずきと痛む。

「あの...すみません...」

「謝らないで。こんなに怪我してる子を手当てするのは、当たり前のことよ」

 どこまでも優しい声で八千代は手を動かしながら蒼介に答えてくれた。また涙が出そうになったが、ふと人前で泣くのが恥ずかしくて必死にこらえた。

「体調は悪くない?」

「はい...ちょっと走りすぎただけなので...大丈夫です」

「そう。なら良かったわ」

 膝の絆創膏を貼り終わると、八千代の手がぴたりと止まった。

「この後はどうするの?」

「え...」

「私としては、マネージャーさんに連絡をした方がいいと思うのだけれど。こんなに怪我をしてるなんて、お仕事にも影響が出るでしょうから」

 仕事。そうだった。仕事。舞台。最悪の舞台が待っている。

 けれど。

「もし、あなたがいいって言うのなら、何があったか教えてくれない?」

 もう一度手元を動かしながら八千代が言った。

「話したくなかったら、手当てが終わったら見送るわ。帰りの電車賃くらいは出してあげられるから」

 傷が痛い。体も重い。もう体力なんて一ミリも残っていない。きっとそうだったから、そう呟いたんだと思う。

「俺、稽古場から逃げ出してきたんです」

 誰かに弱音を吐くのは、思い返せばこれが初めてだったかもしれない。


 暖かいココアを入れてきた角田が合流し、蒼介は今日あったことを今日初めて会った大人たちに聞いてもらっていた。それでも、不思議と悪い気はしなかった。むしろあの事務所の人たちよりもずっと話しやすかった。

 一通り話し終えると、手当てはすっかり終わって八千代はココアが入ったカップを口元に運んだ。

「だから俺...マネージャーには連絡して欲しくなくて...」

「そうか...でもね、篠田くん。きっとみんな心配してるよ。僕たちマネージャーにとってタレントっていうのは、何よりも大事な存在なんだよ?仕事でもあるけど、一緒にいる時間が長いと必ず情もわくからね」

 角田に諭され、少し罪悪感が湧いてきた。そう言われてしまうと納得してしまう。

「でも俺...俺がやりたいのは...」

 あそこにいたらきっとずっと芝居ができない。それは何よりも苦しい。

「篠田くんは、お芝居が大好きなのね」

 八千代が静かに言った。蒼介は強く頷いた。

「はい...!だから...」

「それなら、その舞台はどうするのかしら」

「え...」

 八千代の目がまっすぐ蒼介に向けられた。そこにあったのは女優の強さだった。

「その舞台は確かにあなたが立つ為の舞台ではなかったかもしれないわ。でも、もうその舞台に立つのはあなたしかいないのよ。事務所の意向で立たされた舞台かもしれないけれど、もうあなたはその舞台に立ったのよ。途中で降りることは許されないわ。だってそれは、舞台を愚弄する行為だからよ」

 蒼介は先程までの優しさに満ち溢れた八千代から発せられる言葉に驚いた。しかし、それは紛れもなく真実だった。

「舞台を愛しているなら、最後まで立ちなさい。それがどんなに汚い舞台であっても、立ち続けるのが役者よ」

 そこまで言うと八千代は蒼介の傷だらけの手をとった。まだひりひりと痛んだ。

「あなたがなりたいのは、なあに?」

 まっすぐな質問だった。

 ずっと前から思い続けていた答えだ。あの日、テレビの中の役者を観た日からずっと変わらない。

 俺がなりたいものは。

「役者です...俺は、役者になりたい」


 翌日から稽古に復帰した。各方面にありえないほど頭を下げたのはあれが初めての経験だった。最後であると願いばかりだ。

 あの後マネージャーに連絡して引き取りに来てもらった。車中でとてつもなく怒られたけど、正直疲れた体が眠りを求めていたためにほとんど聞いていなかった。

 稽古は今まで以上に集中した。友達だと思っていた彼らにも見くびられないようにと、ひたすら芝居を磨いた。多分、性格が少し歪みはしたけれど、ほぼ問題はない。

 あっという間に時間は流れて舞台を踏んだ。不思議と緊張はしなかった。絶対にやれるという自信があったからだ。

 仕組まれて用意されて、蹴落として立った初舞台。正直、もっと純粋なものに憧れたけれど、ここで舞台を降りるわけにはいかなかった。

 役者・篠田蒼介の物語は始まる。この夢は、絶対に終わらせない。


 千秋楽が終わったあと、退所届を事務所に提出した。そして新たに所属したのは、小さな劇団だった。

 あの日以来、八千代は気にかけてくれて良い相談相手にもなってくれた。その時に彼女が友人から勧められたのがこの劇団だったらしい。

 ここでゼロから全てを始める。舞台だけを磨いていくのだ。それ以外は、何もいらない。

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